葵上 1
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朝の四時、葵は目覚ましに頼らず目を覚ました。布団を抜け出し、カーテンを開けると、外はまだ深い暗闇に覆われていた。
着物を身に纏い、スリッパを履いて、身体が覚えている動きに従い、ほとんど光のない廊下を迷うことなく歩いて練習用の能舞台へ向かった。
袖から足袋を取り出して壁に向かって腰を下ろすと、指先で丁寧に履き、準備を整えてから舞台裏に回って、一礼して左足から舞台に上がった。
乾いた布で檜の舞台を拭く音が暗闇に響いた。音色は目に見えない過去の気配を呼び起こすような余韻を残し、拭き終えるころには舞台の中心に朝の光が差し込み、板を照らした。
その光の中へ足を踏み入れ、両目を閉じて『葵上』の六条御息所の舞を始めた。――舞はこの場所に閉じ込められた孤独を映し出していた。
遠くから誰かに見つめられている気配を感じ、葵は目を開けた。黒い影に向かって進むと、正座し深く頭を下げた。
「おじい様、おはようございます」
頭を下げたままの葵の前に、慶介が近づいた。
「葵、おはよう。頭を上げなさい」
「はい……」
ゆっくりと顔を上げた。
「この家での暮らしは辛くはないか?」
「とんでもございません」
深々と頭を下げた。
「おまえの舞は、悲しみに満ち溢れている」
「申し訳ございません」
葵は間を置いてから顔を上げ、慶介を見つめた。その顔にはどこか幼さが残っていた。
「今夜は山口様の晩餐会だ。おまえも行くのか?」
「いいえ。私は留守番をいたします」
「そうか……。慶之助はもっとおまえに優しくすべきだと思うのだが……」
「とんでもございません。私はこの家に住まわせていただいている身でございます。十分に感謝しております」
葵の母親は美しくて優しい人だった……。
十歳まで大阪で暮らしていた葵だったが、真島家の人間によって突然、母親から引き離され、東京へ連れてこられた。それ以来、一度も会えぬまま母は他界した。亡くなったことも知らされず、真島家では稽古と家事に明け暮れ、何度も死にたいと思った。
血の繋がりは本当に必要なのだろうか。国宝の血が流れているだけで自分に才能なんてあるのだろうか。この暮らしが嫌で嫌でどうしようもなく辛かった。逃げる場所もなく、半ば諦めながらも心の中で「この家で我慢しよう」と決めた瞬間、何かが吹っ切れた。真島家の血が自分にも流れていることを初めて実感した時、心の奥に変化が生まれた。
その変化は目に見えるものではなかった。外見の美しさとは裏腹に内側で膨らんでいく感情は、舞台の陰翳に揺れる光のように繊細だった。やがて深く入り込み、心を満たしていった。誰にも気づかれることのない、個人的で神秘的な領域だった。
――葵はその深みへ、一歩ずつ近づいていた。
「続きの舞を見せておくれ」
「はい……」
葵は立ち上がって舞台の中心に戻り、舞を続けた。
慶介は満足そうに何度も頷いた。




