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黒塚の陰翳  作者: 猫田たい子
第二章
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正尊 7

7


 帰りの新幹線で田中は大倉に声をかけた。余計なお世話だと思いつつも、アキのことが心配だった。

「大倉さん……私はアキさんを危険な目に遭わせた坂本さんが、正直苦手です」

 大倉は無言で田中を見た。

「『ぶっ殺す』なんて……お母さんを殺した犯人に対して、あんな言葉を言わせるなんて……よくないと思います」

 薫が田中を見る目はいつも冷ややかだった。心の奥底まで見透かされているような気がして、目を合わせるのが嫌だった。

「私は……坂本さんが、怖いです」

 大倉が重い口を開いた。

「薫の奥さんもアキちゃんも、あの事件があった当時、心臓こそ動いとったが中身は……もう殺されとったんや。――奥さんが犯人に何されたか、田中、おまえは知っとるか?」

「それは……」

 田中は息を詰まらせた。

「入院先で、奥さんは何度も自殺を図ったんや。それを止めたんは薫や……」

「……でもアキちゃんに犯人を殺すとか言わせるのは――」

「殺すわけないやろ」

 大倉は言葉を遮った。

「生きる希望っちゅうもんはな、必ずしもキレイなもんやない。時にはな、怒りや憎しみ、喪失、絶望のドン底からどうしようもなく生まれてくることもあるんや。犯人に対する復讐心――心にそんな真っ黒な闇ができても、それが被害者家族にとって生きる理由になることもあるんや。その闇が人に誇れるもんやとは思わへん。せやけど、痛みの中でしか見つからへん希望もこの世界には確かにあるんや」

「――坂本さんは……今まで人を殺したことはありますか?」

「はぁ? 田中、おまえ何言うとんねん! あるわけないやろ!」

「だって……」

「俺は薫と約束しとるんや。薫はな、もし人を殺めたら、身辺整理してから俺のところに自首しに来るってな」

「自首ですか……」

「せや。まあ、今は子供もできたし、人殺しは絶対せえへんけどな」

「そうですか……」

「――それに犯人の村木は、癌を患ってて警察病院にいてるんや。もともと無期懲役やから出てくるのも難しい。そんな奴に復讐できると思うか? 薫はそれを分かってアキちゃんに生きる糧だけ持たせとるんや」

「生きる糧……」

「アキちゃんのお母さん、衰弱したまま床の下に閉じ込められたんや。生き埋めや……」

 大倉の問いに、田中は何も答えられなかった。

「もう死ぬって分かった時、人間って最期に何を思うんやろか……」

 田中は真島能楽堂で観た『道成寺』を思い出した。と同時に――葵の母親のことが脳裏を過った。

「――人の気持ちは変わるからな。薫はそれを一番知っとる」

 大倉は田中に断言したが、以前の薫は本当に危険だった。


 教会の日曜学校に通っていた頃、十人ほどの子供がいたが、その中に薫を執拗にいじめる岡崎という男子(12)がいた。

 岡崎は誰にも気づかれないように暴力を振るい、薫の身体には隠れた傷が増えていった。薫は日曜学校の先生にも児童養護施設の職員にも、何一つ訴えることはなかった。

「薫をいじめるな」

 大倉はついに岡崎に向かって言った。

 体格のいい岡崎はニヤつきながら大倉に向かって拳を振り上げた。

 大倉は咄嗟に目をつぶり、腕で身体をかばった。目を開けると、薫が岡崎の顎にパンチを入れていた。

 大倉は薫と一緒に岡崎の意識が戻るのを待った。十分ほどして目を覚ましたが、髪を鷲掴みにされ、無理やり顔を薫の方に向けさせられた。

「――もう二度とケンカ売んな」

 薫の形相があまりに恐ろしくて大倉は顔を背けた。

「はい……」

 岡崎は震える声で答えた。それ以来、日曜学校で姿を見ることはなかった。薫を散々いじめていたから殴られたことを誰にも話さなかった。

 薫がやり返す術をつけたのは、近所のボクシングジムに通うプロのボクサー(20)のお陰だった。ボクサーはいつもいじめられている薫を目にしていて、耐えかねて声をかけた。

「自分の身は自分で守らなあかん。――ボクシング、教えたるわ」

「お金がないから……」

 断った薫に、ボクサーは無償で稽古をつけた。

 それから薫は恐れを力に変える術を身につけた。長年の我慢が暴力に変わることはなく、必要な時には毅然と立ち向かった。幼い日の絶望は強さへと変わった。


「田中、おまえが薫苦手やったら、次から成田に来てもらうから」

 大倉は車窓の外を見つめながら言った。

「はい……」

 田中は曖昧に答えた。裕福な家庭で育った自分にとって、薫やアキのように深い闇を抱えた人間の気持ちに寄り添うのは難しい。大倉のように、他人の痛みを理解しようとする刑事になるには程遠いと感じた。情けない気持ちになったが、やはり薫の存在は怖い。彼の内に秘めた闇をどうしても受け入れられなかった。  

 田中は深いため息をついた。自分の未熟さを痛感しつつ、今後、薫とどう接すればいいのか頭を悩ませた。





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