正尊 6
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アキが隠しカメラで撮影したホテルの部屋は、和モダンの落ち着いた空間だった。上階にある部屋もほぼ同じ造りだったが、一つだけ印象的な違いがあった。幾何学模様の壁に格子が立体的に重ねられ、一見すると手を触れてはならないアートオブジェのような存在感を放っていた。
303号室と304号室の壁際はシンメトリーを意識しており、何らかの意図が感じられた。
パソコンで隠しカメラの映像を確認していた薫は、スマートフォンに届いたメールに目を落とした。
「大家さんからや。――アキを尾行してた車、おらんようになったらしい。もう十一時半か……諦めたんやな」
薫は田中の方を向いた。
「ほんまにあの男に心当たりないんか?」
田中はスマートフォンで配達員が撮影した動画を確認しながら「車が東京ナンバーでした。山口静香の秘書か関係者かもしれません」と答えた。
風呂上がりのアキが現れ、タオルで髪を拭きながら声をかけた。
「田中さん、よかったら次お風呂どうぞ」
「いいえ、私は大丈夫です」
「遠慮せんといて」
アキは田中の腕を引っ張って脱衣所へ連れて行った。
ホテルの部屋の映像をじっと見つめる薫の表情に、ふとした確信の色が浮かんだ。
「……もうトリック分かった顔しとんな」
大倉が笑って言った。
「あたり前田のクラッカーや」
薫は無邪気に笑った。
十年前、大阪で発生した女性監禁事件――唯一の生存者が薫の妻である麻希(当時25歳)だった。
犯人は村木律空(当時35歳)。麻希は和歌山の村木の自宅で監禁されていた。村木は他にも女性を監禁してした。その被害者こそアキの母・山名柚(享年35)で、遺体は床下から発見された。
薫は怪しい建物の存在を大倉に知らせたが、大阪府警も和歌山県警も本格的な捜査には消極的だった。仕方なく、薫は単独で張り込みを始めた。
村木が外出したのを確認した薫は、ピッキングで鍵を開けて侵入した。村木の母親(当時65歳)が包丁を手に襲いかかってきたが、冷静に対処して包丁を奪い取り、落ちていたビニール紐で母親の手を後ろに縛った。
二階へ上がって扉を開けると――目隠しをされて両手を縛られ、血に染まった下着姿で震える麻希がいた。
「来ないで……」
ドアの気配に、麻希は怯えた声を漏らした。
薫が近寄って目隠しを外すと、麻希は悲鳴を上げた。
慌てることなくスマートフォンを取り出した薫は電話をかけた。
「おい、敦男! やっぱり監禁されとる人おるで! はよ警察連れて助けに来んかい!」
――村木が帰って来た。
「おまえ人の家に勝手に入って!」
村木は手にした家畜用の電気ムチを振りかざしたが、薫は一歩も引かず素早く身をかわすと、ムチを奪い取って逆に押さえ込んだ。
「そいつを殺して!」
麻希は薫が犯人の仲間ではないと分かって頼んだ。
薫はムチを村木に押し当て電流を流すと、大げさに悲鳴を上げた。
「こりゃあおもろいわ」
「おまえ、ぶっ殺す!」
村木はヨダレを垂らしながら叫んだ。
「やれるもんならやってみぃや」
薫は股間を蹴り上げると村木は痛みに顔を歪め、床の上で激しくのたうち回った。
「だっせーなー! 弱いもん監禁して欲求満たすんわー。ほんま、おまえただのクソやな」
薫はスマートフォンを取り出して、村木の姿を撮り始めた。
「ほんまおもろいわ」
「撮るな!」
「黙れ」
「殺して!」
麻希が薫に迫った。恐怖は消え、復讐心が顔を満たしていた。長く自分を縛っていた力から解放された表情には、美しさと狂気が交錯していた。
薫は麻希を見て心の奥で興奮を覚えた。笑みを浮かべながら右足を村木の首元に滑らせた。硬い床に足を押しつける感触が、冷徹な笑みをいっそう際立たせた。
村木が苦悶の声を上げた瞬間、警察が到着して薫の動きは止められた。
薫は和歌山県警に連行され、大倉と激しく言い争った。
「おまえらがとっとと動かへんから、床下から遺体が出てきたんやぞ! ずっとおかしい言うてたやろが!」
「薫、こっちは手続きなしに勝手に動かれへんのや!」
「ほんま、警察は誰か死なな動かん組織やな!」
「なんやと!」
激怒した大倉が薫の胸ぐらを掴んだが、すぐ振り払われた。
「もうやめてください!」
和歌山県警の刑事が二人の間に割って入った。
女性監禁事件では和歌山県警の対応の遅れが致命的な影響を及ぼした。薫からの情報提供や不審な建物の存在を把握していながら、慎重さを欠いた調査態勢と手続きの硬直が原因で、被害者の命が一刻も早く救出されるべき状況が長く放置されてしまった。失態は県警内部に大きな反省をもたらし、関係部署間の連携強化や迅速な意思決定体制の整備が急務とされた。
薫の行動は形式的には住居侵入罪にあたる可能性があったが、当時の状況――監禁された被害者の命が危険にさらされていたこと、事前に警察に情報提供していたにも関わらず対応されなかったことなどを踏まえ、「緊急避難」として違法性は認められなかった。
麻希は警察の事情聴取を拒み、「警察は信用ならない。私を助けてくれた人にしか話さない」と断言。和歌山県警は薫に協力を依頼し、頭を下げることになった。
村木は薫から暴力を振るわれ撮影されたと主張したが、薫も麻希も真っ向から否定した。
大倉だけは村木を信じて薫に「スマホを見せろ」と求めたが、「令状を取ってから来い」と返され、引き下がるしかなかった。
麻希は助けてくれた薫に感謝しつつも、「身体を汚された自分が、これから楽しく生きられるとは思えない」と愚痴をこぼした。
薫は何の迷いもなく、「ほな、俺と結婚するか?」と麻希にプロポーズをした。二人は交際を始め、数年後に結婚した。
当時九歳だったアキは児童養護施設に預けられた。いじめを受け、SNS上で「母親が色目を使ったから悪い」といった心ない中傷まで飛び交って苦しんだ。母親を殺された被害者であるにも関わらず、世間の風は冷たかった。そんな中、アキの心を救ったのが薫だった。
「犯人が刑務所から出てきたら、そいつも身内も、じわじわと地獄に落としたらええ。――今はそれを生きる糧にするんや」
「それって……悪いことちゃうん?」
「生きてるうちに気持ちが変わるかもしれへん。それまではそれでええやろ」
「分かった」
九歳のアキは薫に微笑んだ。
十九歳のアキは自室のベッドに寝転びながら、風呂上がりの田中に言った。
「うちの夢はお母さん殺した犯人を、いつか絶対にぶっ殺すことや」
田中は何も答えられなかった。
――坂本さんってあかん人やん。あっ、私、今日ずっと関西人三人と一緒にいるから、つられて『あかん』って言ってしまった……。
関西弁の勢いにげんなりした。




