子供の身体
十八歳まで、自分を壊さない。
そう決めた翌朝、僕は寝坊した。
目覚ましは鳴ったらしい。止めた記憶もある。それなのに、次に目を開けたときには、家を出るまで二十分しか残っていなかった。
「起きてるの?」
「今起きた!」
慌てて着替え、顔を洗い、朝食を詰め込む。ランドセルを背負って家を飛び出した。
少し前の僕なら、こんなことで焦る自分を不思議に思ったかもしれない。
三十二歳まで生きた記憶がある。時間管理の仕方も、寝坊すればどうなるかも知っている。それなら、子供の生活くらいうまく管理できるはずだ。
でも、できなかった。
理由は単純だった。
眠かったからだ。
寝不足なら起きられない。腹が減れば集中できない。走れば息が切れるし、怖ければ身体が勝手に緊張する。
知っているだけでは、どうにもならないことがある。
学校へ向かって走りながら、僕は自分の身体について、まだ勘違いしていたことに気づいた。
これまでずっと、頭の中にいる三十二歳の自分を基準にしていた。
どのくらい考えられるか。どれだけ我慢できるか。どんな場面で冷静でいられるか。
けれど、今の身体は十歳だ。
それどころか、脳の働きまで三十二歳のときと同じなのかは分からない。三十二歳までの記憶を持っていることと、三十二歳と同じ能力を持っていることは別だった。
教室には何とか間に合った。
席に着いたころには息が上がっていた。
「走ってきたの?」
隣の席から聞かれる。
「寝坊した」
「珍し」
「目覚まし止めた」
「子供じゃん」
「子供だよ」
答えてから、自分で少し笑った。
そうだ。
外から見れば、当然十歳だ。
そしてたぶん、中身まで完全な大人というわけではない。
それをさらに実感したのは、一時間目だった。
先生に当てられ、黒板の前で問題を説明するよう言われた。
問題そのものは簡単だった。答えも分かっている。
それなのに、立ち上がって前へ出た瞬間、胸が強く鳴った。
三十人ほどの視線が、自分に集まる。
それだけで頭の中が急に狭くなった。
前の人生でも、人前で話すのは得意ではなかった。それでも仕事では必要に迫られて話していた。
今は、その経験があっても身体の反応を止められない。
手が冷たくなり、声が少し上ずる。
「えっと……」
答えは分かっているのに、言葉がすぐには出なかった。
先生は黙って待っている。
僕は一度息を吸い、何とか最後まで説明した。
「はい、そうですね」
それだけで終わった。
席へ戻っても、しばらく心臓は速いままだった。
僕はノートの端に小さく書いた。
理解できることと、実行できることは別。
少し考えて、その下にも書く。
記憶の年齢と、今の自分の年齢も別。
昼休みには友達に誘われて校庭へ出た。
ボールを使った遊びだった。
最初は、少し手を抜こうと思っていた。三十二歳まで生きた人間が、子供の遊びに本気になるのも妙な気がしたからだ。
けれど、始まってしまえばそんな考えはすぐに消えた。
ボールを取られれば悔しい。追いかけても追いつけなければ、もっと悔しい。自分がうまく取れれば嬉しい。
転べば痛いし、負けそうになれば本気で勝ちたくなる。
数分もすると、Bitcoinも未来知識も忘れていた。
遊びが終わってから、僕はそれに気づいた。
僕は、三十二歳の人間が十歳の身体を外から操縦しているわけではない。
十歳の僕の中に、三十二歳まで生きた記憶がある。
その方が近い。
記憶だけで人間の全部が決まるわけではない。
身体の大きさも、脳の発達も、感情の動き方も、学校で置かれている立場も、周囲からどう扱われるかも、今の僕を作っている。
放課後、図書室へ行った。
いつもの机に座り、ノートを開く。
新しいページの上に、
転生後の自分について。
と書いた。
その下に、今のところ分かっていることを整理する。
前の人生の記憶がある。
価値観もかなり残っている。
未来についての記憶も断片的にある。
けれど、身体は十歳。
感情も、集中力も、三十二歳のときと同じとは限らない。
眠気も、空腹も、恐怖も、悔しさも、普通に僕を動かす。
そこまで書いてから、最後に一文を加えた。
僕は、大人ではない。
書いた直後は、少し妙な気分だった。
三十二歳まで生きた自分を否定したようにも感じる。
でも、たぶん逆だった。
三十二歳までの記憶があるからといって、何でも正しく判断できる必要はない。
分からないことがあっていい。怖いものがあってもいい。子供らしいことで失敗しても、それだけで何かがおかしいわけではない。
むしろ、大人であるふりをし続ける方が不自然だった。
僕は未来を知っている。
それは使える。
でも、それを理由に今の年齢まで否定する必要はない。
帰り道、友達とくだらない話をした。
何を話したのか、家に着くころにはほとんど覚えていなかった。ただ、途中で何度か笑ったことだけは残っていた。
三十二歳までの記憶にも、きっとこういう時間はたくさんあったはずだ。
けれど、ほとんど覚えていない。
未来知識台帳にはBitcoinや大きな出来事を残している。それでも、人生の全部をノートへ書くことはできない。
何が大事だったのかは、あとになってから分かることもある。
だから、全部を未来のための材料にしなくてもいいのかもしれない。
家に帰ると、宿題をして、夕食を食べ、風呂に入った。
いつもの一日だった。
夜、机に向かい、十八歳までの計画を開く。
一番上には、
十八歳まで、自分を壊さない。
と書いてある。
その下に一行だけ加えた。
大人になろうとしすぎない。
しばらく、その文字を眺めた。
転生した。
未来の記憶がある。
十億円を目指している。
十八歳になったら家を出るつもりだ。
普通の十歳なら考えないことばかりだった。
けれど、それでも今の僕は十歳だ。
十歳を飛ばして十八歳になることはできない。
十一歳も、十二歳も、十三歳も同じだ。
前の人生ですでに一度通った年齢でも、この人生ではもう一度しか来ない。
僕は明日の時間割を確認し、忘れ物がないようにランドセルへ必要なものを入れた。
最後に目覚まし時計を見る。
今朝のことを思い出して、いつもより十五分早い時間に合わせた。
三十二歳の僕なら、もっと効率のいい方法を考えたかもしれない。
でも、今はこれでいい。
布団に入ると、すぐに眠くなった。
未来について考え続ける余裕もない。
目を閉じながら、今日一日で分かったことを思い出す。
僕は未来から来た。
でも、未来の人間のままここにいるわけではない。
三十二歳までの記憶を持ったまま、もう一度十歳を生きている。
なら、それでいい。
明日もまた、十歳の僕として一日を生きればいい。




