投資本
投資について勉強しようと思ったきっかけは、やはりビットコインだった。
二〇一二年に十万円分を買い、二〇一三年に売る。その金を次の投資へ回す。未来知識台帳には、そう書いてある。
改めて眺めてみると、妙なことに気づいた。
僕は「買う」と「売る」しか考えていない。
値段が上がれば利益が出て、下がれば損をする。それくらいは分かる。でも、株とは何か。債券とは何か。金利や為替はどう動くのか。利益を出している会社の株価が下がることがあるのはなぜか。
きちんと説明しようとすると、途端に怪しくなった。
三十二歳までの記憶には、PER(株価収益率)、PBR(株価純資産倍率)、配当、インデックス、分散投資、複利、損切り、レバレッジといった言葉が残っている。
でも、知っている言葉と理解しているものは同じではない。
コンピュータを調べ始めたときと同じだった。
僕は図書室で、お金について書かれた本を探した。子供向けの経済、銀行、株式会社、税金、家計。投資そのものを詳しく扱った本は少なかったが、その中から一冊借りた。
最初に書かれていたのは、お金を使うことと貯めることだった。
当たり前だと思いながら読み進めると、その先に貸すことと出資することが出てくる。銀行に預けた金は誰かへ貸し出され、会社は事業に必要な資金を集める。株を買えば、その会社の一部を持つことになる。
そこで少し読む速度が落ちた。
僕にとって投資は、値上がりするものを買うことになっていた。
ビットコインが上がるから買う。イーサリアムが上がるから買う。エヌビディアが上がるから買う。
でも株なら、その値段の向こうには会社がある。
人を雇い、設備を買い、研究して、製品を作る。うまくいけば利益が増え、その会社を欲しいと思う人も増えるかもしれない。
エヌビディアについて考えてみる。
人工知能。GPU(画像処理装置)。データセンター。
そこまでは覚えている。
では、なぜGPUが人工知能に使われたのか。なぜエヌビディアが大きく伸びたのか。他社と何が違ったのか。
ほとんど説明できなかった。
未来知識台帳には「大幅上昇」と書いてあるのに、その会社が何をして価値を生んでいるのかは曖昧だった。
僕はノートを開いた。
投資とは、値段を当てることだけではない。
そう書いてから、未来知識台帳にも新しい欄を作った。
何に価値があるのか。
ビットコイン。
まだ分からない。
イーサリアム。
これも分からない。
エヌビディア。
半導体とGPU。それ以上は曖昧。
並べてみると、ひどいものだった。
三十二歳で十億円を目指しているのに、そのために買おうとしているものをほとんど説明できない。
僕は少し笑った。
未来を知っているから、雑になっている。
どうせ上がるのだから、詳しく調べなくてもいい。そんな前提が、いつの間にか頭の中にできていた。
翌日、株式会社について書かれた別の本を借りた。
会社が成長しても、株価が必ず上がるわけではない。期待されていたほど成長しなければ下がることもあるし、会社そのものが失敗することもある。
本の中に何度か出てくる「必ずではない」という言葉が気になった。
未来知識には、「必ず」が入り込みやすい。
僕の記憶の中では、すでに結果が出ているからだ。
ビットコインは上がった。
イーサリアムも上がった。
エヌビディアも大きく上がった。
でも、それは一度目の人生の結果だった。
この人生では、まだ起きていない。
僕は台帳の投資欄の上に書いた。
記憶より、今の現実を優先する。
二〇一二年になったら、ビットコインが本当に記憶どおり存在するか確認する。売買できるのか。仕組みは動いているのか。致命的な問題が起きていないか。
僕が覚えている世界と大きく違っているなら、買わないという選択も残しておく。
未来を知っていることを、現実を見なくていい理由にはしない。
数日後、算数の授業で先生が利息について簡単に説明した。
「百円を預けて、一年後に百一円になったら、一円増えますね」
黒板に数字が並ぶ。
「じゃあ千円なら?」
「十円」
「一万円なら?」
「百円」
僕はその数字を見ながら、複利のことを思い出していた。
帰宅してから、一万円が毎年一パーセントずつ増えた場合を計算する。一年後は一万百円。その次の年は、増えた百円にも利息がつく。
五パーセントならどうなる。十パーセントなら。十年なら。二十年なら。
紙の上で数字が少しずつ離れていく。
面白かった。
そして、僕の計画が普通の資産形成とはかなり違うことも分かった。
ビットコインで大きく増やし、その資金をイーサリアムへ移し、さらに別の大きな値上がりへつなげる。
これは、長い時間をかけて少しずつ増やす方法ではない。
大きく値上がりするものを何度も知っているという、未来知識に依存した方法だった。
なら、その方法には期限がある。
二〇二六年。
三十二歳。
そこから先の僕には未来知識がない。
もしそれまでの投資が全部うまくいったら、どうなるだろう。
一度目も成功。
二度目も成功。
三度目も成功。
それだけ続けば、自分には投資の才能があると思うかもしれない。
でも、本当は違う。
僕は未来を知っていただけだ。
銘柄を見抜いたわけでも、相場を予測したわけでもない。結果を先に知っているという、普通ならあり得ない条件で投資しただけだ。
そこを間違えたまま未来知識のない世界へ進めば、最後に一番大きな失敗をするかもしれない。
僕は台帳に書いた。
二〇二六年以降、それまでの成功を自分の実力と勘違いしない。
まだ十歳なのに、ずいぶん先の心配だった。
それでも、成功した後の自分については、成功する前に疑っておいた方がいい気がした。
失敗すれば、嫌でも自分が間違ったと分かる。
成功は違う。
間違った考え方のままでも、結果だけ正しいことがある。
それから、お金について書かれた本を少しずつ読むようになった。家計、銀行、株、債券、保険、税金。未来知識台帳にある投資先ほど派手ではないが、こちらの方が普通の生活には近かった。
分散投資について読んだときは、少し困った。
一つのものに全部を入れれば、それが駄目になったとき全部を失う。だから複数へ分ける。
考え方は分かる。
でも、僕が計画しているのはかなり集中した投資だった。
二〇一二年にビットコイン。
その後にイーサリアム。
さらに先でエヌビディア。
未来知識を最大限利用しようとすれば、普通の投資より一つの対象へ大きく入れたくなる。
何日か考えたが、集中する割合については答えが出なかった。
代わりに、その前に決めることがあると気づいた。
失ってはいけない金を、最初から投資資金にしない。
大学へ通う金。
家賃や食費。
急な病気や出費に備える金。
それらまで使って投資しなければ、投資に失敗しても生活そのものは壊れない。
借りた金を使わないことも、すでに決めている。
未来知識があるかどうかに関係なく、この線だけは越えない。
投資で失敗することと、人生まで失敗することを分けるためだった。
週末、祖父母から小遣いをもらった。
「ありがとう」
財布にしまう。
以前なら、その全部を将来のビットコイン資金として数えたかもしれない。
今は一部を貯め、一部を使った。
図書館になかった本を一冊買う。
帰宅してから、もらった金額と使った金額だけ記録した。
数百円、数千円の世界だ。
それでも、自分がいくら持っていて、何に使ったのか分かるようにはしておきたかった。
投資を始めるときになって、自分の金さえ管理できないのでは困る。
ただし、一円使うたびに後悔するための記録にはしない。
何に使ったかを見る。
それで十分だった。
ある日、友達に本をのぞき込まれた。
「何読んでるの?」
「お金の本」
「金持ちになるやつ?」
「銀行とか株とか」
「株って金持ちになるやつじゃん」
「損することもあるよ」
「じゃあ何でやるの?」
少し考えた。
「増えるかもしれないから」
「じゃあ金持ちになるやつじゃん」
「まあ、そうか」
「将来金持ちになるの?」
十億円という数字が頭に浮かんだ。
「なれたらいいね」
「何買う?」
「分かんない」
「車」
「いらない」
「家」
「住めればいい」
「ゲーム全部」
「それはちょっといい」
「だろ」
二人で笑った。
「本とかいっぱい買うかも」
「図書館でいいじゃん」
「確かに」
思わず納得した。
金を持っていることと、全部を自分で所有することも違うらしい。
お金について勉強すると、同じ「金」でも役割が違うことが分かってきた。
生活するための金。
学ぶための金。
遊ぶための金。
何かあったときのための金。
そして、失う可能性を受け入れて投資する金。
全部を同じものとして扱わなくていい。
その夜、未来知識台帳を開いた。
三十二歳。
十億円。
以前は、その数字をどう作るかばかり考えていた。
今は、その先が少し気になる。
もし本当に十億円になったら、どうするのか。
守るのか。
使うのか。
さらに増やすのか。
そもそも、増やし続ける必要があるのか。
十歳の僕には、まだ答えられない。
でも、一つだけ分かったことがある。
金持ちになる方法を知っていることと、金を扱えることは違う。
未来知識が教えてくれるのは、前者だけだった。
僕は十億円の横に書いた。
金額より、扱えること。
それからノートを閉じた。
二〇一二年にビットコインを買うという予定は変えない。
でも、その日までに必要なのは十万円だけではなかった。
失ってはいけない金を分けられること。買う前に現実を確認できること。記憶と違えばやめられること。そして、うまくいっても自分が賢くなったと勘違いしないこと。
未来を知っている僕が投資について最初に覚えるべきなのは、儲け方ではなかった。
未来を知らない人と同じように、損をする可能性を考えることだった。




