知っている朝
目を開けた瞬間、寝坊したと思った。
次に、天井が低いと思った。
白い天井ではない。木目の薄い板が並び、その継ぎ目の一つに、昔から気になっていた黒い染みがある。
この天井、見覚えがある、という程度ではない。
どこから見れば人の横顔に見えるかまで知っている。
僕はしばらく天井を見つめた。
身体を動かさない。
考えない。
まず確認する。
枕の感触。
掛け布団の重さ。
聞こえてくる生活音。
遠くで食器の触れ合う音がした。テレビの音もする。ニュースではない。朝の情報番組らしい。
おかしい。
自分の部屋ではない。
昨夜は確か――。
そこで記憶が途切れた。
いや。
途切れたというより、そこから先が存在しない。
僕は三十二歳だった。
少なくとも、そうだったはずだ。
大学を出て、働いて、生活費を払い、税金を払い、投資口座を眺め、翌日の予定を考えながら眠った。
それなのに、右手を持ち上げると、小さい。
指が短い。
爪も薄い。
手の甲に、見覚えのある小さな傷跡があった。
小学校の鉄棒で擦った傷。
消えたと思っていた。
「……は?」
声まで高かった。
首が細い。
自分の声なのに、自分の声ではない。
僕は布団から起き上がった。
世界が低い。
机が大きい。
本棚の高さがおかしい。
壁際に置かれたランドセル。
机の上の鉛筆削り。
青い筆箱。
ゲーム機。
全部知っている。
全部、なくなったものだ。
いや、なくなったのではない。
僕が置いてきたものだ。
胸の奥が急に速くなった。
夢。
まずそう考えた。
明晰夢かもしれない。
あるいは発熱。
脳疾患。
記憶障害。
何かの事故。
自分が三十二歳だったという方が夢なのかもしれない。
そこまで考えてから、僕は動くのを止めた。
順序が違う。
原因を考える前に、現在地を確認するべきだ。
僕は机まで歩いた。
足が軽い。
身体の重心が違う。
椅子を引く音が、記憶の中と同じだった。
机の端に時間割が貼ってある。
国語。
算数。
理科。
社会。
図工。
曜日を見る。
今日の時間割まで、かすかに覚えていた。
十歳。
たぶん、小学四年生。
僕は机の引き出しを開けた。
ノート。
漢字ドリル。
折れた定規。
そして連絡帳。
日付を見る。
一度閉じた。
もう一度開いた。
数字は変わらなかった。
二〇〇四年。
頭の中で、何かが静かになった。
驚きが消えたのではない。
処理できなくなったのだと思う。
僕は椅子に座った。
三十二歳だった自分から見れば、二十二年前。
二〇〇四年。
Bitcoinはまだない。
iPhoneもない。
リーマン・ショックも東日本大震災もコロナも、まだ起きていない。
NVIDIAという会社はすでにある。
でも、僕が知っているNVIDIAではない。
Ethereumは存在すらしていない。
頭の中に、数字が浮かびかけた。
株価。
暗号資産。
為替。
その瞬間、自分で止めた。
「違う」
まず確認だ。
もし本当に過去なら、ここで浮かれてはいけない。
未来の記憶があることと、その記憶が正しいことは別だ。
そもそも僕は、二〇〇四年の出来事をどれだけ覚えている?
ほとんど覚えていない。
大きな事件はいくつか分かる。
何年に何が起きたかも、たぶん。
でも日付までは怪しい。
株価なんてもっと怪しい。
Bitcoinが上がった。
Ethereumも上がった。
NVIDIAはものすごく上がった。
その程度だ。
三十二歳の僕は、歴史年表ではない。
未来予知能力者でもない。
ただ一度、二〇二六年まで生きただけの人間だ。
なら最初にやるべきことは、儲け方を考えることではない。
記憶の精度を測ることだ。
廊下から足音がした。
「起きた?」
身体が固まった。
声を知っている。
反射的に返事をしそうになって、止める。
三十二歳の返し方をしたら不自然だ。
「……起きた」
自分でも驚くほど子供らしい声が出た。
「早くご飯食べなさいよ」
「うん」
足音が遠ざかる。
僕は息を吐いた。
これも問題だ。
記憶だけ大人でも、僕は十歳の子供として生活しなければならない。
学校。
親。
先生。
同級生。
親戚。
誰にも説明できない。
仮に説明したところで信じてもらえるとは思えない。
逆に信じられた方が困る。
僕は連絡帳の余白に鉛筆を走らせた。
最初に書いたのは三つだけだった。
一、現在の日付を確認する。
二、未来の記憶が正しいか、小さい出来事で検証する。
三、誰にも話さない。
字が汚かった。
三十二歳の頭で書いているのに、手は十歳だった。
少し笑いそうになった。
でも笑えなかった。
その下に、もう一つ書いた。
四、未来は固定されているとは限らない。
そこまで書いて、鉛筆を止めた。
まだ早い。
未来が変わるかどうかも分からない。
僕が知っている出来事がそのまま起こるなら、利用できる。
僕が何かをした瞬間に変わるなら、使える情報は急速に減る。
そしてもっと根本的な問題がある。
僕自身が記憶を間違えている可能性。
子供の脳に戻ったことで、今後忘れていく可能性。
三十二年分の記憶が、本当にこのまま残る保証はどこにもない。
だから、書かなければならない。
覚えているうちに。
Bitcoin。
Ethereum。
NVIDIA。
コロナ。
戦争。
大きな災害。
政治。
為替。
知っている企業。
知っている技術。
そして、自分が前の人生で何に失敗したのか。
そこまで考えたところで、台所からもう一度声がした。
「遅れるよ!」
「今行く!」
僕は連絡帳を閉じた。
まだ何も分かっていない。
ここが本当に二〇〇四年なのか。
僕は本当に三十二歳まで生きたのか。
記憶は正しいのか。
未来は変わるのか。
全部、未確認だ。
だから今日は、普通に学校へ行く。
授業を受ける。
先生の話を聞く。
友達と話す。
そして、何か一つ。
自分が知っているはずの未来を探す。
それだけでいい。
僕はランドセルを見た。
二十二年ぶりに背負うには、ずいぶん小さい。
いや。
小さいのは僕の方だった。
部屋を出る前に、もう一度だけ連絡帳を開いた。
三つの文字を書き足した。
――明日の確認。
それが、この人生で最初に立てた予定になった。




