百点
最初の百点は、狙って取ったものではなかった。算数のテストで問題を全部解き、見直しをして、名前を書き忘れていないことまで確認した。少し前なら、一問くらい間違えた方が自然ではないかと考えたかもしれないが、最近はそういうことをやめている。分かるものは分かるし、できるものはできる。未来の記憶を隠すために、今の自分の能力まで隠す必要はない。
翌日、先生から返された答案には、赤い字で百と書かれていた。隣の子がすぐに気づいて、「百点じゃん」と答案をのぞき込んでくる。「見せて」と言われたので渡すと、本当に全部丸だ、と当たり前の感想を言われた。
僕は答案を見ながら、素直に嬉しいと思った。三十二歳まで生きた記憶があるのに、小学四年生の算数で百点を取って喜んでいる。それが少し可笑しくもあったが、別に悪いことではない。
「百点だった人?」
先生に聞かれて手を挙げると、ほかにも四人いた。僕一人ではないと分かり、少し安心した。小学四年生の算数で百点を取っただけなら、未来の記憶などなくても珍しいことではない。
授業が終わると、友達から最近勉強ができるようになったと言われた。家で勉強しているからだと答えると、「偉いな」と返ってくる。宿題だって勉強だろうと言えば、宿題は勉強ではないと反論され、二人で笑った。僕が心配していたようなことは何も起きなかった。成績が少し上がっても、周囲から見れば勉強した結果でしかない。
家でも同じだった。答案を見せると褒められ、最近ちゃんと勉強しているからだと言われた。ただ、「次も百点取れるといいね」という一言だけが、少し引っかかった。
悪意がないことは分かっている。それでも、一度できたことは次から基準になりやすい。九十点なら今回はどうしたのかと思われるかもしれないし、それが続けば以前より悪くなったと見られるかもしれない。
前の人生でも、似たことは何度もあった。一度早く終わらせた仕事は、次からその時間で終わるものになる。一度できたことは、いつの間にか「できて当然」に変わっていく。
自分の部屋へ戻り、机の上に答案を置いた。百点はいい結果だが、僕が欲しいのは小学校のテストで百点を取り続けることではない。十八歳になったとき、自分で進路を選べるだけの学力を持っていることの方が重要だった。
僕はノートに「百点を目標にしない。その代わり、分からないところを残さない」と書いた。百点を取っても、たまたま知っている問題ばかりだったなら意味は薄い。九十点でも、間違えた理由を理解できれば次につながる。
答案を一問ずつ見直してみると、一つだけ気になる問題があった。答えは合っているのに、途中で「たしかこうだった」と感覚だけで処理している。数字や聞き方が変わっても同じように解けるかと言われると、少し自信がなかった。
その問題に鉛筆で小さな印をつけた。百点の答案の中にも、分かっていないところはある。その発見の方が、赤い百という数字より役に立つ気がした。
未来の記憶にも似たところがある。ビットコインが大きく上がることは覚えていても、なぜ上がるのか、途中で何が起きるのか、いつまで上がるのかを全部知っているわけではない。結果を知っていることと、仕組みを理解していることは違う。
なら、学校の勉強でも同じように考えればいい。答えが合ったかどうかだけではなく、なぜそうなるのかを確認する。そのために必要な習慣も、複雑なものにはしなかった。
宿題はその日のうちに終わらせる。分からないところを放置しない。テストで間違えた問題は、一度だけ解き直す。それだけにした。
最初は曜日ごとに勉強時間まで決めようとした。国語を何分、算数を何分、英語を何分と書き始めたところでやめた。空いている時間を全部予定で埋めれば効率は上がるかもしれないが、そのために十歳の一日を管理表へ変えたいわけではない。続けられる仕組みだけあれば十分だった。
翌週の国語は九十二点だった。漢字を一つ間違え、記述問題でも点を落とした。
「百点じゃなかったな」
「うん」
「悔しい?」
「ちょっと」
「俺、七十六」
「そっちは悔しくないの?」
「全然」
「なんでだよ」
笑いながら答案を見直したが、僕は本当に少し悔しかった。三十二歳まで生きた記憶があるのに、小学四年生の国語で間違えるというのは、少し情けなく感じる。
ただ、記述問題を見ると、年齢が高ければ正解できるようなものではなかった。登場人物の気持ちを本文から読み取り、根拠を示して答える問題なのに、僕は考えすぎて本文に書かれていないことまで付け加えていた。
先生の解説を読み、どの文章を根拠にすればいいのか確認する。百点ではなかったが、百点だった算数とは別のことを一つ学べた。それなら、九十二点にも意味はある。
数か月すると、成績は少しずつ上がっていった。算数ではほとんど困らず、理科も面白い。国語は思ったより難しく、漢字では細かい間違いをする。図工は三十二歳まで生きたからといって上手くならないし、音楽も特別得意ではなかった。
何でもできるわけではないことに、むしろ安心した。三十二歳までの記憶が残っていることと、三十二歳までに身につかなかった能力まで突然手に入ることは別だからだ。
学期の終わりに先生と話す機会があった。
「最近、よく頑張っていますね。特に算数と理科が伸びています」
「はい」
「本もよく読んでいるみたいだし。将来は理系かな」
十歳でもう決めるものなのかと思ったが、先生はすぐに笑った。
「まあ、今から決めなくていいけどね。好きなものを増やしていけばいいから」
好きなものを増やす。
その言葉は少し意外だった。僕はこれまで、将来必要になるものを増やそうとしていた。学力、英語、生活能力、金銭管理。どれも「必要だから」という理由で考えている。
でも、図書室は好きになった。本を選ぶことも好きだ。最近読んでいる電気の本も面白いし、走ることも嫌いではない。それ以外は、まだ分からない。
なら、今から全部決めなくてもいい。十八歳まで八年あるのだから、能力を身につけるだけでなく、自分が何に時間を使いたいのかも探せばいい。
その夜、大学について書いたページを開いた。大学へ行き、家を出るという大枠は変えない。その横に「偏差値だけで選ばない。学びたいものがある場所を選ぶ」と書き加えた。
問題は、まだ学びたいものが決まっていないことだった。そこで教科ごとに好き嫌いを決める代わりに、面白いと思ったことだけ残すことにした。
電池でモーターが回ること。宇宙。物語を読んで考えること。地図や歴史。本を人に薦めること。
今は、その程度でいい。小さな興味を集めていけば、いつか何かにつながるかもしれない。つながらなければ、そのとき別のものを探せばいい。
次の学期、また算数のテストが返ってきた。今度は九十八点だった。一問だけ、単純な計算を間違えている。
答案を見た瞬間は惜しいと思ったが、すぐに間違えた場所を確認した。理解不足ではなく、ただの見落としだった。もう一度解いて正解したので、それで終わりにする。
百点ではない。それでも、前ほど点数そのものは気にならなかった。
必要なのは、百点という記録を並べることではない。分からなければ調べ、間違えれば直し、何を学ぶかまで自分で選べるようになることだ。
帰り道、友達に点数を聞かれた。
「何点?」
「九十八」
「高っ。俺のは聞くなよ」
「じゃあ聞かない」
「でも教える」
「どっちだよ」
くだらない話をしながら歩いた。家に着けば褒められるかもしれないし、次も頑張れと言われるかもしれない。それはそれでいい。僕自身まで、百点を義務にしなければいい。
夜、未来知識台帳を開いた。そこにはビットコイン、イーサリアム、エヌビディアと、将来大きく値上がりするはずの名前が並んでいる。
こうして見ると、人生にも正解があるような錯覚をする。正しいものを、正しい時期に選べば、正しい結果へたどり着けるような気がしてくる。
でも、小学校のテストですら、それほど単純ではない。答えが一つに決まる問題もあれば、理由を説明する問題もある。何を面白いと思うかには、そもそも模範解答がない。
人生なら、なおさらだった。
僕は「三十二歳、十億円」と書いたページを開いた。
十億円を持てば、この人生は百点なのか。
まだ分からない。
だから数字の横に、一言だけ書いた。
満点ではない。
ノートを閉じる。
次のテストで何点を取るかは分からない。でも、百点を取り続けることより、自分が何を理解し、何を学びたいのかを見失わない方が大切だった。




