29.師匠
コイラーン侯爵家に戻ってきて2日後、私は当然のようにハウスメイドとしてエントランス掃除をしていたところを、執事様に呼ばれた。
「昨日はミスばかりしていたようですが、今日は大丈夫のようですね」
執事様は私の少し前を歩きながら、振り向きもせず言う。
実は昨日は、ことあるごとにニール様とのキスを思い出してしまって、ミスがかさんでしまったのだ。
今日は何とか気をつけているけど、こういうことがあった時、みんな平然とやってのけているのだろうか……
「あの、師匠、きいてもいいでしょうか」
私は執事様に声をかける。
少し前を歩いていた執事様がピタリと止まる。
「え? 今なんと言いました?」
「師匠と言いました」
「誰が師匠なんですか?」
「執事様です。35歳で結婚を3回もしているとお伺いしましたので……」
執事様は頭を押さえてハァァァーと息を吐いた。
「結婚を3回していると何故師匠なんですか? 嫌味ですか?」
「いえ、嫌味ではありません! 私はおそらく何百年と結婚出来なかったのです! それなのに35年で3回も出来るなんて、もう師匠なんですよ!」
「それが嫌味だと……」
執事様は反論しかけて急に黙った。
その目は私の遥か後ろを見ている。
私が振り向くと、後方の通路に男女の使用人の姿が見える。
あれは、リリアンと料理人見習いの若い男性だ。
揉めているのか何か言い合っている。
すると男性がリリアンの腕を乱暴に掴んだ。
なにか、ヤバイ雰囲気だ!?
「そこ! 何をやっているのですか!」
執事様が大声を出したので、男性はリリアンからパッと手を離した。
「も、申し訳ありません! 仕事に戻ります!」
男性はパタパタと走り去っていった。
「リリアン、大丈夫!?」
私はリリアンの元へ駆け寄った。
「……ココ。うん、大丈夫……」
リリアンは掴まれた腕をさすりながら、チラリと執事様を見た。
「何がありました?」
「別に、何もありません。私も仕事に戻ります」
執事様の問いにリリアンは淡々と答え、軽く会釈をして、早歩きで去っていく。
「え? リリアン!」
私はいつものリリアンとあまりにも違う態度に、彼女の後を追おうと走りかけたところを、執事様に腕を掴まれた。
「どこに行くのですか? ココさんは私に呼び出されたのですよ!」
「そ、そうですけど、リリアンの様子が……」
「この件は後で私がやりますので、あなたは何もしないでください!」
執事様の冷たい言いように、私は少しムッとする。
リリアンはあきらかに変だった。
唯一の仕事仲間なのに、心配くらいしてもいいじゃないか。
「あの、師匠、前から思っていたのですが、このお屋敷は女性の使用人が少なすぎて、男性の目線がリリアンに集中しているといいますか……」
そう、このお屋敷の女性使用人は、リリアンと私と高齢の女性の3人なのだ。
ちなみに男性の目線は私には来ない。
侯爵様の慰め用メイドだと思われているからである!
執事様は掴んでいた私の腕を離して、両手をグーにして私の頭を挟み、こめかみをグリグリと押した。
「そんなことは承知しています! というか、師匠呼びをやめなさい!」
「うああっ! めちゃくちゃ痛い! パワハラ反対ですっ!」
あまりの痛さに、私の意識が反射的に奥に引っ込んだ。
「本当に痛いですわ! クロック! やめて下さい!」
そして反射的に出てきてしまった私(ジュリー様)が叫ぶ。
「お、奥様!? 申し訳ありません! ココさん! 奥様と交代するなんて反則ですよ!」
執事様は慌てて手を離す。
ごめんなさい!
痛すぎて無意識に交代してしまいました!
「クロック、どうしたのですか? あなたらしくありませんよ、こんなこと……」
私(ジュリー様)は髪を整えながら言う。
「……はい、申し訳ありません」
執事様は頭を下げる。
これは、師匠呼びをしてしまった私も悪かったのだろう。
よく考えたら、3回結婚するということは、2回離婚しているのだ。
心の傷に触れてしまったのかもしれない。
執事様、ごめんなさい!
「ココさんも反省していますわ。私もココさんにクロックの結婚回数を教えてしまいましたし、申し訳ありませんでしたわ」
私(ジュリー様)も頭を下げる。
「奥様が教えたのですね……」
執事様はガックリと肩を落とす。
「でもラナも縁談が決まって退職しましたし、ココさんの言う女性使用人が少ないことも問題かもしれませんね……」
「そうですね、それに関しては旦那様とニール様に相談いたします。あ、奥様のまま旦那様の執務室に来ていただけますか?」
執事様と私(ジュリー様)は、並んで侯爵様の執務室へと歩いていった。
実はこの一連の様子を見ている人物が2人いたとは気付かずに……。




