後編
千真くんを神社から連れ出し、私たちは隣の公園にやってきた。真夏の昼間に遊んでいる子どもはいない。手にしていたバッグを千真くんに手渡した。
「おばさんに頼んで用意してもらった着替え。真夏に全身スーツで熱中症になったらどうするの。さっさとそこのトイレで着替えてきて」
狭い簡易トイレを指差す。
「着替えとか中の人とか、そういうのは……」
「はいはい、いませんいません」
私は千真くんの抵抗を聞き流し、トイレの中に押し込めた。
夏場は臭いがキツイ。私は顔をしかめながら日陰のベンチに腰をかけ、持参した紙パックのりんごジュースを飲んだ。今日は風が心地いいからまだマシとはいえ、半袖TシャツにGパンでも汗だくになるというのに。
ジュースと一緒に買った、カップ容器に入っているポテトのスナック菓子を口に入れる。汗をかいた体にお菓子の塩分が染み渡る。
「夢ちゃん。こんな所で何をしているの? お菓子ばっかり食べて」
着替え終わった千真くんが、そ知らぬふりで私に声をかけてくる。手にはリンドウカズマの衣装が入ったバッグ。
「別人格っていうノリ、もういいから」
「えー、なんのこと?」
普段着の千真くんは普通の大学生だ。芝居がかった口調でもない。
マスクと汗のせいでぺたんこになった黒い髪。ちょっと天然で、ゆるふわパーマをかけているみたいだ。本人は直毛に憧れているそうだけど。
「喉渇いたでしょ」
冷たさの残るコーラを渡すと、千真くんは笑顔を弾けさせて勢い良くキャップをあける。しゅわしゅわしゅわ……と泡が溢れて、手と太ももにかかった。
「わわわ……」
慌てふためいて急いで口をつけるけれど泡はおさまらず、顔もベタベタになっていく。
「もぉー、何しているの」
私は苦笑いをし、バッグを漁ってポケットティッシュを数枚、千真くんに渡した。
「ごめんごめん」
叩くようにGパンの水分をとっていく。私は顔を拭いてあげた。厚みのある唇に、ティッシュ越しとはいえ触れてしまう。おかしな事を想像しそうになり、私は一度、ぎゅっと目を閉じた。
「どうしたの?」
コーラの甘い香りが顔にかかる。千真くんの瞳は、マスク越しと同じ光に満ちている。
子どもの頃から、いつもそう。
黙っている事を不審に思われて、私は慌てて首を振る。千真くんを直視できなくて、ティッシュを手にしたままうつむいた。
千真くんは、こういうことをされてドキドキしないの? 私には興味ない?
大丈夫、聞かなくていい。約束があるもの。
覚えていないと思うのは、気のせい。口には出さないけれど、きっと覚えていてくれているはず。だから、今まで彼女を作ることをしなかったのだと思っている。
「ねぇ、千真くん」
「何?」
「千真くんて、もう大学四年生じゃない?」
「二十二歳だから、まぁ大人だよね」
ヒーローごっこをしていることを責められると思ったのか、口調が固くなる。困ったように鼻をいじくった。千真くんの心が乱れている時のクセだ。それを感じて、私はあえて明るい声で尋ねた。
「それなのに、どうしてそんなに瞳がキラキラと輝いているのかなって」
私の言いたい意味がわからないようで、千真くんは小さく口を開いただけで不思議そうに眉をひそめた。
うまく言葉がまとまらなくて、私はりんごジュースを飲んで、スティック状のお菓子をぽりぽりと噛み締めた。
「えっ、今、この状態でお菓子食べるの?」
「いいじゃん。食べても太らない年齢に食べておかないと、大人になってからは好き放題食べられないんだから」
「そうじゃなくて、話の途中って事だよ。あと、ニキビ治らないよ」
「大人になったらニキビすら出来なくなる」
大人、という単語を口にして、私は気が滅入る。呆れた顔をする千真くんがなんだかおかしい。リンドウカズマの時は常識知らずなのに、千真くんは至って普通の感性をしている。ちゃんとした大人だ。
「私さ、十二歳上のお兄ちゃんがいるじゃない?」
現在二十九歳。一人暮らしをしていて、実家にはあまり帰ってこない。
「お兄ちゃん、大学に入って、瞳の輝きがどんどんなくなっていったんだよね。それだけじゃない。就職したら、黒目だけじゃなくて、白目まで濁ったように見えちゃった」
それが悪い事とは思わないけど、と私は付け加える。
大人になるにつれ、キレイな心を保ったままでは生きにくいからじゃないかな。私の質問に対し、お兄ちゃんは冗談交じりにそう答えた。当時小学生の私にはその意味が分からなかったが、今はそれがわかる気がした。
純粋無垢なまま心をさらけ出していたら疲れてしまう。社会人はもっと辛いのだろう。
上下関係を学び、将来の不安を抱き始める。好き勝手に今自分の事だけを考えていられなくなると同時に、瞳は輝きを失う。そうでなければ、この世界は成り立たない。
千真くんは大学四年生になっても子どもの頃と同じか、それ以上にキラキラと曇りのない瞳をしている。私は自分が汚れてしまった気がして千真くんの瞳をまっすぐに見られない。強い光で射抜かれてしまいそうだから。
「そんなにキレイな瞳で見る世界って、どんな風なのかなって」
千真くんは、汗でしとった髪を手でかきあげながら笑った。
「変な質問」
コーラを飲んで、ふと真剣な顔に戻る。
「自分ではわからないなぁ。大人の目になるって悪い事とも思わない。それに、夢ちゃんが思う程、俺も綺麗じゃないよ」
私の手にしていたカップから、スティックを三本とって口に入れた。止める間もない。
「こうやってさ」
もごもごと口を動かして、コーラで流し込んだ。
「人のもの、勝手に取っちゃうし」
「こんなの、汚いという事にはならないよ」
子どもっぽく口を尖らせる私の頭に、千真くんは塩のついた手を載せた。くしゃくしゃ、と髪を撫でられ、思わず目を見開いた。
こういうこと、平気でするんだから。悔しくなって目を逸らした。前髪で隠したニキビが見えてしまう。
「ねぇ、リンドウカズマの秘密を教えようか」
頭に手を置いたまま、千真くんがあのヒーローの名前を出す。珍しい。別人格という設定で、お互いの事は知らないはずなのに。
私は何を言うのかと、恐る恐る千真くんの顔を見た。マスクで覆われていないすっと通る鼻筋が、汗で光る。
「リンドウカズマは、見返りなんて求めないヒーロー。誰かの役に立てたらそれでいい。そう思っているよ。でもね、やっぱり誰からも感謝されず、邪険にされていたら、やっぱりやる気を無くす時もある」
やる気がなくなる、という言葉に、私は驚いて「えっ」と声をあげた。
千真くんは私から手を離し、ベンチの背もたれに体を預ける。秘密を暴露して後悔したのか、それともすっきりしたのか。鏡のような青空を見上げていた。
「千真くんでも、そう思うことはあるの?」
「千真ではなくリンドウカズマね」
面倒な設定はまだ守っている。
「夢ちゃんが思ってくれているようなヒーローではないんだ」
「そんな事ない!」
私は身を乗り出して、千真くんの顔を覗き込んだ。
「リンドウカズマは子どもの事を考えてヒーローショーをしようとしている。夜道で守ってくれる。全部空回っているけど、私にとっては大切なヒーローなんだよ」
途中から、恥ずかしくて体が溶けてしまいそうになった。暑さに浮かされてこんな事を言うなんて。
思わず顔を覆う私に、千真くんは優しい言葉を差し出した。
「ありがと。夢ちゃんがそう言ってくれるだけで、リンドウカズマがいた意義があるよ」
セミの鳴き声にかき消されて、聞き逃してしまいそうになる。
「今、過去形だった?」
顔をあげた私に、千真くんは眉をちょっと動かした。一つ呼吸をして、不安の塊を吐き出したように見えた。
「あの、ね。就活もやめたんだ。皆のヒーロー、スーツアクターになる為に養成所に通う。その為にバイトも増やす。リンドウカズマは……ごめん」
スーツアクター。いわゆる、ヒーローの中の人。その夢を聞き、体が重くなる。「なんで謝るの。頑張って」心にもない言葉が口から勝手に出て行く。
暑いから帰ろう、と二人で公園を出た。家まで送ってくれた千真くん。私はどうしても言えなかった「うそつき」という呪詛を、喉の奥で復唱するだけだった。
『夢』という名前なのだから、人の夢、まして好きな人の夢は応援したい。それを素直に応援できないのは、自分の瞳が曇り始めたからなのではないだろうか。
お風呂上り、おでこのニキビに薬を塗りながら、自分の目をまじまじ見る。千真くんより若いのに、その輝きは弱弱しい気がする。ため息をついても、夏の鏡は曇らない。
リンドウカズマがいなくなるのならいいじゃない。大人に頭を下げる必要もなくなる。リンドウカズマは、名誉の死を遂げた、そういう事にすればいい。
けれどひとつ。自分の汚い部分を見つけてしまった。私は勝手に想像していた。千真くんは普通の仕事をして、いつかは私だけのヒーローになってくれるのだと。本物のヒーローになるという決断にがっかりしてしまった。
あんな約束、いつまでも馬鹿正直に覚えて待っている方が悪い。
ベッドに入った所で青のヒーローが頭から離れず、私はうちわで顔をあおぎながら、早く睡魔が訪れますようにと願うだけだった。
今日の青空みたいな、キレイな人になりたかった。
街中で戦っていても、いつの間にか戦いの場を移す事はよくある。ヒーロー作品において、そういった場面転換を気にしてはいけないのだと千真くんは言っていた。
十六歳になってすぐに二輪車の免許をとった千真くんは、気が向けばロケ地まで走らせていた。その写真をよく見せてもらったものだ。
写真が見たいのではなく、楽しそうに話す千真くんを見ている事が幸せだった。
千真くん曰く、近所で撮影に使えそうな場所は、この公園の池のほとり、らしい。
神社脇の公園よりも大きく、トイレも個室がたくさんある。休日には移動販売の屋台も出るし、池にはボートをゆらゆら漕ぐ人々で楽しそうな笑い声も聞こえる。
夏休みに入り、千真くんはバイトを増やした。養成所に入るにはかなりの額が必要で、それでも将来プロとして活躍できるかわからない世界らしい。
私は、移動販売のワゴン車に近づいた。
色とりどりのドーナッツ。アイスコーヒーと一緒にどうぞ、とブラックボードに描かれていた。その端には、青いアイツのイラスト。
「いらっしゃいませー。って、夢ちゃん」
汗だくの千真くんが車の中から顔を出した。
「約束の時間より、早かったかな」
リンドウカズマを辞めてから会う事はなかった。昨日連絡を入れ、今日バイト先のここで会う事にしていたものの、少し気まずい雰囲気が流れる。
「もう少しで終わるからちょっと待ってて」
神妙な顔をしている私を、優しい笑顔で迎えてくれた。コーヒーと冷たいいちごソースのかかったドーナッツを注文し、パラソルの下で食べた。治ったのに、またニキビできちゃうな。今日は前髪を編みこんで、キレイになったおでこを出している。
コーヒーを飲みきる頃、バイトを終えた千真くんが出てきた。暑さで真っ赤な顔は、リンドウカズマにフィードバックしない。
「それで、話って?」
池のほとりに移動する。話がしたい、とは言ったけれど、言葉にして、千真くんの気持ちを聞くことが出来るのならば、もっと早く聞いていた。体に聞けばいいんだ。
私は池を囲う柵に足をかけた。呆気にとられた千真くんの顔を見ながら、息をたくさん吸って池の中に飛び込む。
水の音が頭の中に響く。見た目より池の中はキレイではなかった。ちょっと後悔をしている内に、私の体はすぐさま水面へと浮上する。千真くんに抱きかかえられて気持ちのいい無重力状態になる。
あの少年みたいに助けてもらいたかった。
「なんで、こんなこと!」
水面に顔だしてすぐ、ずぶ濡れになった千真くんが怒っている。
「私も、助けてもらえた」
のんきな事を言う私に、千真くんは怒った顔で首を捻りながら、ボート乗り場の桟橋まで私を運ぶ。溺れたわけではないので、自分で泳げるけれど。桟橋では私たちの様子を見た人々がざわついていた。二人とも無事だとわかると、その興味はすぐ薄れていく。
濡れた体で、私たちは桟橋に腰掛けた。
「大丈夫? 水飲んでない?」
うなずくと、千真くんは安心したように一息ついた。困惑した表情を私に向ける。
「昔、私だけのヒーローになるって言ってくれてたの、忘れていないかなって聞きたくて」
私の回答に、千真くんは顔を赤くした。
「夢ちゃんが困っていたら、必ず助けに行く。昔そう約束したよ。一緒にリンドウカズマを作り上げた小学生の夏休みに!」
今度は私が驚いた。忘れられていたと思ったのに、細かい事まで覚えていたなんて。驚いてうまく頭が回らない。千真くんが、嬉しい事を言ってくれているような気がするのに。
「ごめんなさい。つい試しちゃった」
試した、というのは、今のように溺れていたら助けるかどうかの事だと千真くんは悟ったようだ。一瞬呆れた顔をし、顔を覆う。
「よかった、精神的に追い詰められたんじゃないんだ。いや、気になるなら普通に聞いてよ。こんな真似して……」
何も言えず、ただ頷いた。自分のしでかした事が子どもじみたモノだとわかってはいたが、やりすぎたみたいだ。
こうして心配して怒ってくれる千真くんはスーツを着ていなくても、心の中には常に正しい道理が働いている。
「俺の方こそ、忘れられていると思ってた。最近冷たかったし、スーツアクターになる夢も反対されなかった。このままお別れかな、って寂しかったんだよ」
嬉しいな、と千真くんは笑顔を弾けさせた。人目がなかったら抱きついてしまいたい。ぐっと堪える私に、千真くんは言葉を続けた。
無邪気さに真摯な強さを秘めた瞳で私をまっすぐ見る。子どもとか大人とか、簡単にカテゴライズされない千真くんだけの光に変わっていた。
「リンドウカズマがいなくなっても、俺が夢ちゃんの事を助けたいし、見守りたい」
まっすぐキレイな瞳に写る私は、どんな姿なのだろう。ずぶ濡れになった、かわいそうな子? でも、助けてくれるって。いつでも見守るって。
発言のクライマックスさに、私はヒーローのセンターポジションの色になりそうだった。
「そ、それって、その……つまり」
千真くんは濡れた髪をかきあげ、鼻の頭をかいた。一度目を閉じてまた開き、光で私を射抜く。
「ヒーローの帰還を待っていて欲しいんだ。夢ちゃんさえよければ。無理強いはしないよ」
「してよ、無理強い!」
私は千真くんの胸ぐらを掴んでしまった。喧嘩をしているみたいに。濡れたTシャツ越しに触れた胸板はいつものプラスチックの偽物よりも薄いけれど、思うよりも逞しかった。
「帰ってくるまで待つのが、ヒロインの仕事だよ。あ、そういう可愛らしいポジションがいいって言うわけじゃなくて、あの。自分の身は剣の腕で守れるし。もちろん千真くんのサポートもする。リンドウドリームになる為に剣道の稽古をしてるようなもので……」
口ごもる私を、千真くんは愉快そうに見た。自分の顔にはりつく髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜ、水滴があたりに散らばせる。
「最近、夜のパトロールをしないで心配だったけど、大丈夫そうだね」
「あれって、私の為?」
目を丸くする私に、千真くんがしまった、と手で顔を覆った。その仕草が可愛らしくて私は笑顔が止まらなくなった。千真くんが少し変わってしまった気がしたけれど、いつもの姿だ。
「リンドウカズマに聞いた話だから、真相は不明だけどね。彼もまた戻ってきたいと思ってるはず。還暦過ぎてもやるんじゃないかな」
すっとぼけて、未来の話までしてくる。
千真くんのキレイな瞳に写る私が、いつまでも瞳を曇らせないようにしてあげたい。還暦を過ぎても。そう思えるだけで千真くんは一生涯、私のヒーロー。
帰ってくる時には、お花屋さんでリンドウの花を買って待っているからね。
了