第三章⑤ 仕事頑張ってます
徒歩二〇分。僕は玄崎さんのいる国立総合病院に来ていた。ここへ着くまで何を考えていたのかは思い出せない。未だに自分の脳内が現状を理解しきれていないのだろう。自分のせいで二千五百万という大金が一瞬にして紛失したという事態にも、頭では理解していても、納得できるものではないからだ。
来いと言われたわけでもない。それでも、現状を把握し、どうすればいいのかを聞くにはこの人しかいなかった。
四〇六号室は始業式以来だろうか。同室の人は何人か退院しているようで、ベッドに空席があった。今度は間違えることなく、一直線に奥のベッドへと向かう。閉じられたカーテンの中にいる玄崎さんは手元にいくつかのファイルを置き、タブレットを操作している。
「玄崎さん」
かすれた覇気のない声をかけると、動かしていた手をピタリと止め、こちらを見た。
「待っていたぞ。来ると思っていた」
手に持ったファイルとタブレットをまとめて棚に置いた。
未だ痛々しい白い包帯に全身を包みながら、不自由な身体を動かしている。呼ばれたわけではないのだが、やはり玄崎さんもここへ来るだろうと予想していたようだ。僕に行く場所がないことまで予測済みだったのだ。
「まあ座れ」
そう言うと、ベッドの横にある丸椅子をポンと叩いた。言われるまま椅子へと腰かける。何から話せばいいのかわからず黙り込んでいると、玄崎さんは口を開いた。
「仕事が少し手についてきて浮かれてしまったのだろう。無理もない」
僕は玄崎さんの怒りなき優しい言葉に驚き、苛立ちを覚えた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、怒らないんですか? どうして責任をとれと言わないんですか?」
玄崎さんの目が見れない。僕は俯いたまま言った。
リリの時から秘めていた感情はこれだ。いっそのこと怒ってくれれば、辞めろと言われれば即座に辞めていたかもしれない。むしろその言葉を待っているのかもしれない。
しかし、この二人は一切、怒りもせず、責任を問うことなどしない。僕がやってしまったことはそんなにも小さなことなのだろうか。
玄崎さんは少し間を置くと、閉じていた口を開く。
「私は最初に言っただろう。貴様ができないことはお嬢もわかっていると」
事故の遭った日、確かにそう言われた。今でもよく覚えている。
「最初の失敗が……こんなことになるなんて……僕は自信を無くしました」
膝に置いた拳を強く握りしめる。僕が任されてきた仕事は、無理難題のことばかりだったが、今まで何とかこなしてきた。しかし、今回失敗したことは電話に出るという誰でもできること。
僕はリリから任される仕事をこなして満足していたのだ。いや、こなしていると思い込んでしまっていたのだろう。
「誰にだって失敗はある。それが貴様は今日だったというだけだ」
少しだけ口元を緩めていう。どうして、強く言ってくれない。僕はリリの時と同じく抑えきれなくなり、秘めた思いを爆発させてしまった。
「玄崎さんは何でもできるんでしょう。リリだって、なんでもこなし全てを手に入れた天才なのに……」
その言葉に玄崎さんの目が豹変する。
「貴様はお嬢が初めから、何の犠牲もなく今の地位に辿り着いたと思っているのか?」
「え?」
玄崎さんは少し怒りを見せて言った。
「齢十六にして、世界の社長までも振り向かせるお嬢だ。本来なら、普通の学生生活を送り、友達と毎日話し、遊び、恋をする。その全てを犠牲にして、今のお嬢がいるんだ」
その言葉に圧倒される。そう、社長こと蒼海リリは僕より一つ年下の女の子。そんな彼女が日本だけでなく世界の社長からも声をかけられる程の存在になっている。何も失わず手に入れるものではない。
「過去に付き人をしていた者はいたが、誰一人辞めろとは言わなかった。全て自分から辞めていったのだ」
「え?」
「それに……お前は、貴重な経験をして大学に行くんじゃなかったのか!?」
「………………」
なにも言い返せない僕を見て、玄崎さんは棚からタブレットをとると、再び操作し始めた。
「今日はこれで終わりだ。少し頭を冷やせ」
その言葉を最後に玄崎さんは何も話さなくなった。僕は重い腰を上げて病室を出る。まだまっすぐに歩けないほど疲弊している。来た意味があったのかはわからないが、それでも心が少しだけ軽くなった。今までの僕だったらここで逃げ出しているのかな。
もう少し続きます。




