幻の氷晶花と、クララのやきもち
「よし、慎重に滴下しろよ。……氷晶花の蜜は熱に極端に弱い。液温が一度でも狂えば一瞬で変質するぞ」
「はいっ……!」
迷宮第5階層から持ち帰った幻の薬草――『氷晶花』。
作業台の上で、アスターは極細のガラススポイトを握りしめ、息を止めて手元に集中した。
ポタリ、と青白く透き通る花弁から抽出した黄金の蜜を一滴、乳鉢の中で練り上げた薬液に落とす。
だが――その瞬間。
ボシュッ……!
乳鉢の底から、嫌な灰色の煙がブスブスと立ち上った。
透き通るはずだった液体は、一瞬にしてドロドロとした黒ずんだ泥水へと変色し、焦げた砂糖のようなツンとした異臭が鼻を突く。
「ああっ……!?」
アスターは思わずスポイトを取り落としそうになった。
「……チッ、攪拌の速度がほんのコンマ数秒遅かったな。蜜の冷気と薬液の熱が喧嘩して、エキスが完全に凝固しちまった」
鑑定器具を片付けながら、バルガスが煙管の煙をふぅと吐き出した。
「ううっ……ごめんなさい……! せっかくみんなで命懸けで採ってきた、貴重な氷晶花の蜜だったのに……僕の腕が未熟なせいで、無駄にしてしまいました……」
アスターは作業台に両手をつき、がっくりと肩を落とした。
下級ポーションが少し作れるようになったからと、心のどこかで調子に乗っていたのかもしれない。
まだ修行を始めて四日目のアスターに、『中級回復薬』の壁はあまりにも高すぎたのだ。
「馬鹿野郎。たかが修行四日目のヒヨコが、幻の素材使って一発で中級ポーション作れたら、世の中の薬師はみんな店畳んでるわ」
バルガスはアスターの頭を煙管の柄でコツンと軽く小突いた。
「失敗の悔しさを知らねえ奴は絶対に腕が上がらねえ。今日のところはいい薬だ。……おいクララ、このしょんぼり坊主を連れて街へ行ってこい」
バルガスはカウンターの奥から、買い出しメモと銀貨数枚を放り投げてきた。
「空き瓶の補充と今夜の飯の買い出しだ。ついでに美味いもんでも食わせて、このアホ面の気晴らしでもしてこい」
「えっ……でも、僕なんかが息抜きなんて……」
「いいから行くぞ、アスター!」
見かねたクララが、アスターの腕をぐいっと力強く引っ張った。
短く切り揃えた赤髪を揺らし、琥珀色の瞳をカッと見開く。
「ほら、シャキッとしな! あたしが美味いもん奢ってやるからさ!」
午後の中央通りは、迷宮帰りの冒険者たちで大賑わいだった。
石畳の両脇には色鮮やかな露店が並び、香ばしい肉の焼ける匂いが漂っている。
「ほらアスター、これ食いな! 名物の岩山鳥の串焼き!」
「わ、クララさん、熱いです……!」
クララに無理やり手渡された熱々の串焼きを、二人で半分こして頬張る。
外はカリッと香ばしく、中は驚くほどジューシーで、ピリッとした香辛料が口いっぱいに広がった。
「ん〜〜っ……! 美味しいです……!」
「だろ? ……へへっ、あたしなんてさ、駆け出しの頃は剣の素振りで何十本も木剣へし折って、ギルドの教官に毎日怒鳴られてたんだぜ? 一回失敗したくらいでくよくよすんなって!」
クララは快活に笑いながら、アスターの背中をバシッと叩いた。
痛いけれど、その手のひらからは、不器用で温かい優しさがジンジンと伝わってくる。
「……クララさん。ありがとうございます。なんだか、すごく元気が出てきました」
アスターが心からの笑顔を向けると、クララは一瞬ピタリと固まり、カッと耳まで真っ赤に染まった。
「な、何照れくさいこと言ってんだよ、バカ! ……あ、アスター、口の端にタレがついてるぞ」
「えっ、本当ですか?」
「もう、世話が焼けるなあ……」
クララは慌てて目を逸らしながらも、指先でアスターの口元のタレをそっと拭い取ってくれた。
触れた指先が微かに震えていて、クララの熱い体温が伝わってくる。
「ほ、ほら! 次は空き瓶を買いに行くぞ!早く!」
クララはアスターの手首をぎゅっと掴み、早足で人混みを歩き出した。
資材屋で清潔なガラス瓶を受け取り、夕暮れの市場を歩いていた時のことだった。
ふと、道端の露店に並べられたガラス細工の装飾品がアスターの目に留まった。
澄んだ青色のガラスで作られた、小さな押し花の栞。
透き通るような美しい青色を見つめているうちに、アスターの胸の奥に、懐かしい故郷の風景がふわりと蘇ってきた。
「……綺麗な青色ですね。故郷の裏山に咲いていた、青い野花に少し似ています」
「青い野花……?」
隣を歩いていたクララが、足を止めてアスターの顔を覗き込んだ。
「ええ。昔、幼馴染と一緒に裏山で見つけた、不思議な青いお花なんです。『アスターが病気にならないお守りね!』って、彼女が手帳に挟んで大切に持ってくれていて……旅立つ日に忘れていってしまったので、今僕が預かっているんですよ」
アスターが手帳の間に大切に挟まれている押し花を思い浮かべながら、穏やかな気持ちで微笑むと――。
ピクッ、とクララの眉が跳ね上がった。
「……ねえ、アスター」
「はい?」
「……昨日、迷宮で高熱を出した時さ。あんた、うわごとで『ミレイさん』って呼んでたけど……その幼馴染のことなのか?」
「あ、はい! 僕の幼馴染のミレイさんです。気が強くて怒りっぽいですけど、すごく優しくて……僕が風邪を引くたびに、いつも看病してくれた専属のお医者さんなんですよ」
アスターは何気なく、いつもの調子でそう答えた。
だが――。
クララの表情が、みるみるうちに強張っていった。
琥珀色の瞳が激しく揺れ、胸の奥で何かがズキリと痛んだように、ぎゅっと唇を噛み締める。
(専属のお医者さん……? あたしが一生懸命励ましてあげてたのに……アスターの心の中には、ずっとその幼馴染がいるんだ……)
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられるように苦しい。
さっきまであんなに楽しかった市場の喧騒が、急に遠くへ離れていくような感覚。
「クララさん……? どうしたんですか、急に立ち止まって――」
「……ふ、ふーん!」
クララはぷくーっと頬を限界まで膨らませると、アスターの手首を掴んでいた手を、力いっぱいにぎゅっと握り直した。
「な、何さ! 専属のお医者さんだか何だか知らないけど……今、アスターの専属護衛をしてるのは、このあたしなんだからね!」
「えっ……?」
「あたしと二人で街を歩いてる時に、他の女のことばっかり思い出してんじゃないわよ、バカアスター!」
「ひゃうっ!? ご、ごめんなさい!?」
クララは真っ赤な顔でそっぽを向いてツンと鼻を鳴らした。
けれど、繋いだアスターの手だけは、絶対に離そうとしない。
(……なんなんだよ、あたし。……こんなの、まるで……あいつにヤキモチ焼いてるみたいじゃないか……!)
胸の鼓動が、痛いほどうるさく高鳴っていた。
命を救われ、美味しいご飯を食べさせてもらい、優しい笑顔を向けられるたびに――自分の中で膨らんでいった感情。
それが『ただの恩義』なんかではなく、恋心なのだと、クララは生まれて初めて自覚してしまったのだ。
「……絶対に、離さないから」
「えっ? クララさん、何か言いましたか?」
「な、なんでもない! ほら、おっちゃんが待ってるから早く帰るよ!」
夕焼けに照らされた赤髪を揺らしながら、クララはアスターの手をぎゅっと引いて歩き出した。
だが――。
路地裏の『緑竜の息吹亭』の前に戻ってきた瞬間、アスターたちは目を丸くして立ち止まった。
「……な、何だこれ!?」
クララが目を丸くして声を上げた。
普段は人通りの少ない静かな店の前に、十人以上の若い冒険者たちが人だかりを作って待っていたのだ。
先頭に立っていたのは、昨日ポーションを買ってくれた少年――レオンだった。
「あ! アスター兄ちゃんだ! 親父、兄ちゃんが帰ってきたぞ!」
レオンがパァッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
後ろに並ぶ冒険者たちも、腕や足に包帯を巻いて、期待に満ちた目をアスターに向けている。
「レ、レオン君!? どうしたんですか、こんなに大勢で……!」
「昨日兄ちゃんから買ったポーション、迷宮で仲間たちに使わせたんだよ! そしたら『全然痛まないし、胃がムカムカしねえ!』って大騒ぎになってさ! 頼むアスター兄ちゃん、俺たちにあの薬を売ってくれ!」
「ええっ……!?」
夕暮れの店先で、アスターの作ったお薬を求める冒険者たちの熱い歓声が響き渡るのだった。




