中層の冷気と、くしゃみ一発の天変地異
「ふ、ふえぇ……っ! さ、寒いですぅ……!」
迷宮第5階層――通称『極寒の氷穴』。
青白く凍りついた巨大な氷柱が天井から無数に垂れ下がり、地面一面がツルツルの氷床となった極冷の世界に足を踏み入れた瞬間、アスターは分厚い毛布にくるまりながら情けない悲鳴を上げた。
ヒョォォォォォォッ!!
迷宮の奥から吹き抜けてくるのは、皮膚が裂けるような氷点下の猛吹雪だ。
長袖の防寒着を三枚重ね着し、マフラーをぐるぐる巻きにして毛布を被り、布マスクを二重に装着したアスターだったが、そんな重装備などまるで意味をなさなかった。
「……チッ、おかしいな。第5階層は寒冷地帯とはいえ、ここまでの猛吹雪になるはずはねえんだが……」
煙管の煙が一瞬で白く凍りつく寒さの中、バルガスが眉をひそめて呟いた。
「だ、だって……ぞくぞくして……頭がぐわんぐわんして……息が熱いんです……!」
いつも以上の異常な極冷気に当てられ、アスターの体温計が限界を突破したように、全身の血液が沸騰し始めた。
秋風が吹くだけで寝込むアスターのデリケート極まりない体が、この想定外の超寒波によって――瞬く間に【四十度の高熱(重度風邪デバフ)】を叩き出してしまったのだ。
「アスター!? 顔が真っ赤だよ! 息がめちゃくちゃ熱い……って、嘘でしょ!? 入って一分で四十度超えの高熱出してる!?」
アスターの額に触れたクララが、あまりの熱さに手を引っ込めて悲鳴を上げた。
額から湯気が出るほどの超高熱。
「ううっ……視界が回ります……ミレイさぁぁん……今日のお茶は薄味でお願いします……」
「ミレイ……? 誰だそれ……って、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ!?」
目がトロンとして、意識が完全に朦朧とする。
足元がおぼつかなくなり、その場に崩れ落ちそうになったアスターを、クララが真っ青になって抱きとめた――その時だった。
ズズズズズズズズズッ……!!
氷穴全体を激しく揺るがす、不気味な地響きが鳴り響いた。
頭上の巨大な氷柱が何本も砕け散り、洞窟の奥から、氷点下数十度の猛烈な青白い冷気の嵐が吹き荒れてくる。
グオオオオオオオオオオオオオンッ!!!!
響き渡る、鼓膜を劈くような凶悪な咆哮。
青白い霧の向こうから姿を現したのは、全長十メートルを超える巨大な体躯に、白銀の氷鱗を纏った中層の絶対捕食者――『白銀のフロスト・ドレイク(氷竜)』だった!
「なっ……馬鹿なッ!? なんで第10階層の中層ボスが、こんな手前まで上がってきてやがるんだぁぁぁっ!?」
バルガスが顔色を変えて絶叫した。
第5階層がいつもより異常に寒かったのは、この冷気の元凶である巨大氷竜が、中層から迷い込んで居座っていたからだったのだ!
「クソッ、退路を塞がれた! おっちゃん、アスターを連れて下がってて! あたしが命懸けで足止めする!」
クララが神速で長剣を抜き放ち、決死の覚悟で氷竜の前に立ちはだかる。
だが、フロスト・ドレイクは獲物を嘲笑うかのように、巨大な翼を広げて高く跳躍した。
ゴォォォォォッ!
氷竜の巨大な顎の奥に、触れたもの全てを分子レベルで凍結させる青白い光――【絶対零度ブレス】の超高密度エネルギーが収束していく。
洞窟全体を飲み込むほどの超広範囲攻撃。
逃げ場など、どこにもない!
「アスターッ! おっちゃんッ!!」
クララが絶望に目を瞠り、アスターを庇うように覆いかぶさった。
迫り来る絶対の死。
だが――四十度の高熱で頭が沸騰していたアスターの頭の中には、氷竜のブレスどころではない『別の極限状態』が訪れていた。
(ひゃうぅ……冷たい粉塵を吸い込んじゃいました……鼻が……鼻の奥が……っ!)
猛吹雪に乗って漂ってきた氷の微粒子が、アスターの敏感な鼻腔の粘膜を強烈に刺激する。
ムズムズ。ムズムズムズ……!
止まらない。耐えられない。
(出る……っ! 大きな……くしゃみが出ちゃいます……っ!)
高熱による重度風邪デバフ。
その極限状態に呼応して、アスターの体内に眠る神聖魔導の回路が臨界点を超えて熱暴走を起こし、大気中の全魔力をブラックホールのように吸い込み始めた。
「……へ……っ……」
「アスター!?」
「……へ……っ……くち……っ……」
「な、なんだ!? アスターの体から、とんでもねえ神聖魔導の奔流が漏れ出して――!?」
バルガスとクララが目を見開いた、その刹那だった。
「ハ――ックショォォォォォォォンッ!!!!」
――ズドォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
天地がひっくり返るような、神話級の大轟音が氷穴に炸裂した。
アスターの小さなくしゃみ一発と共に放たれたのは、太陽の輝きを凝縮したような超極大の【神聖天変地異レーザー】だった。
フロスト・ドレイクが放った絶対零度のブレスを、正面からゴミ屑のように一瞬で呑み込み、完全消滅。
そのまま黄金の閃光は巨大な氷竜の巨体を直撃した。
ギニャァァァァァァァッ!?!?
フロスト・ドレイクは断末魔の悲鳴を上げる暇すらなく、神聖なる超高熱の光に包まれて、細胞単位で純白の光の粒子となって綺麗サッパリ蒸発・昇華した。
さらに、くしゃみの余波の衝撃波は留まることを知らず、氷穴を覆っていた猛吹雪と冷気を根こそぎ吹き飛ばし、分厚い氷の壁を跡形もなく融解させていく。
――ボフゥッ……。
数秒後。
そこには、春の陽だまりのような暖かな光が差し込み、ポカポカとした心地よい小春日和の草原が広がっていた。
「………………」
「………………」
剣を構えた姿勢のまま、アゴが外れて白目を剥くクララ。
咥えていた煙管を口からポロリと落とし、両膝からガクガクと崩れ落ちるバルガス。
二人は、完全に魂が抜けた顔で、氷竜が消滅したクレーターと、鼻をすすっているアスターを交互に五度見した。
「な……っ!? くしゃみ一発で……中層ボスの氷竜を消滅させて……迷宮の極寒地帯を春の陽気に変えた……!?」
クララの声が、裏返って震えていた。
バルガスも脂汗を滝のように流し、頭を抱えて叫んだ。
「ば、化け物だ……! あいつ、昨日まで乳棒を回して『手が痛いですぅ』って泣いてた病弱坊主だぞ……!? なんで神代の賢者でも使えねえような極大神聖魔導をくしゃみでブッ放せるんだぁぁぁぁっ!?」
……ふぅ。
くしゃみをしたことで鼻の通りが良くなり、体内の余分な熱が抜けたアスターは、ショルダーバッグから清潔なハンカチを取り出して鼻をかんだ。
「チーン。……ふぅ。くしゃみをしたら、少し熱が下がってスッキリしました。やっぱり風邪の引き始めには、思い切りくしゃみをするのが一番ですね」
アスターは携帯消毒液で両手を丁寧に消毒し、布マスクを新しいものに取り替える。
「うがいも完了。……あれ? バルガスさん、クララさん、どうして地面に座り込んでるんですか?」
アスターが不思議そうに首を傾げると、暖かな光に照らされた岩肌の一角を指差した。
「あ、見てください! あんなところに、すごく綺麗な青いお花が咲いてますよ!」
春のような陽気を浴びて、氷が溶けた岩陰に咲き誇っていたのは――氷の結晶のように透き通る花びらから、黄金の蜜を滴らせる幻の薬草――『氷晶花』の群生だった。
「すごい! こんなにたくさん氷晶花が自生してるなんて、大収穫ですね!」
アスターはおっとり笑顔でナイフを構えながら、ふと消滅した氷竜のいたあたりを見回して、真面目な顔で呟いた。
「それにしても……さっきの大きなトカゲさん、冷たい息なんて吐いていましたね。あんな極冷気をまともに吸い込んだら、気管支を痛めて重度の肺炎になっちゃうところでした……! うがい手洗いもできない魔獣って、本当に恐ろしいですねぇ」
アスターが心底ぞっとしたように体を震わせると、背後でクララとバルガスが、互いに引きつった顔を見合わせ――魂の底から絶叫した。
「「お前が一番恐ろしいわぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」」




