薬師の日常と初めての特製ポーション
「おはよー、アスター! バルガスのおっちゃん!」
カランコロン、と澄んだドアベルの音と共に、朝の柔らかな光を背負ってクララが店に飛び込んできた。
短く切り揃えた赤髪を元気よく揺らし、小さな竹籠を両手で大事そうに抱えている。
「おはようございます、クララ。朝早くからどうされたんですか?」
「これ、スラムの裏山で採れた木苺! 昨日の夜持って帰ったポトフ、弟のトミーと妹のリリィが『こんな美味しいもの食べたことない!』って泣いて喜んでさ。これ、あいつらからアスターへのお礼!」
クララは照れくさそうに笑いながら、朝露をまとった真っ赤な木苺の籠を差し出してきた。
「わあ……! 甘酸っぱくて美味しそうな木苺ですね。トミー君とリリィちゃんに、よろしくお伝えください。とても嬉しいです」
「へへっ、どういたしまして! ……で、今日のアスターの朝ご飯は何だ?」
クララはクンクンと鼻を鳴らし、カウンターの奥の台所を興味津々に覗き込んだ。
「ふふっ、今日は焼きたての薄焼きパンと、胃腸を温める特製カモミールミルクティーですよ。クララの分も用意してあります」
「やったぁぁっ! もう、アスターのご飯を食べると他のものが食べられなくなっちゃうじゃないか!」
クララはぷくっと頬を膨らませて怒りながらも、幸せそうにミルクティーを両手で包んで啜った。
カウンターの奥で朝の帳簿をつけていたバルガスが、煙管をくゆらせながら呆れたように溜息をつく。
「やれやれ。飯に釣られた野良猫が一匹、完全に居着いちまいやがったな」
「野良猫とは失礼な! あたしはアスターの専属護衛なんだから、朝の様子を見に来るのは当然の任務だよ! ……で、アスター。今日は迷宮に薬草を採りに行く予定はあるのか? 行くならあたしが護衛についてくけど」
クララが腰の長剣をトントンと叩きながら尋ねてきた。
「あ、今日は迷宮には行かない予定なんです。店の中で、バルガスさんから薬の調合を一からみっちり教えていただくことになっていて」
「そっか! 今日は店で調合の修行なんだな。それなら、あたしはギルドに行って誰か仲間を誘って、迷宮へひと稼ぎ行ってくるよ! スラムの弟たちにももっと美味いもん食わせてやりたいしな!」
クララはパンを綺麗に平らげると、ごちそうさま、と手を合わせて立ち上がった。
「よし! 美味い飯で元気百倍! アスターも今日の修行、しっかり頑張れよ! 夕方にはまた顔を出すからさ!」
「はい! クララもお気をつけて行ってらっしゃい!」
手を振って駆け出していくクララを見送り、アスターたちの修行の一日が始まった。
クララが出発すると、店内にピンとした心地よい緊張感が漂い始めた。
バルガスが作業台の上に、ガラス瓶に入った濁った緑色の液体をドンと置いた。
「おいアスター。飯を食ったら修行の時間だ。……これを見てみろ」
「はい。……うわぁ……」
瓶の中身を覗き込んだ瞬間、アスターは思わず顔をしかめて身を引いた。
液体の中には細かなゴミや繊維のカスが浮遊し、鼻をつくようなツンとした泥臭い匂いが漂っている。
「これは……市販の『下級回復薬』ですか? どうしてこんなに不純物だらけなんですか……!?」
「大手商会が利益を出すために、水増しして雑にすり潰した粗悪品だからだ。迷宮都市じゃ、こんな泥水みたいなポーションが銀貨五枚で平気で売られてやがる。純度はせいぜい四十パーセント程度だ」
バルガスは苦々しげに吐き捨てた。
「こんな濁った薬を飲めば、傷は治っても胃腸が荒れ、毒素が体に蓄積する。……だが、貧しい駆け出し冒険者は、これしか買えねえんだ」
「そんな……ひどいです……! 傷を治すための薬で体を痛めるなんて、そんなの薬じゃありません!」
普段はおっとりしているアスターだが、健康と薬の安全性に関することだけは、どうしても譲れなかった。
「そうだ。だからうちの店は、そんな粗悪品は絶対に売らねえ。……それにアスター、お前の目標は『王国薬師ギルドの公認開業免許』を取ることだったな?」
「あっ……はい! オズワルド師匠からも言われました。一人前の薬師になって、いつか自分の店を開くために、絶対に免許を取りたいです!」
「なら、まずはこの下級回復薬の調合だ。ギルドの基礎実技試験じゃ、雑味のない純度六割以上のポーションを安定して作れることが最低条件になる。……目標は、今日中に及第点の薬を三本作ることだ」
「はいっ! やらせてください!」
アスターは作業着の袖をまくり上げた。
流水で三十秒の手洗い、爪の間の除菌、そしてオズワルド師匠の乳鉢をアルコールで清める。
だが――調合は、想像以上に過酷だった。
「おいバカ野郎! 火が強すぎる! 薬草のエキスが焦げて濁っちまうだろ!」
「ひゃうっ!? す、すみませんっ!」
最初の一本は、蒸留の火加減を誤ってしまい、鍋の底が焦げ付いて真っ黒な煙を上げて失敗。
気を取り直して挑んだ二本目。
三キロの素焼きの乳鉢に薬草を放り込み、細い腕で必死に乳棒を回転させる。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……!
「はぁ、はぁ……! ううっ、腕が……ちぎれそうです……!」
「へばってんじゃねえ! 均等に力を入れねえと、微粒子にムラができるぞ!」
腕力のないアスターにとって、薬草を完全にすり潰す作業は地獄のような筋トレだった。
掌の皮が擦れて豆が潰れ、ジンジンと痛む。
それでもアスターは乳棒を止めなかった。
(誰かが安心して飲める、体に優しいお薬を作りたい……! そして立派な薬師になって、ミレイさんに忘れ物を届けに行くんだ……!)
毒素のある硬い葉脈をナイフで一本ずつ丁寧に切り離し、不純物をピンセットで取り除く。
手際は決して速くないし、一流の薬師のような華麗さもない。
けれど、夕暮れ時になる頃――何時間もかけて泥臭く練り上げた、たった三本の小瓶が作業台の上に並んだ。
「……はぁ、はぁ……! か、完成しました……! 確認をお願いします……」
アスターは脂汗を拭いながら、小瓶をカウンターに差し出した。
「ふん……」
バルガスが小瓶を手に取り、光に透かして鑑定器の針を落とした。
小瓶の中の液体は、市販の泥水とは違い、柔らかな薄緑色に透き通っていた。
「……純度六十五パーセントってとこか。一流の職人が作る七割超えにはまだまだ届かねえし、時間はかかりすぎだ。……だが、不純物と雑菌だけは綺麗に抜けてやがる。市販の泥水よりは遥かにマシな、上出来の及第点だ」
「よ、よかったぁ……!」
アスターはその場にへたり込み、ほっと胸を撫で下ろした。
カランコロン、とドアベルが鳴ったのは、まさにその時だった。
「ただいまー! あー、疲れた!」
迷宮探索を終えたクララが、夕暮れの店に帰ってきた。
見れば、腕の革鎧が少し擦り切れ、白い肌に赤い引っ掻き傷がついている。
「クララ、お帰りなさい! あ、腕にお怪我をされていますね……!?」
「ああ、迷宮のトゲツタにちょっと腕を引っ掛けちゃってさ。痛くはないんだけど……」
「ちょうどよかったです! 僕が今作ったばかりのポーション、試してみていただけますか?」
「えっ? アスターが作った薬!? ……うん、試してみる!」
クララが小瓶から薬液を一滴、腕の引っ掻き傷に垂らした。
じわぁぁぁっ……。
「あっ……!」
クララの瞳が丸くなった。
「痛くない……! 市販のポーションって、塗ると焼けるようにヒリヒリ痛むのに……これは全然痛くないよ! じわじわ温かくなって、痛みがすーっと引いていく……!」
傷口は一瞬で消えるわけではないが、穏やかに血が止まり、綺麗な薄皮が張り始めていた。
「よかった……! 刺激の強い成分を丁寧に抜いて、体に優しい配合にしましたから」
「へへっ、アスターらしい優しい薬だなあ!」
クララは腕を嬉しそうにかざして笑った。
「おい小僧、残りの二本、店先に並べるぞ。一本銀貨二枚だ」
「はい!」
アスターは手書きで丁寧にラベルを書いた。
『アスター調合・刺激の少ない下級回復薬(見習い作)』。
夕暮れの店先。
並べられた二本のポーションを見つけて立ち止まったのは、腕に包帯を巻いた貧しそうな少年冒険者――レオンだった。
「バルガスの親父、一番安いポーションをくれ……って、銀貨二枚? 見習い作って書いてあるけど、ちゃんと効くのかよ?」
「うちの見習いが作った、刺激の少ねえ薬だ。市販の泥水よりずっと胃に優しいぞ」
「へえ……いつもポーション飲むと胃がムカムカして吐きそうになるんだよな。試しに二本とも買ってみるよ」
レオンは銀貨四枚を置いて、大事そうにポケットに仕舞って帰っていった。
「あ、僕、奥の台所で手洗いうがいをして、夕飯の仕込みをしてきますね!」
アスターがパタパタと小走りで台所の奥へと引っ込んだ、その直後のことだった。
カウンターの前に残されたクララが、周囲を油断なく見回すと、バルガスにぐっと顔を近づけて小声で囁いた。
「……ねえ、バルガスのおっちゃん」
「あぁん? なんだよ小娘、急にヒソヒソ声になりやがって」
「……昨日の迷宮でのことだよ。……あいつ、一体何者なんだ?」
クララの真剣な眼差しに、煙管を咥えようとしていたバルガスの手がピタリと止まった。
「あの『大角岩喰い猪』だよ。アスターは『猪が自分で壁にぶつかって気絶した』なんて能天気なこと言ってたけど……あたし、目の前でハッキリ見たんだ。アスターの体が残像を残して猪の突進をかわして……裏拳一発で、一トンの猪を岩壁深くまで吹き飛ばしたのをさ」
「…………」
「あんなの、どう見ても偶然なんかじゃないよ。上級冒険者(Aランク)でもなきゃ、あんな神速の身のこなしと怪力、出せるわけがない! ……あいつ、実は正体を隠した凄腕の武闘家か何かなのか……!?」
クララの必死の問いかけに、バルガスは深々と煙を吐き出し、苦々しげに頭をガリガリと掻いた。
「アホ言え。さっき見てただろ。乳棒を何十回か回しただけで手の皮が剥けて、今も奥で『ううっ、おててが痛いですぅ……』って半泣きで消毒液塗ってるようなヒョロガリ坊主だぞ。凄腕武闘家のわけがねえ」
「だ、だけど……!」
「……まあ、オズワルドのクソジジイが、ただの病弱坊主に自分の乳鉢を譲るはずはねえとは思ってたがな。……あの小僧、自分でも気づいてねえ、とんでもねえ秘密を抱えてやがるのは間違いねえな」
「本人が無自覚……? そんなことあるのかよ……」
「ケッ、世の中には本人が一番自分の才能を知らねえってアホもいるからな。……まあいい、明日の迷宮でじっくり観察してやるよ」
台所から戻ってきたアスターに、二人は何事もなかったかのように口を閉じた。
「お待たせしました! 夕飯の準備、完了です!」
「へっ、よくやった。……おいアスター、明日は迷宮の上層を抜けて、第5階層……『極寒の氷穴』へ行くぞ」
「ええっ!? ご、極寒ですか!? 僕、寒さにはめっぽう弱くて、ちょっと冷たい風が吹くだけですぐ四十度の熱を出すんです……!」
「だからこそだ。あの氷穴にしか咲かねえ『氷晶花』の蜜は、薬の純度を一気に跳ね上げる幻の素材だ。完全防寒して行くぞ」
「任せな! あたしがアスターを毛布でぐるぐる巻きにしてでも守ってやるからさ!」
クララは腕を組んで頼もしく笑いながらも、その琥珀色の瞳の奥に、密かな観察の光を宿していた。
こうして、アスターたちは翌朝、極寒の第5階層へと挑むことになったのだった。




