初めての迷宮探索と、痺れ草の奇跡
「うがい三回、手洗い念入り、携帯消毒液よし。……準備完了です!」
翌朝の『緑竜の息吹亭』の店先で、アスターはショルダーバッグの留め金をきつく締めた。
清潔な布マスクを二重に装着し、長袖の作業着の上に分厚い革手袋をはめる。
「おい小僧、薬草採りに行くだけだぞ。なんでそんな決死隊みたいな重装備なんだ」
煙管をくゆらせながら現れたバルガスが、呆れ果てたように眉をひそめた。
「迷宮は埃とカビと未知の病原菌の宝庫ですから! 健康管理に妥協は許されません!」
「ふふっ、アスターは本当に真面目だなあ!」
背後から快活な笑い声を響かせてやってきたのは、すっかり顔色の良くなったクララだった。
短く切り揃えた燃えるような赤髪を朝日にきらめかせ、腰に佩いた細身の長剣をパチンと鳴らして笑う。
「昨日のお礼も兼ねて、あたしがばっちり護衛してやるからさ! 安心してついてきな!」
「ありがとうございます、クララさん。頼りにしていますね」
アスターがおっとり微笑むと、クララは「うっ……」と顔を林檎のように赤らめ、照れくさそうに視線を逸らした。
迷宮都市の中心部に位置する、大迷宮『大樹の根』の入り口。
すり鉢状の大穴の底にぽっかりと開いた漆黒の巨大洞窟を見下ろした瞬間、アスターは思わず足がすくんだ。
「ひゃあ……すごい湿気と魔力の気配ですね……」
「ビビってんじゃねえぞ、小僧。今日は上層の第3階層までだ。あそこには良質な『変異痺れ草』が群生してる」
バルガスを先頭に、アスターたちは薄暗い迷宮の螺旋階段を下りていった。
迷宮の内部は、巨大な世界樹の化石根が複雑に入り組んだ、青白い燐光に照らされる神秘的な空間だった。
ひんやりとした湿った空気が漂い、薄暗い通路の先から、カサカサと不穏な蠢く音が響いてくる。
「――ッ! アスター、下がってて!」
前方を歩いていたクララが、鋭い声と共に長剣を一気に抜き放った。
通路の天井から飛び降りてきたのは、人間の頭ほどもある巨大な牙を持った『大鎌カマキリ』が三匹。
シャシシシッ! と不気味な鳴き声を上げ、鋭利な鎌を振り下ろしてくる。
「ひぃっ、虫です! 雑菌の塊です……!」
アスターが頭を抱えてしゃがみ込んだ刹那――クララの体が風のように躍動した。
「はぁッ!」
神速の踏み込み。
クララはアクロバティックな身のこなしで低く滑り込み、一番手前のカマキリの足を一閃で切り払う。
さらに空中で身を翻し、二匹目の首筋へ目にも留まらぬ突きを繰り出した。
ズバァッ! ザシュッ!
流れるような三連撃。
最後の一匹が振り下ろした鎌を紙一重でバックステップでかわすと、上段からの鋭い唐竹割りで両断してみせた。
緑色の体液を撒き散らして、魔獣たちがバタリと倒れ伏す。
「ふぅ……っと。よし、露払い完了!」
クララは長剣に付いた体液をピッと払い、鞘に納めて得意げに振り返った。
「わあ……っ! クララさん、すごい身のこなしですね! まるで風みたいでした!」
「へへっ、これくらい前衛なら当然さ! アスターには爪の先一つ触れさせないよ!」
「あ、でも返り血に雑菌が混ざっていますから、アルコール消毒液を吹きかけますね! シュッシュッ!」
「ひゃっ!? つ、冷たっ! ちょっとアスター、顔にかけるなよ!」
クララが真っ赤になってバタバタと手を振る。
バルガスは煙管をふかしながら、「やれやれ、賑やかなこった」と苦笑していた。
魔獣を退け、アスターたちは目的の第3階層の湿地帯へと到着した。
岩陰に広がる、紫色の斑点がついた薬草の群生地。
「いいか小僧、これが『変異痺れ草』だ。葉の裏のトゲに強烈な神経毒を持ってるからな。手袋越しでも絶対に油断すんなよ」
「はい、分かりました。根元の筋を傷つけないように、慎重に採取しますね」
アスターはしゃがみ込み、オズワルド師匠から教わった通り、薬草の根元を丁寧にナイフで掘り起こし始めた。
土を優しく払い、傷をつけないよう一本ずつ採取袋へ収めていく。
――けれど。
調子に乗って三株目の大きな痺れ草に手を伸ばした、まさにその瞬間だった。
チクリッ。
「ひゃっ……!?」
鋭い痛みが、右手の指先に走った。
見れば、手袋の縫い目のわずかな隙間から、痺れ草の鋭利なトゲが皮膚に突き刺さっていた。
「し、痺れる……っ!?」
トゲから注入された毒素が、瞬く間に血管を通って全身へと広がっていく。
首筋から背骨、そして足先にかけて、強烈な電撃が走ったように全身の筋肉がカチカチに硬直した。
「う、ううっ……! 手足が……動きません……っ!」
立っているのが精一杯で、指一本すらピクリとも動かせない。
声を出そうとしても、舌が痺れて「あ、う……」と掠れた音しか出ない。
(死ぬ……っ! 全身が金縛りになって……呼吸すら苦しいです……っ!)
脂汗が滝のように流れ、アスターは完全な棒立ち状態で立ち尽くした。
そんな絶体絶命の無防備なアスターの前に――突如として、迷宮の地響きが轟いた。
ズズゥゥゥゥンッ!
通路の角を曲がって突進してきたのは、軽自動車ほどもある巨躯に、巨大な岩石のような角を生やした上層最強の凶悪魔獣――『大角岩喰い猪』だった。
ブモォォォォォッ!
猛烈な地響きを立てて、猛スピードでアスターへと突進してくる。
岩壁をも粉砕するその角に直撃すれば、アスターの軟弱な体など一瞬でミンチになってしまう。
「アスターッ! 逃げろっ!!」
クララが悲鳴を上げ、神速の踏み込みで剣を抜いて割り込もうとする。
だが、猪の突進速度があまりにも速すぎて、到底間に合わない!
「クソッ、小僧ォォォッ!!」
バルガスも大声で叫びながら手を伸ばす。
迫り来る巨大な角。轟く咆哮。
だが――その時のアスターの頭の中は、魔獣の恐怖どころではなかった。
「ううっ……頼むから……ぶつかってこないでください……!」
全身が痺れて痛くて、立っているだけで精一杯だったのだ。
ただただ痛みに耐えるため、アスターは硬直した体にギュッと力を込め、反射的に身をすくめた――その瞬間だった。
――シュパァァァァッ!
刹那。
アスターの体が、空間を飛び越えたかのような、目にも留まらぬ神速の残像を描いた。
突進してきた岩喰い猪の角が、アスターの鼻先わずか〇・〇〇一ミリの空間を空しく切り裂く。
そして――。
麻痺デバフによってカチカチに硬直したアスターの右手が、激痛に耐えようとビクッと跳ね上がった。
その手の甲が、突進の余波で通り過ぎようとした猪の側頭部に、コツンと触れた。
――ドゴォォォォォォォンッ!!!!
迷宮全体を揺るがすような、凄まじい大爆破音が炸裂した。
一トンの巨体を誇る岩喰い猪が、超音速の砲弾と化して真横へと吹き飛ぶ。
頑丈な迷宮の岩壁に深々とめり込み、クモの巣状の巨大な亀裂を走らせて、白目を剥いて一瞬で気絶・沈黙していた。
パラパラと落ちてくる瓦礫の粉塵。
洞窟内に、完全な静寂が訪れた。
「………………」
「………………」
剣を構えた姿勢のまま固まるクララと、煙管をポロリと落としたバルガス。
二人は顎が外れそうなほど口をポカーンと開け、めり込んだ猪と、その場に棒立ちのアスターを交互に三度見した。
「な……っ!? 残像で神速回避して……裏拳一発で岩喰い猪を粉砕した……!?」
クララが震える声で呟く。
バルガスも額から冷や汗をダラダラと流し、絶句していた。
「ば、馬鹿な……あいつ、さっきまで乳鉢の重さにプルプル震えてたヒョロガリだぞ……!? なんでAランク前衛並みの神速と怪力が出せるんだ……!?」
……数分後。
痺れ薬草の毒素が汗と共に抜け、手足の自由が戻ったアスターが、その場にへたり込んだ。
「……ふぅ。やっと手足の感覚が戻りました。やっぱり痺れ草のトゲは痛いですね」
アスターはショルダーバッグから携帯用の薬草水を取り出し、両手を念入りに消毒する。
「うがいも完了。……あれ? そういえば、さっきの大きな猪さんはどうしたんですか?」
アスターが不思議そうに首を傾げると、壁にめり込んだ猪を指差した。
「急にすごい勢いで走ってきたと思ったら、自分で壁に激突して気絶しちゃいましたね。迷宮の猪さんは、ずいぶん慌てん坊なんですね」
「慌てん坊で壁にめり込む奴があるかぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
バルガスの魂のツッコミが、迷宮の奥深くまで木霊した。
――こうして、無事に薬草採取を終えたアスターたちは、夕暮れの街へと戻ってきた。
店に戻る帰り道、クララはどこか元気がなく、俯いたまま歩いていた。
「クララさん、どうされたんですか? お怪我でも……?」
「……ううん。……あたし、アスターを護衛するって偉そうに言ったのにさ。結局、何にも守れなかったなって思って……」
「そんなことありませんよ! 最初の大鎌カマキリを華麗に倒してくださったおかげで、僕は安心して薬草を採れましたから。本当に感謝しています」
アスターが笑顔で言うと、クララは顔をパッと上げた。
「……本当か?」
「はい! ですから今夜は、感謝のしるしに僕が夕飯を作りますね。体を芯から温めて疲れを取る、特製の薬草ポトフです!」
「アスターの手料理……!」
クララの琥珀色の瞳がパァッと輝いた。
その日の夜。
『緑竜の息吹亭』の食卓には、湯気を立てる美味しそうなポトフが並んでいた。
じっくり煮込んだ柔らかいお肉と、甘みの引き出された野菜、そして胃腸に優しい薬草のスープ。
「んん〜〜〜っ! ……っ、べ、別に感動なんてしてないからね!」
一口食べた瞬間、頬をとろけさせたクララは、慌ててキリッと眉を吊り上げてツンと横を向いた。
「お肉が口の中でほろほろ崩れて、野菜の出汁が優しくて、疲れた体に染み渡るだけでさ! ……勘違いしないでよね、あたしはただお腹が空いてただけなんだから!」
そう言いながらも、クララはスプーンを口に運ぶ手を止めず、ふうふうと息を吹きかけながら幸せそうに頬張っている。
「…………」
素直になれずに照れ隠しで怒ったような顔をしながら、誰よりも美味しそうに食べるその仕草。
アスターは湯呑みを両手で包みながら、胸の奥がキュンと温かくなるのを感じていた。
(……ミレイさんも、そうだったな)
アスターが風邪を引いた時や、お腹を壊した時に薄味のスープを作ると、ミレイはいつも『もう! 病人が料理なんてしてんじゃないわよ!』と怒りながら、一口食べるたびに『……別に美味しいなんて言ってないから!』と顔を真っ赤にしておかわりしてくれた。
(ミレイさん、王都で元気にしているかな……)
クララには悟られないよう、アスターは胸の中の切なさをそっと仕舞い込み、ふわりと穏やかに微笑んだ。
「ふふっ、お口に合ってよかったです。おかわり、まだお鍋にたくさんありますよ」
「……っ、そ、そこまで言うなら、もう一杯だけもらってやってもいいけどさ!」
クララは林檎のように真っ赤な顔でスープ皿を差し出してきた。
バルガスも「……フン、悪くねえ味だ」と無言で鍋をおかわりしている。
「あたし、スラムで弟や妹たちと暮らしててさ……こんなに温かくて美味しいもの、生まれて初めて食べたよ……」
ぽつりと呟いたクララの琥珀色の瞳に、温かな光が灯っていた。
やがて、スープを一滴残らず飲み干したクララが、スプーンを置いて勢いよく立ち上がった。
「アスター! あたし、明日からも毎日この店に通っていいか!?」
「えっ? 毎日ですか?」
「ああ! あんたが迷宮に薬草を採りに行く時は、あたしが専属で護衛してやる! その代わり……またこの美味い飯を食わせてくれよ!」
クララは人懐っこい笑顔を浮かべ、細い胸をドンと叩いた。
「おいおい、食い意地のはった赤毛の小娘が居着いちまいやがったな」
バルガスが呆れ顔で煙管を吹かすと、アスターに向き直った。
「いいかアスター、明日からは調合の特訓も本格的に叩き込むからな。覚悟しとけよ」
「はい、バルガスさん! 手洗いうがいを徹底して、精一杯頑張ります!」
こうして、アスターの迷宮都市での賑やかな薬師修業の日々が、本格的に動き出したのだった。




