赤髪の女剣士クララ
「ぐずぐずすんな、小僧! 湯を沸かせ! 一番奥の棚から『銀月草』と『白蜜草』の乾燥葉を持ってこい!」
バルガスさんの怒声が店内に響き渡る。
作業台の上には、血相を変えた青年冒険者に抱きかかえられた赤髪の少女――クララさんが横たわっていた。
その顔色は土気色を通り越して禍々しい紫色に変色し、呼吸はヒューヒューと浅く途絶えかけている。
露出した太ももには、黒斑毒蜘蛛の二つの牙痕が黒く鬱血して腫れ上がっていた。
「アスター! 黒斑毒蜘蛛の毒は血を急速に凝固させる! 心臓まで固まったら終わりだ! お前は銀月草の毒抜きと、白蜜草の微細繊維の抽出をやれ!」
「はいっ!」
「いいか、少しでも繊維のカスや雑菌が残ったら、血管が詰まってショック死するぞ! 寸分の狂いもなく完全に不純物を削ぎ落とせ!」
「分かりました!」
アスターは作業着の袖を素早くまくり上げた。
怖気づいている暇なんてない。目の前で、一人の少女の命の灯火が消えかけているのだ。
オズワルド師匠から十年間叩き込まれた、呼吸法と衛生管理。
アスターはアルコール液で両手を徹底的に殺菌すると、オズワルド師匠の古い乳鉢をカウンターにドンと据えた。
銀月草の葉をまな板に広げ、極細のナイフを走らせる。
サッ、サッ、サッ。
毒素を無力化する薬効成分は、葉の極めて薄い表皮の裏側にしか存在しない。
焦りで手元が狂いそうになるのを、アスターは必死に深呼吸で抑え込んだ。
――『焦るなアスター。相手が草だろうと人間だろうと、優しく触れてやればいい』
師匠の言葉が頭をよぎる。
アスターの細い指先は、まるで吸い付くように銀月草の毒素の筋だけをミリ単位で剥離していった。
さらに白蜜草の繊維を乳鉢に放り込み、細い腕に渾身の力を込めて乳棒を必死に回転させる。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……!
「うぐぐっ……腕が……千切れそうです……!」
「弱音吐いてんじゃねえ、小僧! 小娘の命がかかってんだぞ、回せェッ!」
「は、はいぃぃぃっ!」
脂汗を流し、ゼエゼエと肩で息を切りながら、アスターは乳棒を回し続けた。
すり潰された薬草が、乳鉢の底の螺旋溝によって完璧な微粒子へと分解され、青白く澄み渡るペーストへと変わっていく。
「バルガスさん! 下処理、完了しました!」
「よし、寄越せ!」
バルガスさんが大鍋で熱していた蒸留酒の中に、アスターの練り上げたペーストを一気に投入した。
シュワァァァァッ!
鮮やかな黄金色の蒸気が立ち上り、甘く爽快な香りが部屋いっぱいに広がる。
バルガスさんは手際よく濾過器を通し、抽出された黄金の解毒薬をスプーンに取ると、クララさんの唇の隙間から慎重に流し込んだ。
一秒、二秒、三秒……。
ごくり、と喉がかすかに動いた。
「……っ……ふぅ……」
刹那、クララさんの顔から紫色の鬱血が潮が引くように消え去り、ほんのりと健康的な赤みが戻った。
苦しそうだった胸の上下が、穏やかで規則正しい寝息へと変わる。
「……毒が、中和された……」
青年冒険者がその場にへたり込み、ボロボロと大粒の涙を流した。
「助かった……! クララが助かったんだ……! 親父、それに坊主……本当に、本当にありがとう……!」
「礼ならその小娘が完治してからにしな。今夜は熱が出る、絶対に目を離すなよ」
バルガスさんはぶっきらぼうに言い放ち、青年冒険者から治療費の金貨を受け取ると、彼らを帰らせて店の鍵を閉めた。
――深夜。
一階の作業場は、静寂に包まれていた。
解毒を終えたクララさんは、二階のアスターのベッドに寝かせてある。
階段を下りると、カウンターの奥でバルガスさんが椅子に深く腰掛け、腕組みをしたまま高鼾をかいて眠っていた。
大柄な体を縮こまらせ、相当体力を使い果たした様子だった。
「バルガスさん、お疲れ様でした……」
アスターはそっと毛布をバルガスさんの肩にかけてあげた。
その時、ふと目に入ったものに、アスターは息を呑んだ。
毛布から覗いていたバルガスさんの右手。
人差し指と中指の先が、黒ずんでいるだけではなく、まるで石膏のように白っぽく硬質化していたのだ。
眠っているバルガスさんの眉間が、時折その指先の激痛に耐えるようにピクリと歪む。
「これ……薬品の染みなんかじゃなくて……古い傷痕……?」
まるで、皮膚が部分的に石に変わりかけているような、不気味な質感。
昼間、バルガスさんがこの指先を気に障るように擦っていた仕草が脳裏に蘇る。
けれど、今のアスターの未熟な知識では、それが何の症状なのか見当もつかなかった。
(いつか……僕がもっと一人前の薬師になったら、バルガスさんのこの腕も治してあげたいな……)
アスターはバルガスさんの体を冷やさないよう毛布を整え直し、静かに二階の部屋へと戻った。
二階のベッドサイドでは、クララさんがまだ微熱にうなされていた。
汗ばんだ額に、燃えるような短い赤髪が張り付いている。
「健康第一、衛生至上ですからね。……しっかり看病しますよ」
アスターは清潔な手桶の水でタオルを固く絞り、クララさんの額にそっと乗せた。
さらに、熱を冷まし喉の渇きを癒やすための、薄味の薬草白湯を小さな壺に用意する。
汗をかいた首筋を拭き、枕の角度を整え、布団の湿気を払う。
村でミレイが風邪を引いた時や、アスター自身が熱を出した時に教わった看病の手順を、アスターは夜通し休むことなく繰り返した。
――やがて、東の空が白み始め、窓から朝露を含んだ清々しい光が差し込んできた頃。
「……ん……っ……」
ベッドの上で、衣擦れの音が微かに響いた。
クララさんの長いまつ毛が震え、大きな琥珀色の瞳がゆっくりと開かれる。
「……あ、なたは……?」
掠れた、少女らしい声。
椅子に座ってウトウトしていたアスターは、ハッと目を覚まして立ち上がった。
「あ、気がつかれましたか! よかった……! お体の痛みはありませんか? 熱は下がりましたか? 喉が渇いていませんか?」
「えっ……? あ、う、うん……」
「今、体に優しい温かい薬草白湯をお持ちしますね。少し苦味を抑えて、蜂蜜を一滴だけ垂らしてありますから」
アスターが湯呑みを両手で手渡すと、クララさんは呆然とした様子でそれを受け取り、おずおずと口をつけた。
「……あ、温かい……。甘くて、すごく飲みやすい……」
クララさんは喉を潤すと、まじまじとアスターの顔を見つめてきた。
「……あの、あたし……迷宮で毒蜘蛛に噛まれて……死にそうになって……」
「はい。バルガスさんの特製解毒薬で、猛毒は綺麗に中和されましたよ。もう命に別状はありません」
「そっか……。……あたしを、夜通し看病してくれたのは……あんた?」
「はい。熱が高かったので、汗を拭いてタオルを替えさせていただきました。失礼があったらすみません」
アスターがぺこりと丁寧に頭を下げた、その瞬間だった。
「もう! バカじゃないのあんた!!」
「えっ……!?」
クララさんはみるみるうちに白い頬を林檎のように真っ赤に染め上げ、ぷくっと頬を膨らませて怒鳴った。
「あたしが寝てる間に汗拭くとか……は、恥ずかしいじゃないか! それに、あんた一睡もしてないんだろ!? あたしなんかのために朝まで起きてるなんて、自分の体はどうなってもいいのかよ! まったく、アホなんだからね!」
布団を胸元まで引き上げ、ツンツンと怒りながらも、その琥珀色の瞳には隠しきれない心配と照れが滲んでいた。
「あ……」
その怒り方。その口調。その仕草。
怒りんぼで、お世話焼きで、誰よりもアスターの体を心配してくれた――故郷のミレイの姿が、目の前の赤髪の少女に痛いほど重なった。
(ミレイさん……)
胸の奥がキュンと締め付けられ、アスターは思わず、ふっと柔らかく切ない笑顔を浮かべていた。
「……な、なんだよ? 人の顔見て、そんな優しい顔して……気味が悪いぞ」
クララさんは戸惑ったように視線を泳がせる。
「すみません。なんだか……故郷の、とても大切な人に……少し似ているなと思いまして」
「えっ……?」
クララさんの琥珀色の瞳が丸くなり、ドキン、と胸が高鳴ったのが目に見えるようだった。
耳の先まで真っ赤に染まったクララさんは、顔を両手で覆って小さく丸まってしまう。
「な、何言ってるんだよ、急に……。……あ、あたしはクララ! 駆け出しの剣士だ! ……あんたの名前は?」
「アスターと申します。昨日からこちらの店で見習いをしている薬師です」
「アスター、か……。ふん、覚えといてやるよ……」
指の隙間から覗くクララさんの瞳は、照れくさそうに、けれどどこか愛しそうにアスターを見つめていた。
その時――階下からドタドタと重々しい足音が響き、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「おい小僧! 朝の手洗いうがいは終わったか!」
現れたのは、目を擦りながらあくびを噛み殺すバルガスさんだった。
バルガスさんはベッドの上のクララを一瞥すると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「おう、生きてたか赤毛の小娘。アスターの手厚い看病のおかげで命拾いしたな」
「ば、バルガスのおっちゃん……! ありがとう!」
「礼ならポーション代に上乗せしとくから安心しな。……それよりアスター、朝飯を食ったら準備しろ。今日は迷宮の上層へ薬草採りに行くぞ!」
「ええっ!? め、迷宮ですか!? 僕、あんな埃っぽくて危険な場所、怖くて行けません……!」
アスターが悲鳴を上げると、ベッドの上のクララが勢いよく飛び起きた。
「何言ってんだ、アスター! あたしが護衛してやるよ! あんたはあたしの命の恩人なんだから、このクララ様が爪の先一つ傷つけさせないさ!」
クララは自信満々に細い胸をドンと叩いて笑った。
こうして、アスターの迷宮都市での波乱に満ちた生活が、本格的に幕を開けたのだった。




