迷宮都市エルフィードと、頑固な薬師
白亜の巨大な外壁をくぐり抜けた瞬間、全身の毛穴がざわめくような熱気と怒号が、アスターの鼓膜を激しく揺らした。
「おい、どいたどいた! 迷宮下層の獲物の搬入だ!」
「上級回復薬が一本銀貨五十枚! 命が惜しい奴は買っていきな!」
石畳の大通りを行き交うのは、巨大な大剣や戦斧を背負った筋骨隆々の冒険者たち。
魔獣の返り血を浴びた革鎧がぶつかり合う鈍い音、香草の濃厚な匂い、そしてあちこちから立ち上る屋台の煙。
ここが、大陸中から腕利きの冒険者と薬師が集う要塞――『迷宮都市エルフィード』だ。
「ひゃあ……すごい人混みですね。埃と雑菌が飛び交っています……!」
血のついた大剣を担ぐ大男とすれ違う瞬間、アスターは「ひぃっ」と息を止め、ショルダーバッグから清潔な布マスクを取り出して装着した。
さらに携帯用の薬草消毒水を両手に念入りに擦り込み、露店に並ぶ濁ったポーションを見て思わず身震いする。
(あんな不純物だらけの泥水みたいな回復薬、飲んだら胃腸が即死してしまいます……!)
健康マニアで胃腸の弱いアスターにとって、この街はそれだけで一種の極限地帯だった。
早く落ち着ける場所を見つけなければならない。
アスターはポケットから、故郷のオズワルド師匠から預かった紹介状を取り出した。
「ええと……第2層の中層ギルド街、裏路地の奥……『緑竜の息吹亭』、ですね」
賑やかな大通りを抜け、湿った石畳の路地を奥へと進む。
古びた木造長屋が立ち並ぶ薄暗い一角に、緑色の竜が薬草をくわえた木製の看板がひっそりと掲げられていた。
カランコロン、と錆びたドアベルを鳴らして、アスターは恐る恐る店の中へと足を踏み入れた。
「ごめんください……」
店内には、乾燥させた薬草の独特な苦い香りが充満していた。
棚には無数のガラス瓶が整然と並び、薄暗いカウンターの奥から、ギロリと鋭い眼光がアスターを射抜いた。
「あぁん? 見かけねえ顔だな。客か、それとも冷やかしか?」
煙管から紫煙をくゆらせながら現れたのは、無精髭をたくわえた大柄な男だった。
顔に刻まれた深い傷跡、薬品の染みが無数についた分厚い革エプロン。
まるで百戦錬磨の戦士のような威圧感を放つこの人こそ、店主のバルガスさんだった。
「初めまして、バルガスさん。僕の名前はアスターと申します。……ルーネ村のオズワルド師匠から、こちらで住み込みの修行をさせていただくよう言われて参りました」
アスターがぺこりと丁寧に頭を下げて紹介状を差し出すと、バルガスさんはあからさまに不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「オズワルドの手紙ぃ? ……ったく、あのクソジジイ、勝手に弟子を押し付けやがって。おい小僧、悪いが俺は弟子なんざ取る気はねえ。こんなヒョロガリの病弱坊主、迷宮都市の過酷さに耐えられるわけがねえだろ。とっとと田舎へ帰りな!」
追い払うように手を振るバルガスさん。
確かにアスターの貧弱な体格では、そう思われても無理はない。
けれど、アスターは怯まずに、ショルダーバッグの奥から布に包まれた『ある物』を取り出した。
「師匠から、これも一緒にお渡しするように言われております」
ゴトン、とカウンターの上に置かれたのは、長年使い込まれて所々にヒビの入った、ずっしりと重い素焼きの乳鉢だった。
「あ? なんだこの薄汚ねえ乳鉢は……――って、おい!?」
一瞥した瞬間、バルガスさんの煙管を持つ手がピタリと止まった。
その鋭い瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「こ、この細工の刻印……それに底の螺旋状の溝……! オズワルドの奴、まさか自分の愛用品を……お前みたいなクソガキに譲ったっていうのか……!?」
「はい。『これを持っていけば、バルガスの奴が飯くらい食わせてくれるじゃろ』と仰っていました」
「あのクソジジイ、俺を飯炊き係扱いしやがって……!」
バルガスさんはわなわなと唇を震わせ、乳鉢とアスターの顔を何度も交互に見つめた。
やがて、深く息を吐き出すと、険しい表情で腕組みをした。
「……いいだろう。あのジジイの乳鉢を持ってきやがったんだ、タダで追い返すわけにはいかねえ。だがな、実力も見ねえで店に置くほど俺は甘くねえぞ」
バルガスさんは棚から、紫色に変色した乾燥薬草の束をドサリと作業台に置いた。
「この『痺れ草』を使って、五分以内に下級の傷薬(軟膏)を作ってみろ。素材の毒素を抜き、薬効だけを抽出する基礎中の基礎だ。失敗したら即刻叩き出す!」
「はい、分かりました。やらせていただきます」
アスターはまず、作業台の前で腕まくりをした。
そして――。
「まずは流水で手洗い三十秒。爪の間もしっかり洗って、アルコール消毒液を念入りに擦り込みます」
「……あ? おい、何を手洗いに一分半もかけてやがる! 残り時間がねえぞ!」
「衛生管理は調合の命ですから。……よし、調合台の除菌も完了です」
アスターは清潔な布で乳鉢を拭き清めると、痺れ草の束を手に取った。
わずか三キロの素焼きの乳鉢を持ち上げようとして、アスターの細い腕がプルプルと情けなく震える。
「うぐぐ……やっぱり重いですね、この乳鉢……」
「おいおい……乳鉢の重さに負けてんじゃねえか。ギックリ腰になる前にやめとけよ……」
バルガスさんが呆れ果てたように鼻で笑った。
残り時間は二分を切っていた。
焦る気持ちを抑えながら、アスターはオズワルド師匠から教わった言葉を胸の中で反芻する。
――『焦るなアスター。薬草の筋を一本ずつ、丁寧に外してやればいい』
アスターは震える指先で、痺れ草の毒素の溜まった根の付け根を慎重にナイフで削ぎ落とした。
そして乳鉢に放り込み、細い腕に渾身の力を込めて乳棒を必死に回す。
ゴリゴリ、ゴリゴリ……!
手際は決して速くないし、一流の薬師のような華麗さもない。
腕力のないアスターはゼエゼエと肩で息を切らし、額から汗をポタポタと垂らしながら、残り十秒のところでなんとか薬草をペースト状に練り上げた。
「……はぁ、はぁ……! か、完成です……! 確認をお願いします……」
制限時間ギリギリで、アスターは小瓶に詰めた軟膏をカウンターの上に差し出した。
「ふん、手際はトロいし、ゼエゼエ息切らしてやがる。どうせ濁りまくって――」
バルガスさんが瓶の蓋を開け、中身を指ですくい取った。
「…………」
バルガスさんは無言のまま、軟膏の粘り気を確認し、指先の匂いを慎重に嗅いだ。
そして、険しい顔のまま腕を組む。
「……おい小僧」
「は、はいっ……!」
「お世辞にも上手い調合とは言えねえな。時間はギリギリ、練り込みも甘くて滑らかさが足りねえ。迷宮都市の薬屋じゃ、落第点スレスレの出来だ」
「うっ……すみません……」
やっぱり、アスターの腕前じゃダメだったんだ。
肩を落として俯くアスターの頭上に、バルガスさんの太い声が降ってきた。
「――だがな、不純物と毒素だけは、驚くほど綺麗に抜けてやがる。雑菌の混入もゼロだ。……手洗いを徹底して、薬草の筋を一本ずつ丁寧に外したおかげだな」
「え……?」
「手際はド素人だが、下処理の丁寧さと基礎だけは合格だ。……チッ、時間はかかりそうだが、叩き直せば少しは使えるようになるかもしれねえ」
バルガスさんは頭を激しく掻きむしると、カウンターの奥を親指で指差した。
「……ギリギリ合格だ。奥の階段を上がった右手の部屋が空いてる。好きに使え」
「本当ですか! ありがとうございます、バルガスさん!」
アスターは深々と頭を下げ、荷物を抱えて二階の部屋へと上がった。
二階の部屋は、日当たりが良く、薬草を干すのにぴったりの心地よい空間だった。
アスターは窓を開けて部屋の換気を行い、荷解きを始める。
ふと、窓から吹き込む風で、部屋の木製のドアがバタンバタンと音を立てて揺れた。
「おや、風が強いですね。……そういえば、さっきの森でちょうどいい重しを拾ったんでした」
アスターはショルダーバッグの底から、例の『黒い石』をごとんと取り出した。
階下からバルガスさんが階段を上がってくる足音が聞こえる。
「おいアスター、夕飯の買い出しに――」
「あ、バルガスさん! ちょうどよかったです。風でドアが閉まっちゃうので、森の道端で拾ったこの石を、ドアストッパーとお漬物石代わりに置いてもいいですか?」
「あ? 石だぁ? そんなもん好きに――」
言いかけたバルガスさんの視線が、アスターが床に置いたバスケットボール大の黒い結晶に吸い寄せられた。
漆黒の表面に、パチパチと紫色の神聖な雷光が微かに瞬く、超巨大な魔石。
その魔石から放たれる圧倒的な魔導のプレッシャーに、部屋の空気がビリビリと震えていた。
「………………」
バルガスさんの顔から、サァッと血の気が引いていった。
ポロリ、と咥えていた愛用の煙管が床に落ちて転がり、バルガスさんはガクガクと膝を震わせて、その場にドスンと尻餅をついた。
「……ぶっっっっっっ!?!?!?」
目を何度も擦り、信じられないものを見るように絶叫する。
「お、おま……っ! これ……森の絶対覇者、Sランク魔獣フェンリル・ハウンドの【魔狼王の心臓魔石】じゃねえかぁぁぁぁぁぁっっ!?!? 王国の国宝級の超特級魔石だぞ!? 国家予算の半分が買える魔石でドアを止める奴があるかぁぁぁぁっ!!」
「え? 普通に森の道端に転がってましたけど……」
「道端に落ちてるわけあるかぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
バルガスさんの魂のツッコミが部屋中に木霊した、まさにその時だった。
ガラガラドォォォンッ!
一階の店舗の扉が、壊れんばかりの勢いで蹴破られた。
「バルガスの親父ぃぃぃっ! 頼む、開けてくれ!」
血相を変えて階段を駆け上がってきたのは、全身傷だらけの青年冒険者だった。
その腕の中には、短く燃えるような赤髪の少女が、顔を紫色にしてぐったりと抱きかかえられていた。
「クララが……うちのエースのクララが、迷宮の中層で『黒斑毒蜘蛛』に噛まれた! もう全身の血が固まりかけて……息が止まりそうなんだ! 助けてくれぇっ!!」
「なっ……黒斑毒蜘蛛の猛毒だと!? クソッ、市販の解毒薬じゃ分解が追いつかねえ! 大至急、特濃の解毒液をイチから練り直すしかねえぞ!」
バルガスさんは顔色を変え、一階の作業台へと階段を駆け下りた。
「だが、黒斑毒蜘蛛の毒は急速に血を固める! 心臓に達するまでの数分以内に、薬草の精密な毒抜きと大鍋の煮沸抽出を同時に並行して進めなきゃ間に合わねえ……! クソッ、俺一人じゃ手が足りねえぞ!」
青年冒険者が絶望に顔を歪めた、その瞬間。
アスターは作業着の袖を素早くまくり上げ、バルガスさんの隣へと駆け寄った。
「バルガスさん! 手洗いうがい、すでに完了しています! 僕に薬草の下処理をやらせてください! さっきの痺れ草と同じなら、毒素の剥離はできます!」
「……小僧! よし、死ぬ気でついてこい! あの娘の命を繋ぐぞ!」
アスターはオズワルド師匠の乳鉢を構え、バルガスさんと共に、深夜の命懸けの調合へと挑むのだった。




