別れの朝と、初めての一人旅
大司教ヴィンセント様の切実な懇願に、教会前の広場は水を打ったように静まり返っていた。
「嫌です……っ! 私、王都になんて行きません!」
静寂を切り裂いたのは、ミレイの悲痛な叫びだった。
彼女はアスターの服の袖を両手で強く握りしめ、必死に首を振った。
「アスターは体が弱くて、ちょっと風が吹いただけですぐ四十度の熱を出すんです! 油っこいものを食べたらすぐにお腹を壊すし、薬草のトゲで痺れるし……私が毎日そばにいて治してあげなきゃ、死んじゃうんです!」
「ミレイさん……」
自分のためにそこまで必死になってくれるミレイの気持ちが、アスターの胸の奥に痛いほど染み渡る。
けれど、王都の大聖堂を束ねる大司教様が、ただの村娘に対して涙を浮かべて頭を下げているのだ。
王都で病や呪いに苦しんでいる、何万人もの人々。
ミレイのあの温かい光なら、彼らを救うことができる。自分一人の都合で、ミレイを引き止めることなんて許されるはずがなかった。
「ミレイさん。……行ってあげてください」
アスターはミレイの震える冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。
「え……? アスター……?」
「僕なら大丈夫ですよ。手洗いうがいを人一倍徹底して、薄味の体に良い薬草茶を飲んで、元気に過ごしますから」
「でも……っ! またお腹が痛くなったら、誰が治すのよ……!」
「油っこいものは絶対に食べません。無理な運動もしませんし、危ない森にも入りません」
アスターはできる限り穏やかな笑顔を作って、ミレイの目を真っ直ぐに見つめた。
「ミレイさんは、たくさんの人を救うために神様から特別な力を授かったんです。……僕の専属お医者さんの約束は、王都の人たちをみんな助けて、帰ってきた後で果たしてください」
「アスター……っ」
ミレイの琥珀色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちた。
「ミレイ! ああ、ミレイ……っ!」
広場の向こうから、息を切らせて駆けつけてきたのは、ミレイの両親だった。
村で慎ましく暮らす優しい父さんと母さんは、事態の大きさに驚きと戸惑いを隠せない様子で、それでも涙を流す愛娘をぎゅっと抱きしめた。
「父さん、母さん……私、王都へ……」
「聞いたよ、大聖女様だなんて……夢を見ているようだよ。……だけどミレイ、お前が昔からアスターや村のみんなを助けてきた優しい力は本物だ。王都で苦しんでいる人たちを、救ってあげておいで」
「体にだけは気をつけるんだよ。ご飯はしっかり食べるんだよ……!」
母さんがミレイの頬を撫で、涙で濡れた顔をハンカチで拭う。
そこへ、大司教ヴィンセント様が自ら穏やかな足取りで歩み寄り、ご両親に対して深々と頭を下げた。
「ご両親、突然のことでさぞご不安でしょう。神に選ばれし奇跡の乙女――ミレイさんの身の安全と健康、そしてご家族の今後の生活の支援に至るまで、神聖教会が全責任を持ってお約束いたします。王都での務めが一段落すれば、いつでもこの村へ戻ってこられるよう手配いたしますので、どうかご安心ください」
国家最高権力者である大司教自らの誠心誠意の言葉に、両親も村長も、集まってきた村人たちも感極まって頭を垂れた。
第一話で揚げパンを分けてくれたパン屋のおじさんや、近所のおばちゃんたちも次々と声をかける。
「ミレイちゃん、立派になっておいで! 村の誇りだよ!」
「アスター、お前も寂しくなるが、しっかり頑張るんだぞ!」
近衛聖騎士たちに優しく促され、ミレイは両親の手を握りしめ、村人たちに深々と一礼してから、白銀の馬車へと向かった。
そして――馬車のステップに足をかける直前。
ミレイはくるりと振り返り、アスターの元へと駆け寄ってきたのだ。
「アスター……っ!」
「ミレイさん……」
「約束だからね! 私が王都でみんなを助けて帰ってくるまで……絶対に無茶しちゃダメだからね! 私がアスターの専属お医者さんなんだから、勝手に倒れたり死んじゃったりしたら、絶対に許さないんだから!」
「はい! 約束します、ミレイさん。手洗いうがいも、ちゃんとして待ってますから」
アスターが笑顔で頷くと、ミレイはようやく涙を拭って、力強く頷いてくれた。
そこへ、ヴィンセント様が優しく微笑みながら歩み寄ってきた。
「アスター君、と言ったね。……友を想う君の気高い心に、深く感謝するよ。体が弱いと聞いたが、どうか無理をなさらないようにね。……これは、身体を芯から温める薬草の飴だよ」
ヴィンセント様は懐から、丁寧に紙で包まれた小さな飴玉を取り出し、アスターの手のひらに優しく乗せてくれた。手袋越しにも伝わる、温かいぬくもり。
「ありがとうございます、大司教様。……ミレイさんを、よろしくお願いします」
「ああ、神にかけて大切にお守りしよう。君の健康を、私も祈っているよ」
ヴィンセント様は優しくアスターの肩に手を置き、ミレイと共に馬車へと乗り込んだ。
ガタゴトと車輪が回り出し、白銀の馬車が走り出す。
その瞬間、馬車の窓からミレイが身を乗り出して、涙でぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。
「アスター! 毎日ちゃんと手を洗うのよ! 油物は絶対食べちゃダメだからね! うがいもするのよーっ!」
「はい! ミレイさんも、お体に気をつけて!」
遠ざかっていく馬車が見えなくなるまで、アスターと両親、そして村のみんなは、笑顔で手を振り続けたのだった。
――翌朝。
ミレイが王都へ旅立った翌朝。アスターは少し寂しくなった薬草小屋で、いつも通り朝の掃除と片付けをしていた。
ふと作業机の上を見ると、昨日の朝ミレイが座っていた椅子の前に、小さな革表紙の手帳がちょこんと置かれているのに気づいた。
中を開くと、昔二人で裏山へ行った時に摘んだ、決して枯れない青い野花の押し花が挟まれている。
さらに、手帳の下にはミレイの実家の玄関の古い鍵まで重なっていた。
「ミレイさんったら……昨日の朝、ここに置き忘れていっちゃったんですね。お世話焼きのくせに、自分のことになると本当にうっかりさんなんですから」
アスターは思わずクスッと笑って、手帳の埃を優しく払った。
けれど、手帳を抱きしめた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(すぐにでも王都へ走って、届けてあげたいけれど……)
三キロの薬壺すら持てず、油っこいものを一口食べただけで倒れ込んでしまうアスターだ。
王都までの過酷な旅路を越えられるはずもないし、何より、いまや『奇跡の大聖女』となったミレイの元へ、こんな半人前の自分が押し掛けたところで、迷惑をかけてしまうだけだ。
「……師匠に、相談してみよう」
アスターは手帳と鍵を大切に抱えて、村の広場にあるオズワルド師匠の薬屋へと向かった。
カランコロン、とドアベルを鳴らして店に入ると、白髭を蓄えたオズワルド師匠が、薬草の棚の前で優しくアスターを出迎えてくれた。
「おはよう、アスター。ミレイちゃんのこと……寂しくなったのう」
「……はい。それで、師匠。実は、ミレイさんが僕の小屋に手帳と実家の鍵を忘れていってしまって……」
アスターが作業机に手帳を置くと、師匠は穏やかな目でそれを見つめ、それから静かにアスターの顔を見つめ返した。
「届けてやりたいんじゃな?」
「……はい。でも、僕の腕じゃ、王都へ行く途中で野垂れ死んでしまいますし……何万人もの人を救う大聖女になったミレイさんに、こんな弱虫な見習いが会いに行っても、足手まといになるだけです」
悔しさと情けなさで、俯いてしまうアスター。
そんなアスターの頭を、師匠はコツンと優しく拳で小突いた。
「バカをお言い。お前のその真っ直ぐな優しさは、誰よりも立派な薬師の心じゃよ。……だがな、アスター。今のまま王都へ行っても、大聖堂の門番に追い返されるのが関の山じゃ」
師匠は棚の奥から、所々に小さなヒビが入った素焼きの古い乳鉢と、一通の手紙を取り出してカウンターに置いた。
「アスター、お前ももう十七じゃ。……このルーネ村で採れるのは、風邪薬や擦り傷用の野草くらい。王都で難病に苦しむ人々を救うような高度な薬を作るには、この村の素材だけでは限界があるのじゃ」
「素材の……限界……」
「そうじゃ。本物の特級ポーションや万能薬を調合するには、迷宮の奥底にしか自生せん魔薬草や希少な魔鉱石、魔獣の素材がどうしても必要になる。……それに、王国で自分の薬屋を開業し、一人前の薬師として認められるには、『王国薬師ギルドの公認開業免許』が必要じゃろう?」
「あっ……!」
そうだ。王国法では、公認免許を持たない者が自分の薬屋を開業したり、王都などの公式な場で責任者として薬を扱うことは認められていない。
師匠の元で見習いとして働くことはできても、一人前の薬師として自分の看板を掲げ、王都で堂々とミレイを迎え入れるためには、難関とされる薬師ギルドの開業免許を勝ち取らなければならないのだ。
「田舎の見習いのままでは、その受験資格すら得られん。……じゃからこそ、世界中からあらゆる希少素材と名医が集まる『迷宮都市エルフィード』へ行っておいで」
「迷宮都市エルフィード……」
「あそこには儂の昔馴染みで、腕は超一流だが偏屈な元宮廷薬師の『バルガス』という男がおる。この推薦状と儂の乳鉢を持って、あいつの元で深層素材の扱いと実践の調合をみっちり修行してくるんじゃ。……あいつに鍛えられて正式な開業免許を取った時、お前は胸を張って王都へ行き、大聖堂のミレイちゃんにその手帳を届けてやれるはずじゃ」
師匠の温かい言葉が、アスターの胸の奥にスッと染み渡っていく。
そうだ。ただ泣いて立ち止まっているだけじゃダメだ。
迷宮の未知の素材を学び、立派な開業免許を取って一人前の薬師になれば、胸を張ってミレイに会いに行ける!
「……はい! 僕、迷宮都市で必死に修行して、必ずギルドの開業免許を取ってみせます! そして一人前になって、ミレイさんに忘れ物を届けに行きます!」
アスターが力強く頷くと、師匠は満足そうに目を細め、アスターの背中をポンと力強く押してくれたのだった。
――店を出たアスターは、実家へと戻り、両親に迷宮都市への修行の旅立ちを伝えた。
「迷宮都市へ……!? あんな危険な街へ、アスターが一人で行くだなんて……!」
母は驚いて目を丸くし、心配そうに息子の手を握りしめた。
三キロの壺すら持てず、油っこいものを食べただけで寝込んでいたアスターだ。両親が心配するのも当然だった。
だが、黙って話を聞いていた父は、静かに立ち上がって息子の肩に大きな手を置いた。
「母さん、止めるな。……アスターのこの目を見ろ。あんなに弱虫だったこの子が、自分の意志で一人前になりたいと言っているんだ。男が一度決めた道を、応援してやろうじゃないか」
「父さん……」
「アスター。無理は絶対に禁物だぞ。危ないと思ったらすぐに逃げろ。そして、毎日の手洗いうがいは絶対に欠かすなよ」
「体に優しい干し草クッキーと、お腹を冷やさない厚手の毛布を包んでおいたからね。……元気で頑張るんだよ、アスター」
母は涙を浮かべながら、手作りの旅支度を息子のバッグに詰めてくれた。
「父さん、母さん……今まで育ててくれて、本当にありがとうございました。立派な薬師になって、必ず元気な姿を見せに帰ってきます!」
アスターは深く頭を下げて実家を後にした。
大司教からもらった飴玉をポケットに大切にしまい、師匠の乳鉢とミレイの手帳を抱えて、村の出口へと向かう。
背後で手を振り続ける父と母、そして見送ってくれるオズワルド師匠に笑顔で手を振り返しながら、アスターは生まれ育ったルーネ村を後にしたのだった。
――そして、旅立ちから三日目の午後のことだった。
一人旅に出て、アスターは初めて「ミレイが毎日そばにいてくれたありがたみ」を痛感していた。
夜の焚き火で一人で薄味のスープをすする寂しさ。夜風に少し咳き込んだ時、誰も背中をさすってくれない心細さ。
そして何より――。
「うっ……ぐ、ううう……っ!?」
王都への近道である薄暗い『黒煙の森』を歩いていたアスターは、突如として襲いかかってきた激痛に、膝から崩れ落ちた。
お腹が、焼け付くように痛い。
腸の中で火山の噴火と大洪水が同時に起きたような激痛に、アスターは巨木の幹にしがみつき、脂汗を滝のように流した。
「痛い……っ! お腹が……張り裂けそうです……っ!」
原因は明らかだった。
昨晩の野宿で食べた携帯食の干し肉が、少し古くなっていたのだ。
いつもなら、アスターが蹲った瞬間にミレイが飛んできて、温かい【キュア】をかけてくれた。
だが、今のアスターの隣には誰もいない。アスターの未熟な薬草知識では、こんな激しい腹痛を即座に治せるような胃腸薬など作れるはずもなかった。
「死ぬ……っ! こんな森の中で、お腹を壊して死んでしまいます……っ! ミレイさあああんっ!」
激痛のあまり目の前が真っ白になり、呼吸すらままならない。
早く草むらの影でトイレを見つけなければ――そう思った矢先だった。
ズズゥゥゥゥン……!
大地を揺るがす凄まじい地響きと共に、目の前の木々が一瞬で薙ぎ倒された。
現れたのは、家屋ほどもある漆黒の巨躯。
全身にバチバチと黒い雷を纏い、足元の大地をドロドロに溶かす、森の絶対覇者――Sランク魔獣魔狼王だった。
グルルルルァァァッ!
空気を震わせる凶悪な咆哮。
並の冒険者なら一睨みで気絶する、絶望的な殺気。
魔狼王は獲物を八つ裂きにせんと、巨大な雷爪を振り上げ、超音速でアスターの頭上へと振り下ろした。
だが――その時のアスターの頭の中は、魔獣の恐怖どころではなかった。
「ううっ……頼むから……邪魔しないでください……!」
お腹が痛すぎて、何も見えなかった。
もう一秒たりとも我慢できない。とにかくこの激痛に耐えるため、アスターは腹筋に限界まで力を込め、ただただ早く向こうへ行ってほしくて――目の前に迫ってきた巨大な鼻先を、右手で『あっち行け』と力任せに押し払った。
――ドォォォォォォォンッ!!!!
刹那。
世界が真っ白に染まった。
森全体を吹き飛ばすような、凄まじい神聖衝撃波が炸裂する。
大気が悲鳴を上げて軋み、地面に深さ十メートルの巨大クレーターが穿たれた。
魔狼王の雷爪は触れた瞬間に粉々に砕け散り、その巨体は超音速の砲弾と化して吹き飛んで、背後の山肌ごと粉々に粉砕されて消滅していた。
吹き荒れる暴風。舞い散る土煙。
森の半分が一瞬で更地となり、ぽっかりと青空が広がっていた。
……数分後。
草むらの影から、スッキリとした顔のアスターがひょっこりと姿を現した。
「……ふぅ。なんとか出ました。やっぱり古い干し肉は食べるものじゃありませんね」
お腹の痛みが引くと、いつもの穏やかな体調に戻っていた。
アスターは携帯用の薬草水を取り出し、両手を念入りに消毒する。
「うがいも完了。……あれ? そういえば、さっきの大きなワンちゃんはどこへ行ったんでしょう?」
見渡す限り、綺麗さっぱり何もいない。
ただ、更地になったクレーターの真ん中に、バスケットボールほどもある、漆黒に輝く巨大な結晶がコロンと転がっていた。
「おや? ……綺麗な石ですね。ずっしり重くて、お漬物石にちょうど良さそうです」
アスターはその黒い石を拾い上げ、ショルダーバッグの底へと押し込んだ。
「急に強い突風が吹きましたし、ワンちゃんも驚いて巣に帰っちゃったんでしょうか。……まあいいです、手洗いうがいも終わりましたし、次の街へ急ぎましょう!」
アスターはバッグを背負い直し、森の出口へと向かって足早に歩き出した。
木々の切れ間を抜けると、青空の下にそびえ立つ白亜の巨大な城壁――無数の冒険者と薬師が集う『迷宮都市エルフィード』の賑やかな街並みが、眼下に広がっていた。
――その頃。
王都へ向かう豪奢な馬車の中で、大司教ヴィンセントは手元の水晶を見つめ、静かに目を細めていた。
「おや……? 東の森で、神話級の魔導反応が一瞬で点滅して消えたか。……ふむ、神のお導きかな」
好々爺の優しい笑みを浮かべたまま、ヴィンセントは穏やかに馬車の窓の外を眺めていたのだった。




