師匠の古傷と、残された三日間
「……石化の毒……!? バルガスさん、どうしてこんなになるまで……!」
深夜の静寂を取り戻した店内で、アスターは震える手でバルガスの右腕を支えていた。
かつて指先だけが黒ずんでいたはずの皮膚は、いまや手首を越え、肘の関節まで禍々しい漆黒の石化紋様に覆われ、まるで冷たい鉱物のようになっていた。
脈を測ろうとしても、皮膚の下からはドクンドクンという生命の鼓動がほとんど感じられない。
「十年前……宮廷薬師だった頃の置き土産だ」
バルガスはカウンターに重い背中を預け、荒い息を吐きながら自嘲気味に笑った。
「王命で潜った迷宮最深部――第10階層で、逃げ遅れた調査隊の仲間を逃がすために、迷宮の主『石化邪竜バジリスク・ロード』の毒爪をまともに食らっちまったんだよ。……特殊な抑制薬で十年間、進行を無理やり抑え込んできたが、それも今夜で限界だ。心臓まで石化が達するまで……もってあと三日だな」
「そんな……! あと三日だなんて……!」
隣にいたクララが、青ざめた顔で両手で口を覆った。
いつも不機嫌そうに煙管をふかし、口は悪いけれど、誰よりも優しくアスターを育ててくれたバルガス。
『薬ってのはな、金持ちの延命道具じゃねえ。今日を生きるために傷だらけになってる奴らのためにあるんだ』
そう言って、貴族の宮廷薬師の座を捨て、路地裏で安価なポーションを配り続けてきた人。
アスターが手の皮を剥きながらポーションを焦がした時も、見捨てずに火加減を教えてくれた人。
その命が、あとたったの三日しかないなんて――。
「何か……何か治す方法はないんですか!? 解毒薬のレシピなら、オズワルド師匠の文献にも……!」
「……一つだけある」
バルガスは煙の消えた煙管を見つめ、静かに目を細めた。
「古代秘薬『万能浄化薬――アムリタ』。あらゆる呪いと猛毒を完全に浄化する神話の薬だ。だがな、その調合には……迷宮最深部、第10階層の祭壇にしか湧き出ねえ『太陽樹の雫』が必要なんだよ。さらに、素材の毒素を極限まで取り除く国宝級の調合器と、神聖な奇跡を宿した触媒が必要になる」
「第10階層の、太陽樹の雫……! 僕が行って採ってきます!」
「ふざけんじゃねえッ!!」
アスターの言葉を遮り、バルガスが怒号を響かせた。
脂汗を流しながら、残された左手でアスターの胸倉を乱暴に掴み上げる。
「第10階層がどんな場所か分かってんのか!? 国家最高戦力のSランク冒険者パーティーですら、骨も残さず全滅する地獄の底だぞ! オズワルドの推薦状を持ってやってきた時は、三キロの壺すら持てねえ貧弱坊主だったテメエが、行っておめおめ生きて帰れるわけがねえだろうが!」
「でも、バルガスさんを見捨てることなんて絶対にできません!」
「死に損ないの落ちぶれジジイ一人を助けるために、テメエらの若い命をドブに捨てる真似なんざ、俺が絶対に許さねえ! 手の皮を剥いて、やっと一人前の薬師になりかけてるってのによ……! テメエが死んだら、オズワルドの野郎に顔向けできねえだろうが!」
バルガスは血を吐くような形相でアスターを怒鳴りつけた。
その瞳の奥には、怒りではなく、アスターたちを絶対に死なせたくないという、あまりにも不器用で深い親のような情があった。
「いいか、絶対に第10階層へ行くんじゃねえぞ! 行ったら……破門だ! テメエはここで……薬屋を継いで、平和に暮らせ……」
感情を高ぶらせ、叫んだその瞬間だった。
ドクンッ……!
「ガハッ……!?」
バルガスの口から、真っ赤な血が噴き出した。
激昂によって血流が跳ね上がり、右腕の黒い石化の結晶が恐ろしい速度で脈打ちながら、手首から肘、二の腕、そして首筋から右頬へと一気に這い上がっていったのだ。
「お、おっちゃん……!?」
「バルガスさんッ!!」
バタリ、とバルガスの巨体が崩れ落ち、カウンターの床に倒れ伏した。
荒い呼吸は次第に弱々しく掠れ、まぶたは固く閉じられ、呼びかけてもピクリとも動かない。
触れた皮膚は氷のように冷たく、黒い石化が首元を冷徹に侵食していた。
「おっちゃん! 目を開けてよ、おっちゃん!!」
駆け込んできたトミー君とリリィちゃんが、バルガスの身体にすがりついて泣き叫んだ。
粉々になった扉の前に集まったレオン君やトーマス君たち冒険者も、息を呑んで立ち尽くしている。
「嘘だろ……バルガスのおっちゃんが……」
「こんなの……見てられねえよ……!」
「トミー君、リリィちゃん、落ち着いて! お湯と清潔なタオルを持ってきて!」
アスターは泣きそうになる心を必死に押し殺し、薬師としての意識を研ぎ澄ませた。
バルガスの気道を確保し、シャツの襟元を緩め、持参していた鎮痛ハーブの抽出液を唇の端から少量ずつ流し込む。
さらに、手首の石化の境目に、冷感ハーブの軟膏をたっぷりと塗り込んで布で縛った。
ほんの少しの延命にしかならないけれど、これで数時間は石化の侵食スピードを鈍らせることができるはずだ。
「……アスター、おっちゃんは……?」
クララが震える声で尋ねてきた。
「意識不明の重体です。石化が首元まで達していて、体温も急激に低下しています。……残された時間は、本当にあと七十二時間しかありません」
静まり返った店内で。
アスターは冷たくなっていくバルガスの黒ずんだ右手を、両手でそっと包み込んだ。
――絶対に第10階層へ行くな。
――テメエらの若い命をドブに捨てる真似なんざさせるか。
倒れる瞬間まで、自分の命よりもアスターたちの命を守ろうとしてくれた人。
いつも怒鳴り散らしてばかりで、でも一番温かいスープを用意してくれた人。
(……嫌だ。絶対に……死なせたりしない)
ポタリ、とアスターの瞳から零れ落ちた涙が、バルガスの冷たい手の甲を濡らした。
アスターはすっと立ち上がり、涙を拭った。
そして、ショルダーバッグに道具を詰め始めた。
オズワルド師匠から譲り受けた素焼きの古い乳鉢――バルガスが「国宝級の乳鉢」と絶賛した調合器。
ポケットの中には、ミレイの手帳に挟んだ『枯れない青い野花』、そして大司教様からもらった飴玉。
(素材の毒素を極限まで取り除く調合器なら、師匠の乳鉢がある。触媒には、ミレイの青い野花がある。あとは、第10階層の『太陽樹の雫』さえ持ち帰れば……僕の手で絶対に万能浄化薬を作れる……!)
「クララさん」
アスターが呼ぶと、赤髪の女剣士は濡れた瞳を拭い、鋭く力強い眼差しでアスターを見つめ返した。
「……アスター」
「行きましょう。迷宮第10階層へ」
アスターの静かで、しかし鋼のように揺るぎない声に、クララは力強く頷き、腰の長剣をガチャリと握り直した。
「……ああ! おっちゃんに後でどれだけ怒鳴られようが、破門にされようが、絶対に薬を持ち帰って命を助けるよ!」
「俺たちも行くぜ、アスター兄ちゃん!!」
レオン君とトーマス君、そして二十人以上の冒険者たちが一斉に武器を掲げた。
「俺たちで役割を決めた! 第1階層から第5階層までの上層・中層は、俺たち斥候部隊が全速力で露払いして最短ルートを案内する!」
「第6階層から第9階層の深層は、俺たち重装戦士と魔導士が壁になって凶悪な魔獣を足止めする! アスター兄ちゃんとクララ姉を、無傷で第10階層の祭壇まで送り届けてみせるぜ!」
冒険者たちが熱い決意を口々に叫んだ。
さらに、スラムの大人たちや神官が集まってきて、バルガスの看病と店の防衛を引き受けてくれた。
「アスターお兄ちゃん、これ……スラムの仲間みんなで作った、無事のお守り!」
「おじちゃんは私たちがずっと手を握って温めてるから、絶対に助けてあげてね……!」
トミー君とリリィちゃんが差し出してくれた、青雫草の小さなお守りを胸ポケットにしまい、アスターは昏睡するバルガスを静かに振り返った。
「バルガスさん。……僕を弟子にしてくれたこと、絶対に後悔させません。すぐに、特効薬を持って帰ってきますからね」
タイムリミットは、七十二時間。
倒れた師の命を救うため、三十人の路地裏連合軍は、迷宮最深部――死の第10階層を目指し、夜明け前の闇へと駆け出したのだった。




