迷宮の罠と、泥酔デバフの神速抜刀
「アスター兄ちゃん!! た、助けてくれ……っ!」
早朝の『緑竜の息吹亭』の扉が勢いよく開け放たれ、レオン君が泣き叫びながら担ぎ込んできたのは、同年代の若い冒険者――トーマス君だった。
トーマス君の右腕は赤黒く腫れ上がり、全身に紫色の斑点が浮かんで、呼吸はヒューヒューと途絶えかけている。
「トーマス君!? 一体何があったの!?」
「俺たちに薬草を届けようとして……迷宮第3階層で、凶悪な『紫斑毒胞子』の罠を踏んじまったんだ! ギルドの神官に見せても『この特殊な毒は、第3階層の奥に咲く生きた月光草の朝露を直接使った特製解毒薬じゃなきゃ手遅れだ』って……!」
レオン君が悔しさに顔を歪め、床に涙をこぼした。
「月光草の朝露……採取してからわずか一時間で薬効が完全に失われてしまう、極めて繊細な幻の素材ですね……!」
アスターの言葉に、カウンターの奥から出てきたバルガスが険しい顔で腕を組んだ。
「月光草の露は保存が利かねえ。助けるには、薬師本人が第3階層の群生地まで出向いて、その場で生きた朝露を抽出して解毒薬を練り上げるしかねえ。だがな小僧、第3階層は手練れの冒険者でも命を落とす危険地帯だ。お前みたいな病弱が行けば、毒を吸う前に死ぬぞ」
「それでも……行きます!」
アスターは迷うことなく、ショルダーバッグを肩にかけ、二重の防塵マスクを装着した。
「トーマス君は、僕たちのために危険を冒して薬草を採りに行ってくれたんです! 仲間が苦しんでいるのに、店でただ待っているなんて絶対にできません! 僕が必ず、その場で解毒薬を調合して助けます!」
「小僧……」
バルガスが目を見張る中、横からクララがカッと琥珀色の瞳を輝かせて前に進み出た。
「おっちゃん、あたしがアスターを連れて行くよ。……アスターの命は、このあたしが命に代えても守り抜く!」
「……チッ、頑固なガキどもめ。絶対に死ぬんじゃねえぞ」
バルガスの檄を背に、アスターとクララは朝霧の立ち込める迷宮へと駆け出したのだった。
――迷宮第3階層『巨木の密林』。
頭上を覆い尽くす巨木から湿った苔が垂れ下がり、視界を遮る深い霧が立ち込める危険地帯。
アスターが薬草箱を抱えて足を踏み入れた瞬間、頭上の枝から黒い影が音もなく落下してきた。
キシャアアアアッ!
鋭い毒牙を剥き出しにした全長二メートルを超える凶悪魔獣――『大樹毒蜘蛛』が、アスターの頭上めがけて飛びかかってきたのだ!
「ひゃうっ!?」
「アスター、伏せな!」
アスターの襟首を後ろへ引き戻すと同時に、クララが風のように前へと躍り出た。
短く切り揃えた赤髪を激しく揺らし、腰の長剣を一閃!
――閃光斬り!
ザシュッッッ!!
白銀の刃が空を裂き、大樹毒蜘蛛の巨体を空中で真っ二つに一刀両断した。
さらに左右の藪から飛び出してきた二匹の毒蜘蛛に対しても、クララは地を蹴って鋭い回転薙ぎ払いを放つ。
バシュッ、ドズゥゥンッ!
「ふぅ……! アスター、怪我はないかい!?」
「は、はい……! すごいです、クララさん……! 一瞬で三匹も倒しちゃうなんて、まるで一流の剣士みたいです……!」
「へへっ、誰が『まるで』だ! あたしはアスターの専属護衛なんだから、あんたに指一本触れさせやしないよ! しっかりあたしの背中についてきな!」
クララは琥珀色の瞳を誇らしげに輝かせ、頼もしく長剣を構え直した。
こうしてクララの超絶な露払いに守られながら、アスターたちはついに、青白い神秘的な燐光を放つ『月光草』の群生地へと辿り着いたのだった。
「ありました……! 月光草です!」
アスターはピンセットを握り、花弁に溜まった透き通る朝露を、オズワルド師匠の乳鉢の中に慎重にスポイトで吸い取った。
持参した清浄水と調合粉末を混ぜ合わせ、手早く乳棒を回す。
「よし……! 特製解毒薬の抽出、成功です! これをトーマス君に飲ませれば助かります!」
「よくやった、アスター! 急いで戻るぞ!」
クララが笑顔を向け、アスターの手を引いて踵を返した――その時だった。
ガササッ……!
前方の霧の中から、抜き身の刃を手にした男たちが次々と姿を現し、アスターたちの退路を完全に塞いだ。
一人、二人、五人……十人以上。
誰もが顔に凶悪な刺青を刻み、禍々しい殺気を放っている。
「おいおい……路地裏のクズ薬屋どもが、仲良くお散歩かい?」
下卑た笑い声を上げながら歩み出てきたのは、右目に黒い眼帯をつけた大男――裏社会の凶悪な暗殺傭兵団『黒狼の爪』の首領、ヴォルグだった。
「黒狼の爪……!? ガルシア商会の差し金かい!」
クララが神速で長剣を抜き放ち、アスターを背後に庇った。
「ククク……ガルシアの旦那から金貨百枚で頼まれちまってよ。悪いが、ここで事故に見せかけて野垂れ死んでもらうぜ!」
「どいてください……!」
アスターは小瓶を胸に抱きしめ、必死に叫んだ。
「今、街で仲間が生死を彷徨っているんです! 一刻も早くこの特製解毒薬を届けなきゃいけないんです! お願いですから、通してください!」
「ハッ! 貧民のガキが一匹死のうが知ったことか! テメエらもろとも肉塊にしてやるよ!」
ヴォルグが冷酷に吐き捨て、十五人の手練れ傭兵が一斉に抜刀してじりじりと包囲を狭めてきた。
クララ一人では、十五人の凶刃からアスターを守り切ることはできない。
(そんな……ここで足止めされたら、トーマス君が手遅れになってしまう……!)
極限の緊張と焦りで、アスターの喉はカラカラに干からびていた。
息が詰まり、激しい動悸で視界がかすむ。
早く何か水分を補給して落ち着かなければ――そう思ったアスターの足元に、木の上から完熟した赤紫色の木の実がポトリと落ちてきた。
(果物……水分……!)
パッションフルーツのような甘く芳醇な香りに引き寄せられ、アスターは無我夢中でその実を拾い上げ、一口かじって果汁を飲み干した。
だが――。
それは迷宮の過酷な環境で樹上発酵を極限まで繰り返した超猛烈なアルコール果実――『酔魔果』だったのだ。
ゴクン。
カアァァァァァッ……!
胃の奥から灼熱のマグマが噴き上がり、アルコール度数九十パーセント相当の迷宮酒が、下戸で病弱なアスターの血中を一瞬で駆け巡った。
「ふにゃぁぁ……?」
視界がグルングルンと万華鏡のように回り出す。
頭の中がお花畑になり、足腰の骨がコンニャクのようにふにゃふにゃになった。
「あ、アスター!? 顔が真っ赤だぞ!? あんた何食ったんだ!?」
「ふへへぇ……クララさんのお顔が、よっつに見えますぅ……。お空がピンク色で……綺麗ですねぇ……えへへ……」
「酔っ払ってんじゃねえかァァァッ!! こんな絶体絶命の時に泥酔デバフ発症すんなバカァッ!!」
「ギャハハハッ! ビビりすぎて酒の実食って泥酔してやがるぜ!」
「まとめて細切れにしてやれェッ!」
傭兵たちが哄笑を上げ、大剣や戦斧を振りかざして一斉に襲いかかってきた。
「くっ……アスター、あたしの後ろから離れるな――」
クララが叫んだ、その瞬間だった。
ふらり。
「あぶないですよぉ〜。通してくださいって……言ったのにぃ……めっ! ですぅ〜」
千鳥足のアスターが、ふにゃふにゃと笑いながら、フラフラと前に歩み出た。
「なっ……おい、小僧!?」
先頭の傭兵が振り下ろした大剣が、アスターの鼻先を掠める――はずだった。
だが、アスターの足元が絶妙に滑ってグニャリと傾き、大剣は空を切った。
「な……!? 躱した……!?」
「よいしょっとぉ……」
アスターは腰の薬草採取用ナイフに手を伸ばした。
普段は薬草の根っこを掘るための、刃渡り十センチほどの小さな小刀。
それを――泥酔したアスターが、ふわりと引き抜いた。
刹那。
――ビュンッッッッッ!!!!
世界が静止した。
千鳥足のぐにゃぐにゃとした軌道から放たれたのは、空間そのものを切り刻む超神速の神聖抜刀術。
光の残光が幾重にも交差し、目にも留まらぬ無数の白銀の斬撃が森全体を包み込んだ。
シュバババババババババッッッ!!
「……ふぅ。お片付け、完了ですぅ〜」
アスターがふらつきながらナイフを鞘にカチリと納めた、次の瞬間。
パァァァァァンッ!!
十五人の傭兵たちが持っていた大剣、戦斧、槍の刃が、一瞬にしてサイコロステーキのように細切れになって砕け散った。
それだけではない。
彼らの頑丈な革鎧、鉄の胸当て、そしてズボンのベルトだけが寸分の狂いもなくスパスパと両断され――。
バササササッ!
「「「ひゃああああああああっ!?」」」
十五人の屈強な傭兵たちのズボンが一斉に足元へとずり落ち、水玉模様や縞模様の派手なパンツが白昼の森の中に晒された。
さらに背後の樹齢数百年の巨木十数本が、綺麗な斜めの切断面を見せてズズズズンッ! と一斉に倒壊していったのだ。
「な……な、な……っ!?」
首領のヴォルグは、ズボンを落としたままガタガタと膝を震わせ、目の前のふにゃふにゃ笑う少年を見上げた。
ナイフ一振りで巨木を切り倒し、ミリ単位の神業で服と武器だけを両断する超絶神速。
「ば、化け物……! 神話級の剣聖だァァァァァッ!!」
「命だけは助けてくれェェェッ!!」
下着姿の凶悪傭兵たちは、涙と鼻水を垂らしながら、パンツを片手で押さえて一目散に森の彼方へと逃げ去っていった。
静まり返った密林の中。
粉々に砕け散った大剣の破片と、真っ二つに両断された巨木を見つめ、クララはハッと息を呑んだ。
(……待って。……あいつ、普段は三キロの乳鉢すら持てないヒョロガリなのに……)
クララの脳裏に、これまでの異常な出来事が走馬灯のように駆け巡る。
第5階層で痺れ草のトゲに刺されて『全身麻痺』した瞬間の、岩喰い猪への神速裏拳。
第5階層の極寒で『四十度の高熱』を出した瞬間の、氷竜を蒸発させたくしゃみ大魔導。
そして今、酔魔果の酒気で『泥酔状態』になった瞬間の、この神話級の超神速抜刀術――。
(……偶然なんかじゃない。あいつ、健康な時は最弱の薬師見習いなのに……毒や麻痺や高熱で【身体に重いデバフ(状態異常)がかかった瞬間だけ】、とんでもない神話級の力を発揮してるんじゃないか……!?)
その信じられない法則性に辿り着いた瞬間、クララの全身に鳥肌が立った。
本人は自分の体質に全く気づいていない。けれど、身体が弱り、苦しんでいる時ほど、誰よりも強く輝く――。
呆然と立ち尽くすクララの前へ、アスターがふらりと千鳥足で歩み寄ってきた。
普段のおっとりした気弱な雰囲気はどこへやら、とろんと潤んだ瞳に、どこか色気のある妖艶な笑みを浮かべている。
「クララさん……」
「えっ……? ア、アスター……?」
アスターはスッと手を伸ばすと、クララの背後の大木にドンと手をつき――至近距離でクララの琥珀色の瞳をじっと見つめ下ろした。
甘い酒気を含んだ熱い吐息が、クララの唇をふわりと撫でる。
「ひゃっ……!? き、距離が近い……っ!?」
「逃げちゃ、めっ……ですよ? ……ねえ、クララさん。クララさんの赤髪、夕焼けみたいですごく綺麗ですね」
「なっ……な、な……っ!?」
アスターは細い指先で、クララの耳元の赤髪を優しく梳くように撫で上げた。
普段の控えめなアスターからは想像もつかない、無自覚で強気な甘い囁き。
酒に酔うと無防備なまでに積極的になり、女性を自然に口説き倒してしまう――アスターの隠された【泥酔タラシ体質】が、完全に発動していたのだ!
「僕の専属護衛さん……いつも格好良くて……すごく可愛いなって、思ってましたよ……?」
「か、可愛いって……っ!? あ、あんた何言ってんだバカァァァッ!!」
クララの顔面が、耳の先から首筋まで林檎のように真っ赤に沸騰した。
心臓が肋骨を突き破るかと思うほどドクドクと高鳴り、頭から湯気が噴き出しそうになる。
だが、クララが限界まで悶絶した――まさにその瞬間だった。
「……ふぅ。お薬も守れたし……なんだか、眠くなっちゃいましたぁ……」
コテン。
言いたいことだけを甘く囁き尽くしたアスターは、完全に電池が切れたように、クララの豊かな胸元へとストンと顔を埋めて倒れ込んできた。
そのまま、安心しきったように「すやすや……」と心地よい寝息を立て始める。
「ちょっ……言いたいことだけ言って寝るなぁぁぁっ!!!!」
クララは絶叫した。
けれど、胸元にすっぽり収まったアスターの柔らかな温もりと寝顔を見つめるうちに、カッと赤くなった顔を手で覆い、やがて――愛おしそうにアスターの頭をそっと胸に抱きしめた。
「……ずるいよ、バカアスター。こんなの……惚れ直すどころの話じゃないじゃないか……!」
――その後。
クララに背負われて店に戻ったアスターたちは、ギリギリでトーマス君に特製解毒薬を飲ませることに成功した。
紫色の斑点はみるみるうちに消え去り、トーマス君は見事に意識を取り戻したのだ。
「アスター兄ちゃん!! 本当にありがとう!!」
「アスター兄ちゃんは、俺たちみんなの命の恩人だ!!」
レオン君たちが涙を流してアスターの手を握りしめ、店中が歓喜の歓声に包まれた。
路地裏の絆は、誰にも引き裂けないほど強固なものとなっていたのだった。




