『意気地なし、か』
「再婚しようと思うんだ」
話がある、と父に言われたのは、秋も深まってきた日のことだった。
大学で研究員として勤めている父は、来春アメリカに発つと言う。海外での活躍を望んでいた父にとって、それは非常に魅力的な話だったに違いない。
行けばいいじゃん。父のアメリカ行きについては、俺は寛容にそう返したところだった。
「俺は、父さんがしたいっていうならそれでいいと思う」
まあ相手に会ってみなければ何とも言えない、というのが正直な感想だが。
落ちた沈黙がやけに気まずくて、視線をさ迷わせる。
父はしばらくしてから、再び重い口を開いた。
「……相手の方にも、娘さんがいるんだ」
咄嗟には、声が出なかった。父が言いにくそうに続ける。
「その子は一太の一個下で……だから、」
妹ができることになる。そう結んで、父は目を伏せた。
今しがた告げられた事実を脳内で反芻する。だが不思議なことに、自分はさほど驚いていなかった。
「いいんじゃない?」
俺が言い放った途端、父が弾かれたように顔を上げる。
「いいって……そんな軽いことじゃないんだぞ。しっかり考えてから、」
「うん。ちゃんと会ってからまた考えるし、嫌だったら考えるけど。とりあえず、いいと思う」
決して、どうでもいいというわけではなかった。
幼い頃から父の背中を追いかけていた俺は、自然と「研究員」に憧れを抱いた。本を読み耽り、気になったことは片っ端から気の済むまで調べ、集中し始めると誰かに声を掛けられても気付かないことがある。
両親が離婚した時、当然議題にあがったのは、どちらが俺を引き取るかということだった。
私が、いや俺が、と互いに譲らない二人。最終決定は、俺に委ねられた。
『俺は、父さんと暮らしたい』
正直にそう打ち明けた時、母が泣き崩れたのを今でも鮮明に覚えている。
どうして。あなたのことを見てきたのは私なのに。
混乱状態の母に涙声で詰られ、――この人は父さんの何を見ていたのだろう、と他人事のように思ってしまった。
研究者である父は確かにいつも自室にこもりがちで、家族揃って休日に出掛けた記憶は数えるくらいしかない。でもそれで俺が何か不満だったかといえば、そうではなかったのだ。
俺も父に似て部屋にこもり、時間を忘れて読書にのめり込むのが常だった。そこで気になることが出てくると、父の部屋に訪れてよく質問を投げた。
『なるほどなあ……その考え方はしたことがなかった。一太、お前俺より詳しいんじゃないか?』
父との時間は、本当に有意義で楽しかった。
車に乗って動物園に行かなくたって、公園でキャッチボールをしなくたって。父から聞く話はいつだって未知との遭遇だったのだ。俺はそれで十分だった。
俺と二人で暮らし始めてから、父の負担が増えたのは明白だった。そんな父に、ちゃんと幸せになって欲しいと、ずっと願っていたのだ。
「初めまして。山田志乃です」
それから程なくして、父の再婚相手だという女性に会うことになった。
きっちり結われた黒髪が聡明な印象を与える。彼女一人で現れたことに、俺は首を傾げた。
「……あの、娘さん、いるんですよね?」
遠慮がちに問うと、父と彼女が顔を見合わせ、お互い困り顔である。ますます首を曲げた俺に、彼女が言った。
「実は……うちの子、きょうだいは欲しくないって言っていて……」
お兄ちゃんができるわよ、良かったね、といった具合に、話を進めたかったのが本心だったのだろう。
はっきり「いらない」と首を振られ、再婚のことも伝えられずにいるらしい。
「ごめんなさいね。せっかく一太くんがいいって言ってくれたのに……あの子にはもう少し時間を置いてからまた話そうと思って、今日は私だけ来たの」
そうですか、と軽く頷いて口を噤む。
父と彼女が隣に並んで話している様子は、贔屓目なしにお似合いだった。
大学で知り合い、当時は切磋琢磨し合う良き仲間だったそうだ。父が研究でアメリカに行くと聞き、彼女の方から連絡を取ったのだという。
「とうとうアメリカ進出かあって、感慨深くなったわよ。長年の夢だったものね」
「そうだな。まさかそっちのアメリカ行きと被るなんて思わなかったけど」
「あー……そうね、そのこと、なんだけど」
途端に歯切れ悪くなった彼女に、父も俺も、思わず前のめりになった。
「私、その話は断ろうかと思って」
「それは――やっぱり、華ちゃんのことが?」
華ちゃん。初めて聞いたその名前に、むず痒さを感じる。
彼女は父の問いに「ええ」と眉尻を下げた。
「会社から話がきた日、あの子にも一応話してみたの。案の定、行ってくればいいって言ってくれたんだけど。流石に、一人残して行くわけにも……」
「預かってくれそうな人はいないの?」
「祖父母は亡くなっているし、親戚もね……預けるには遠すぎて」
「そうなのか……」
父が思案顔で腕を組む。不意に視線を上げ、こちらをじっと見つめた。
「俺も、一太を置いて行くのは心もとなくてなあ……」
ぼそりと呟かれた言葉に嫌な予感がして、俺は反射的に声を上げた。
「まさか、父さんまでやめるとか言わないよな。こんなチャンス二度とないのに」
父は本当に優秀だ。それくらい、俺にだって分かる。
長年温め続けてきた夢を諦めて欲しくなかった。父の足枷にはなりたくなかったのだ。
「そうは言ったって……お前、一人になって大丈夫なのか? 料理どころか、家事はてんで駄目だろ」
「そんなんどうとでもなるし、するよ。たった半年だろ?」
親子の討論が始まったところを、彼女に「まあまあ」と宥められる。
「そうねえ……一人になって大変なのは、私の方かも。家事はあの子に任せっきりだったから」
「偉いなあ、しっかりしてて」
「ふふ。しっかりしてても結構寂しがり屋なのよ。だからやっぱり可哀想だわ……女の子の一人暮らしなんて、何があるか分からないし」
と、そこで父がはたと何かに気が付いたように固まった。
「……待てよ」
ちょっと思ったんだけど、と前置いた父は、衝撃的な提案をしてのけたのだ。
「俺らがアメリカにいる間、一太と華ちゃんが一緒に住めばいいんじゃないか?」
しん、と静まった空間。
彼女は虚を突かれたように目を見開いていて、恐らく俺もまともな顔をしていないだろう。
「ちょ――父さん、急に何言ってんだよ。いくら何でもそれは、」
「だって、一太は一人だと飯も食わないだろ。その点、華ちゃんがいれば心配ないしな」
いや、違う。そんなビジネスライクなことを言っているんじゃない。
小学生の「妹」ならまだしも、高校生、ましてやたった一つ違いの女の子と住むのはいかがなものか。
現に彼女だって物凄く困っている。俺のいる前だからはっきりとは言えないんだろうが、それがかえって申し訳ない。
「本気で言ってんのか? 仮にそうしたとして、俺らの相性が最悪だったらどうすんだよ」
オブラートに包んで、少し違う角度から問いただす。
しかし父は、俺の言葉に表情を和らげた。
「……そうしたら、元通りになるだけだ」
「え、」
「俺は一太と、彼女は華ちゃんと……また、暮らすだけだよ」
その言い方は――ずるいと、思う。
唇を噛んでぐるぐると思考を巡らせた。そんな俺の様子をみかねてか、彼女が口を挟む。
「一太くん、嫌なら無理しなくていいからね。私も、あの子がどういう風に感じるかは何とも言えないし……」
俺自身、女の子への接し方があまり得意ではなかった。
気の利いたことは言えないし、話題作りや気遣いも苦手だ。そうした中でいきなり「妹」ができるかもしれない、というのも、かなり不安ではある。
ただ、俺は。
「――トライアルってことで、いいですか」
俺は何よりも、父さんの幸せを願っている。
「トライアル?」
父さんと彼女が怪訝な顔で俺の言葉を繰り返した。
はい、と頷いて、俺は続ける。
「俺たちがきちんと『兄妹』になれるか、住んでみて決めるってことです。えーと……華さん? には、俺が兄になるかもしれないってことは言わずに――その方が、もし駄目だった時に清算しやすいと思うので」
「一太くん……」
志乃さんが気遣わしげに俺を見やった。
「本当に大丈夫? 私たちに気を遣っているなら……」
「志乃さん」
視線がぶつかる。母親の目をした彼女に約束するように、自分自身に言い聞かせるように、俺は深く息を吸った。
「誓います。『兄』として、絶対に華さんを守ります」
そうして俺は、一人の少女と奇妙な同居生活を送ることになった。
***
まずい。どうする。いやとりあえず落ち着け。
まだ慣れない一人の空間で、俺はひたすらに周囲をうろうろと歩き回っていた。
父さんと志乃さんに幸せになってもらいたいという気持ちに、嘘偽りはない。俺の目的は、二人の結婚のために、これからやってくるであろう「妹」と半年間うまくやっていくことだ。
二人の前では生意気に言っていたが、いざとなると緊張で冷や汗が止まらない。今までろくに女子と関わってこなかった過去を、これほど恨んだことはなかった。
第一印象が大切。兄らしく、年上らしく余裕たっぷりに。
一人ぶつぶつと呟いていると、突然インターホンが鳴った。……来た。
ごくり、と生唾を飲み込み、呼吸を整えながらゆっくり玄関へ向かう。そんな俺を急かすようにもう一度呼び鈴が鳴って、慌てて内鍵を開けた。
「あ、」
そこにいたのは、大きなボストンバッグを抱えた小柄な女の子だった。志乃さんとよく似た艶やかな黒髪は肩上で切り揃えられており、大きな瞳が幼さを助長している。
彼女はその瞳を更に大きく見開くと、俺を凝視して数秒固まった。そして我に返ったのか、慌てたように頭を下げる。
「初めまして。今日からお世話になりま――」
「やあ、俺の可愛い小鳥ちゃん。待ってたよ」
説明しよう。俺はこの時、物凄く動揺していた。
実物の「妹」を前に、この先本当にうまくやっていけるのか、半年間様々な事情を隠し通すことができるのか。そんな不安が脳内を支配して、焦燥感に駆られていたのだ。
女の子の扱い方を学ぼうと先日から読んでいた少女漫画を思い出し、その中のセリフが咄嗟に口から出てきてしまったのである。
「すみません部屋間違えました」
「待て待て待て、待てって」
ここで逃げられては二人に合わせる顔がない。
くるりと背を向けた彼女のパーカーの裾を反射的に掴んで、俺は必死に引き留めた。
「何するんですか! 警察呼びますよ!」
「出会って数秒で人を不審者扱いするな!」
目に見えて不機嫌そうな彼女の売り言葉に、買い言葉で応戦してしまう。
この後、彼女が俺と暮らしたくないと駄々を捏ねたり、俺が空腹で死にかけたり、紆余曲折の末、二人での暮らしが始まるわけだったが――「兄」とはどうあるべきか。それだけが永遠に分からなかった。
本来の自分とは違う「鈴木一太」を彼女の前で演じてしまったのは、無意識的な自衛だったのか否か。一枚壁を隔てることで、彼女には何もバレることはないと見くびっていたのかもしれない。
「知りたいんです。先輩のこと、もっとちゃんと」
誤魔化し続けてきた煮え切らない俺の態度を、華は厳しく追及した。
彼女の目に射抜かれた時、ひたすらに焦って気が動転した。
『ちょっと、すぐには決められないです。……確認したいことがあるので』
俺と志乃さんと、三人で暮らせばいい。華がそう言った時、純粋に驚いた。
それはきっと志乃さんも同じで、華の心境の変化を感じたのだろう。
ただ俺は、どうしても一つ、確かめなければならなかった。
華の発言は彼女のどういった感情から引き起こされたものなのか。単に俺に気を遣ってそう言っているだけなのか、それならまだしも――。
「は――何だ、華。まさかお前、俺のこと好きになったとか言うんじゃないだろうな?」
何があっても、絶対に、それだけは間違えてはいけなかった。
もし万が一、彼女が俺にそういった類の気持ちを持ってしまったら、この先どう転んでもおしまいだ。
俺らは兄妹になるんだと事実を突きつけても。それをせず、離別することになっても。いずれにせよ、華を深く傷つけてしまう。
『えー、俺様キライ?』
『嫌い。無理。自意識過剰な人は論外』
俺は怖かった。逃げ道を作った。
華の真意が分からない。分からなくて、少しでも早い段階で芽を摘みたくて、彼女の嫌いなタイプを装った。
でも、もしそれが逆効果だったとしたら?
「――そうですよ」
彼女の声が震える。刹那、呼吸を忘れて、真っ暗闇に突き落とされたような感覚に陥った。
「だから先輩のこと、ちゃんと知りたいんです。うやむやのまま終わりたくありません」
俺は、間違えたのか。俺の浅はかな言動で、この子を傷つけてしまったのか。
彼女だけじゃない。志乃さんも、父さんも。俺のせいで、全員の未来を。
「お前、それ、本気で言ってんのか」
全身が酷く冷たい。頭もろくに回らなくて、俺は逃げた。
わざと彼女の顔は見なかった。見たらきっと、死にたくなる。
「タカナシ。帰り、華を送ってやってくれ。それと、……明日から俺、お前んちに泊まる」
華から離れる。距離を置く。いつまで? 分からない。ともかく、このまま側にいることは不可能だ。
「一太、それは――」
「頼んだ」
全て投げてしまって申し訳ないとは思ったが、丁寧に詫びる余裕は持ち合わせていなかった。
もし流れ星に願望を告げるとしたら、いま俺は迷いなく「最初から全てやり直したい」と懇願するだろう。
彼女の中の俺の記憶を、いっそ全て取り除いてやれたら。そんな無謀なことを思った。
***
「あっ、鈴木先輩ですか!? 大変なんです、いま華が倒れちゃって……!」
佐藤からその連絡を受けたのは、タカナシの家に滞在して一週間が経った頃だった。
俺と華の事情は誰にも口を割っていなかったが、佐藤とタカナシは別段聞き出すわけでもなく、ただ俺たちを見守ってくれていたように思う。
「分かった。すぐ行く」
どんな顔で会いに行けばいいのか。なんて謝ればいいのか。そんな考えより先に、体が動いていた。
「タカナシ。悪かったな、助かった」
迷惑な友人、否、トラブルメーカーだったろう。
彼は俺をじっと見つめ、端的に急かした。
「早く行ってあげな」
「……さんきゅ」
相変わらず淡泊な友人の家を出て、ひた走る。電車を待つのももどかしくて、タクシーを拾った。
「佐藤! 華は!?」
突然入るなり声を張り上げた俺に、佐藤は肩をびくつかせた。早かったですね、と驚いた彼女が、華の部屋を指して言う。
「いまベッドに寝かせたところです。多分ただの風邪だとは思いますけど……昨日くらいからずっと顔色悪くて。熱があるので、ちょっとしんどそうです」
「そうか。ありがとう」
礼を述べつつなんとはなしに視線を移し、――息が詰まった。
「……佐藤」
「はい」
「華は、ここを見たのか?」
入るな、と強く怒鳴った、父の部屋。どんな些細な情報であっても、彼女にとっては重大だ。半年後、離れるという選択を取ったとしても、まっさらな状態で戻れるように。
「見たというか……入ってましたよ。ああ、そうだこれ。華が持ってたんですけど、床に落ちちゃってたので」
そう言って渡されたのは、父と志乃さんの写真だった。
華は、これを見たのか。何を思ったんだ。傷ついただろうか。いやでも、見たんだとしたら、俺は――。
「じゃあ私、帰りますね。あとは先輩にお任せします」
落ち着いた声色で、佐藤が背を向けた。
あ、と何かを思い出したように振り返った彼女が、立ち尽くす俺に告げる。
「華、鈴木先輩のこと心配してましたよ。普段強情なのに、ここのところずっと元気なかったんで」
「……そうか」
気の抜けた返事をした俺に、彼女はグ、と口角を上げた。
「やーいやーい、鈴木先輩の意っ気地なしー! 逃げるなんてかっこ悪いですよー!」
「佐藤、」
「ちゃんと向き合ってあげて下さい。華のこと、大事なんでしょう?」
失礼します、と軽く頭を下げた彼女は、今度こそドアを開けて出て行った。
「意気地なし、か」
それが一番しっくりくる。
傷つけたくない。傷つきたくない。――今更だ。もう十分傷つけたのだから、あとは誠心誠意。
震える拳を強く握り締め、俺はようやく足を動かした。




