「練習です」
「初めまして。一太の父の、鈴木尚也です」
画面の向こう。柔和な笑みを浮かべる彼に、私はしゃんと背筋を伸ばした。
先輩とよく似た、二重のアーモンドアイ。その双眼がこちらを優しく見つめている。
「は、初めまして……山田華です」
「ははは。緊張してる?」
「はい……」
華ちゃんのことはお母さんからよく聞いてるよ。そう言って目を細めた彼は、唐突に頭を下げた。
「ごめん。華ちゃんには何も言わず、色々と話を進めてしまって。僕からも謝罪させて欲しい」
「えっ……そんな、大丈夫です! あのっ」
確かに母には「ちゃんと話して欲しかった」と怒鳴ってしまったし、実際本当にそう思っていたけれど。もう済んだことだし、気持ちの整理もついた。
こうして大人の人に謝られるのは慣れていなくて、どうしたら良いか分からずに焦ってしまう。
「父さん、もういいから。華が困ってる」
助け舟を出してくれたのは、隣に座る先輩だった。
その言葉にようやく尚也さんも顔を上げ、ほう、と胸を撫で下ろす。
夏休みに入って最初の日曜日。アメリカにいる母と先輩のお父さん、そして先輩と私。ビデオ通話ではあるものの、初めて四人で顔を合わせた。
「華、がっちがちねー。ほんと人見知りなのは昔っから変わらないんだから」
母に指摘され、思わず顔をしかめる。
軽快に笑った尚也さんが、「さて」と自身の膝を叩いた。
「全員揃ったことだし、改めて話そうと思う」
彼の言葉に、母も表情を引き締めた。隣り合う二人はお互いの顔を窺い、深く頷く。
「僕と彼女は結婚を考えていて、二人ももちろん一緒に、四人で暮らしていきたいと思ってる。それが、親側の総意です」
そう語る尚也さんの真剣な眼差しは、やはり先輩と通ずるものがあった。彼はこちらに手を差し向けると、そのまま続ける。
「君たちの『総意』を、きちんと教えて欲しい。僕らはそれを優先する」
静けさがリビングを覆った。
咄嗟に口を開こうとして、思いとどまる。
私は先輩と暮らしたいと言ったけれど、先輩はそれでいいのだろうか。これは私の意見であって、私たちの「総意」ではない。
「……華?」
母の声が耳朶を打つ。
私はゆっくりと顔を上げ、隣に座る先輩に視線を投げた。
彼は、酷く優し気な笑みをたたえて、私をじっと見つめていた。
「華」
そんな笑い方を、声を、操る人だっただろうか。今までの掴み切れない同居人の姿は消え去り、彼はただ私を慈愛で包み込む。
「俺を、お前の兄ちゃんにしてくれるか?」
わけも分からず涙が出た。
『お前はもう、一人じゃない』
私はずっと、この人の愛情に守られていた。初めて会ったあの日から、今日に至るまで。あまりにも大きな温かさに。
明るいリビング。賑やかな食卓。温かいご飯。父と母が揃っている「家族」。
本当はずっと憧れていた。他の子にはあって、私にはないもの。
ねだることはいけないと思って、今ある幸せを嚙み締めた。母を悲しませたくなかったから。
でももう、私は一人じゃない。
「私も、妹になれるように……頑張ります」
それが私たち「兄妹」の、総意だ。
「ははっ、志乃まで何泣いてるんだ。お母さんがそんなんじゃ、示しがつかないだろ……」
尚也さんの声が萎む。震えて、潤んで、小さくなって。
すぐ隣からも鼻を啜る音が聞こえて、そっと様子を窺った。
唇をこれでもかと食い縛り、必死に嗚咽を堪える「兄」。彼がこれほど感情を露わにするのは新鮮で、見入ってしまった。
「……見んな」
「ぐえっ」
手の平でグイ、と顔を強制的に背けられ、喉から変な悲鳴が漏れる。
「もうちょっと手加減できませんかね」
「知るか。ずっと見てたお前が悪い」
「大事な妹にその言い草は何ですか」
うるさい、と噛みつくように言い放った彼に、画面越しで両親が笑っていた。
***
「本当に、お世話になりました。短い間でしたが……」
菓子折りを手渡しながら、ぺこりと頭を下げる。
何言ってるの、と手を振った伊集院さんは、鷹揚に微笑んだ。
「気にしなくていいのよ、そんなの。……でも、ほんとに良かった。家族揃って暮らすんですってね」
「はい……」
九月下旬。両親がアメリカから帰ってきた。
それに伴い引っ越しをすることになり、今日はこのマンションから立ち去ることになっている。最後の挨拶にと、隣の伊集院さんの元を訪れたのだ。
「ハナちゃんが一人になった時、心配だったけど……ちゃんと仲直りできたみたいで安心したわ。一太くんはハナちゃんのこと、すっごく大事にしてたものね」
「そ、そうですかね」
肯定するのも謙遜するのも違う気がして、答えに困る。へどもどと応答した私に、彼女は「そうよ」と主張した。
「一太くんが一度出て行っちゃったことあったでしょう。あの時ね、一太くんがうちに来たの」
「え?」
それは初耳だ。意図せず前のめりになった私に、彼女が内緒話をするように打ち明けた。
『あいつ、いっつも腹出して寝るんです。だから、寝る前はクーラーちゃんと温度調節して、風邪引かないように……それと、ちゃんと飯食ってるか、毎日確認してやってくれませんか』
彼はそう言って、私を案じていたという。
「何だか、本当にお兄ちゃんみたいって思ったわ」
――ああ、もう。
いつも不意打ちで、しかも剛速球で優しさを寄越してくるの、もっとどうにかなりませんか。
きっと本人は素知らぬ顔で、私を粗雑に扱っているふりをするんだろうけど。
「おい、ハナコ! そろそろ行くぞ!」
むず痒い気持ちになっていたところへ、鼓膜を破らんばかりの怒声が飛んでくる。
どかどかとこちらへ大股で近寄ってきた彼は、私の頭を強引に下げさせた。
「伊集院さん、お世話になりました。色々ご迷惑をお掛けして、すみません」
言い終わるや否や解放された頭を摩り、私は彼を睨みつける。
「ちょっと。痛いんですけど」
「ああ? もう父さんが車つけて待ってんだよ。行くぞ」
本当に彼は、私に対して遠慮がなくなった。
胡散臭い笑顔も、気持ち悪いジョークも、どうやら全部清算したらしい。
「それじゃあ伊集院さん、私たち行きます。ありが……どうして笑ってるんですか?」
先程から小刻みに肩を揺らしている彼女に、訝しみながら問う。
ううん、と首を振った彼女は、目を細めて言った。
「もうすっかり『兄妹』なのね」
しみじみと告げられたそれに、むず痒さが再来する。
隣人への挨拶も済ませた私たちは、奇妙な同居生活の舞台となったマンションを後にした。
***
小さいけれど華やかなチャペル。大きな窓からは青空が覗き、絶好の結婚式日和だ。
先輩と二人で参列席にちんまりと座り、時を待つ。
「二人ともごめんね! お待たせ」
後ろから母の快活な声が聞こえた。弾かれたように顔を上げ、振り返る。
スーツ姿の尚也さんの隣。純白のウェディングドレスに身を包んだ母が、照れ臭そうに手を振った。
「お母さん、綺麗……」
無意識に零れ落ちた独り言。それを耳にした母は、「やぁね」と笑って目を伏せた。
だって、本当に、お世辞なんかじゃない。
母は元々美人だけれど、いつもきっちりした服とメイクばかりだったから。こうして煌びやかに変身した彼女は、間違いなく世界一綺麗だと思った。
「あ……えっと、写真! 撮ってもいい? こうやって、二人が歩いてくところの……」
「はは。いいよ」
勢い込んで立ち上がった私に、尚也さんが可笑しそうに頷く。
今日の結婚式は、私たち四人だけで静かに執り行われることになっていた。両親は「再婚だから」と最初はやらないつもりだったけれど、私の強い希望で実現した。
「座ってるだけで退屈かもしれないけど、すぐ終わるから。終わったらご飯食べようね」
母の言葉に、力一杯ぶんぶんと首を振る。
退屈なんてとんでもない。私が母のドレス姿を見たかったのだ。
それに、こうしてきちんと目に焼き付けることで、ちゃんと二人が夫婦になったのだと実感したかった。
「お母さん、綺麗だよ! 世界一!」
「もう、華ったら」
嬉しそうに、楽しそうに。バージンロードをゆっくり進んでいく二人を、食い入るように見つめる。
結婚式を直接自分の目で見るのは、初めてだった。
神聖な空気の中、大切な人同士が新しい未来に向かって羽ばたいていく。
目の前で二人がお互いの顔を見て微笑んだ時、写真を撮るのも忘れて見入ってしまった。
ねえ、お母さん。私はずっと、お母さんのその顔を見たかったんだよ。幸せでたまらないって、そんな顔を。
「……華」
不意に隣から名前を呼ばれて、頭に温い手が乗る。
とん、とん、と軽くたたかれた拍子に、目から水滴が落ちた。
「綺麗だな」
たったそれだけ。ワンフレーズ。
けれども十分に私を掬い上げるような声色に、ダムが決壊してしまう。
拭わなきゃ。せっかくの晴れ姿が見えない。今だけの輝きを、しっかり記憶に刻んでおきたいのに。
「あ――当たり前じゃないですかっ、お母さんは世界一です」
言い返すのが精一杯だった。そうしないと、少しでもいつもの調子で食って掛からないと、喋ることもできないくらい泣いてしまいそうで。
懸命にしゃくり上げながら返事をすると、先輩はわざとらしく口角を上げて私を揶揄う。
「お前に涙は似合わねーよ。笑っとけ」
多分、優しさだった。
立て直しを図りたい私の心境を読み取ったかのように、明るく取り繕う彼。
「……こういう時だけ先輩面しないで下さい」
だから私も大袈裟に不機嫌な表情を作って、彼に対抗した。
隣の空気がやけに静かになり、視線を上げた時。
「先輩じゃない」
端的に述べた彼が、真面目な顔で訂正する。
勿論、頭では分かっていた。彼は「兄」で、尚也さんは「父」。けれども、まだ振り切って呼ぶには勇気がいる。
「そう、ですね」
いや――もう、これがいい機会なのかもしれない。
「……お兄ちゃん」
「おう」
「お兄ちゃん」
「何だ」
「練習です」
やっぱり、慣れるまでにまだまだ時間はかかるし、力の加減を知らないこの人には手を焼きそうだ。
でも、きっと。
「俺は世界一幸せな『兄ちゃん』だ」
「何ですか、急に」
「お前がさっき言ってただろーが」
世界一幸せな――世界に一つだけの家族の形を、私たちはようやく見つけたのだと思う。
「華! 一太くんも! みんなで写真撮ろう!」
母がはしゃぐように手招きする。
慌てて頬を擦って、立ち上がった。そんな私の様子に、ぶっ、と隣から吹き出す音が聞こえる。
「お前……泣き顔ぶっさいくだなあ」
「はあ!? 雰囲気ぶち壊しなんですけど! 普通そういうこと言います!?」
腹を抱えて笑い出した彼に、遠慮会釈なく噛みつく。
おいおい、と尚也さんが窘めるように、呆れたように苦笑して、それから母もつられたように笑い声を上げた。
「何でお母さんまで笑うの!」
「華ぁ、せっかくおめかしして可愛かったのに~。ちっちゃい子みたいに泣いちゃって」
「ちょっと、尚也さんまで笑わないで……!」
「あははっ、ごめんごめん」
もう、と頬を膨らませながら、自然と肩の荷が下りる。
こうしてみんなが笑い合って、言い合って、喧嘩もして。そんな関係になっていければいい。
はいチーズ、のその時まで。私たちは四人顔を見合わせて、ずっとずっと、笑っていた。




