「お前の腹、正直だなあ」
何だか冷たいな、というのが最初だった。
瞼を持ち上げると白い天井が広がっていて、それを無感情に眺めていたところに、聞き馴染みのある声が落ちる。
「起きたか」
視線を横に移せば、私の額から手を退けた彼と目が合う。たっぷり十秒経ってから、ようやく私は口を開いた。
「どうして先輩が、いるんですか」
一週間前に出て行った、元同居人。
もう戻って来ないはずだった。もうきっと、会えないはずだった。
彼が目を伏せる。
「悪い。緊急事態だったから、お前の部屋に入った」
「……それは別に、いいですけど」
私も入りましたし、とは流石に言えず、簡素に相槌を打つ。
カーテンは閉じられ、蛍光灯が部屋の中を明るく照らしていた。最後の記憶が書斎の中だけれど、あの後は一体どうなったのだろうか。
「華。お前、ちゃんと飯は食ってたのか」
「……食べてましたよ」
一人で食べるとあんまり箸が進まなくて、食欲もいまいちだったけれど。
「風呂は? ちゃんと浸かってたか? 髪乾かさずに寝てたんじゃないだろうな」
やばい、図星だ。そしてこうやって迷惑もかけているのだから、何も言えない。
「クーラーつけっぱなしで、腹出して寝てたんじゃないのか」
「……ごめんなさい」
観念して謝ると、先輩が浅く息を吐く。
「お前は自分のことになるとすぐ手ぇ抜くだろ」
勉強に集中しすぎて平気でご飯を抜くような人に、言われたくないんですけども。
内心で憎まれ口を叩いてから、ついでのように弱気な心が顔を出した。
「……だったら、何で一人にしたんですか」
そんなに私のこと観察して、私にバレないところで大事にするくせに。
「先輩もお母さんも、二人で暮らせっていうからそうしたのに……それなのに、私が一緒に住もうって言ったら、どうして駄目なんですか」
「華、」
「私のことが嫌いなら、そう言えばいいじゃないですか!」
まずい。変なリミッターが外れそうだ。
目に水の膜が張って、それを悟られたくなくて、布団を被った。
中途半端に思いやりを差し出さないで欲しい。まるで人の傷つけ方を知らないみたいだ。先輩はそういう人だった。
「……華。俺は、お前のことが嫌いなんじゃない」
布越しに届く、くぐもった声。
「俺は、お前が大切なんだ。だけど――お前の気持ちには、応えられない」
ん? と、思わず首を傾げる。
そこで私は、自分が曲がりなりにも「告白」をしていることを思い出した。
「ちょ……ちょっと、待って下さい。すみません。あれは違うんです」
布団を押し退けて、上半身を起こす。体はさっきよりも軽く、睡眠によって少々回復したようだった。
「あれは咄嗟に言ってしまったといいますか……先輩の動揺を誘えば何か話してくれるかと思って、」
「は?」
「だから、嘘! 嘘なんです! 先輩のこと全然好きじゃないです、ごめんなさい!」
私の声が部屋中に響き渡った。
ここまで切実に「好きじゃない」と訴えるのもどうかと思うけれど、状況が状況である。とにかく、それが原因で拗れてしまっているのなら、早急に解かなければならない。
先輩は数秒目を見開いて固まり、それからがくりと項垂れた。
「嘘か……そうか、良かった……」
「よ、良かったって何ですか。失礼な」
別に先輩のことは本当に好きではないけれど、そういう風に言われるのも癪に障る。
反駁した私に、彼は顔を上げて苦笑した。
「いや……もし、華が俺のことを本当に好きだったら、俺はお前の母さんに顔向けできない」
え、と。自分の口から気の抜けた声が漏れる。
先輩は顔だけ後ろを向くと、存外落ち着いたトーンで確かめた。
「見たんだろ?」
彼が指しているのは、私の部屋の真正面にある、あの部屋のことだろう。
迷ったものの、ここで私まで誤魔化すのは違うと思い、恐る恐る頷いた。すみません、と小さく謝罪をくっつけて。
先輩は、しばらく黙り込んだ。その表情はどこか物憂げで、いつもの彼とは異質だった。
「……あそこは、俺の父さんが使っていた部屋だ」
長い空白の後、唐突に彼が言った。
姿勢を正す気配。どうやら、大事な話が始まるようだった。
「元々ここで、母さんと父さんと、三人で住んでいた。五年前に両親が離婚して、母さんが出て行って……それから父さんと二人で、ずっと暮らしてた」
初めて語られる彼の境遇。それをどういった感情で聞けばよいのか、正直分からなかった。彼が今、どんな気持ちで話しているのか。そもそも彼は今、幸せなのか。それを知り得なかったからだ。
でも、一つだけ。細かい事情は違えど、私も彼と同じだったのだ。
両親の離婚。母との暮らし。それを経験して、私は今ここにいる。
「お前の母さんと俺の父さんは、大学時代の同期だった」
記憶の新しいツーショット写真が、脳裏に浮かぶ。
そうか――あれは、きっと先輩のお父さんだったんだ。仲睦まじい二人の笑顔が、ようやく腑に落ちた。
「研究室が同じだったそうだ。父さんはそのまま研究員として残って、華の母さんは企業に就職した。それで、……アメリカに行くことになったと、父さんに言われたんだ」
「え――」
「今年の春だ。華の母さんも、そうだったろ」
二人は同じ時期にアメリカへ飛び立つことになった、ということか。それじゃあ、先輩のお父さんも今、アメリカに?
「卒業してからも仲が良かったらしい。連絡を取って、お互いにアメリカ行きのことを話して――それで、」
華の母さんは、アメリカへ行くのをやめようとしていた。
彼は、そう、言った。
「華を日本に残して行くのが心残りだったんだろう。だから、本来は行かないはずだったんだ」
確かに、預け先には困ったと思う。母の両親は既に亡くなっていて、親戚は遠く離れた九州にいる。私が何事もなく高校へ通うには、母が日本にそのままとどまることが最適だ。
「俺の父さんも、実は渋っていた。まあこの通り、俺はすぐに死にかけるからな」
これは、笑うところなんだろうか。
頬を引きつらせた私に、彼は少し眉尻を下げる。
「……そこで、だ。娘を一人にしたくない母親と、息子を一人にしたくない父親の利害が、一致した」
それは、つまり。
「俺ら二人が一緒に暮らせば、解決するんじゃないかと、そういうことだよ」
家事はできても女の子の一人暮らしは駄目、と母。一人で住むには差し支えないが下手したら死ぬぞ、と先輩の父。
なるほど、確かに。「利害」は一致する。
「話は分かりました。……でも、先輩はよくそれで、私と暮らそうと思いましたね」
流石に先輩の前で直接「男女の同居なんていかがわしいじゃないですか」とは言えないけども。オブラートに包んでそれとなく聞いてみる。
と、彼はまた神妙な顔で黙り込んだ。
今度は一体何だ。まだ言いにくいことでも隠し持っているのだろうか。
「……これは、ただの利害の一致じゃない」
「え?」
やけに真剣な目つきで私を見据えた先輩が、一文字ずつ、丁寧に話す。
「華。お前は、今でも本当に、俺と暮らしたいと思うか」
こんなに大人びた彼を見るのは、初めてだった。
彼は今、真剣に、私に向き合っている。彼の覚悟を感じる。私も、きちんと答えなければいけないと思った。
「……そんなの、」
もうとっくに、自分の中で答えは出ている。
「そんなの、今更聞かないで下さい。先輩はうるさいのがデフォルトですし、にんじんが食べられなくても他の野菜を食べればいいですし、」
一人のご飯が寂しいのは、きっと先輩といる時の賑やかさが身に染みてしまったからだ。静かなリビングも、冷たい朝も。もう、一人になるのはこりごりだった。
「だって先輩、前に言いましたよね。私は一人じゃないって……一緒に暮らす以上、」
『俺とお前は家族で――』
あの時、その先を遮ったのは、他でもない私だったけれど。
「私たちは、家族だって」
綺麗じゃない。普通でもない。でこぼこで、ちぐはぐで、相性も決していいとは言えない私たち。
でも、帰ってくる家はいつだって温かかった。それはどんな最新の器具でも敵わない、心の暖房。
文句ばかり、小言ばかり。くだらないことで言い合って、喧嘩して、呆れて途方に暮れて。気付けばまた、二人で食卓を囲んだ。
恋? 愛? 多分、全部違う。好きとか、嫌いとか、そんな品定めをするより先に、強引に顔を合わせる「家族」そのもの。
「私は先輩のことが好きじゃないけど、これからも一緒にいたいんです」
そう、これはきっと、「大切」ってことなんだと思う。
「華……」
呆けたように私の名前を呼んだ彼が、ぐ、と唇を噛んだ。焦げ茶色の瞳が揺れている。
「お前の母さんと、俺の父さん、……結婚、すると思う」
目の前の端正な顔が、くしゃりと崩れた。
「お前が俺と暮らすのが嫌になったら、何も言わずにこのまま離れるつもりだった。父さんも、お前の母さんも、それを望んでた」
「何で、そんな……」
だって、それじゃあ、先輩の意思は? 聞かされて、何を思ったの。私ばかり知らされないで、大事にされて、それで。
「何でって、そりゃあ……幸せになって欲しいからに決まってる。父さんには、幸せになって欲しかった。妹ができるかもしれないって言われた時は、流石に驚いたけど」
この人は一体、出会ってから今まで、何個嘘をついてきたの。私を傷つけないために、守るために、一体、いくつ。
咄嗟に起き上がって、スマホを手に取った。履歴の一番上にある番号――この前の日曜、初めて出なかった、母の電話。タップして、うるさい心音を誤魔化すように深く息を吐く。
「もしもし、華? どうしたの、こんな時間に――」
「お母さん。これから仕事? 仕事だよね。だからもう、はっきり聞くね」
息を呑む気配。果たしてそれはこの場にいる先輩のものだったか、通話口越しの母のものだったか。
「お母さん、結婚するの?」
「華……」
「全部聞いたよ。私は、先輩と暮らしたいって、思ったよ」
でももし、そう思わなかった時は?
先輩は自分のせいだと言って、二度と私と会ってくれなかったんだろうか。
「ちゃんと話して欲しかった。私だけ知らないで、先輩ばっかり頑張ってるの、全然嬉しくない」
私だけ仲間外れにされてる、なんて。そんな幼稚な駄々を捏ねている場合じゃなかった。
何にも知らずにのうのうと、私はこの数か月間暮らしていたんだ。先輩が自分の気持ちより先に、みんなの幸せを願っている間、ずっと。
「言ってよ……結婚なんて、そんなの、祝うに決まってるじゃん! 私だって、お母さんに幸せになって欲しいよ! 当たり前じゃん!」
水臭いよ。不安とか心配とか、ないわけないけどさ。でも、お母さんが幸せになるのをとめるわけないじゃんか。
他の人を押し退けてまで掴む幸せなんて、そんなのいらない。
「華……華、ごめんね……」
怒っているのか、泣いているのか、もうどっちつかずだった。
怒鳴る私に、母は声を震わせて告げる。
「……華は、一人がいいって、ずっと言ってたから、私……」
それを聞いた瞬間、まさか、と体が強張った。
『ねえ華。例えばよ。例えばの話……きょうだいが増えるとしたら、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟、妹、どれがいい?』
いつだったか、もう明確には思い出せない。
食卓で、不意に投げられた質問の記憶。私は確か、その時。
『え? きょうだい? いらないよ、一人が一番楽だもん』
『ええ~、そうなの? 本当?』
『ほんと。きょうだいとかいらない。一人がいい』
自分なりの強がりだった。きょうだいが欲しいなんて認めてしまったら、一人でいるのが寂しくなるから。だって、願ったところで増えるものじゃない。
でも、一番は。母へ、「私のことは気にしないで」と、伝えたいからだった。
母と二人で十分幸せだから。寂しくなんてないよ。だから、心配しないで。
そんな風に、伝えたいだけだった。
「華に話そうか、ずっと迷ってたの……でも、華にとって家族が増えることが負担なら、無理強いなんてしたくないから……」
ただの結婚じゃない。お互い再婚。そして、娘と息子。
きょうだいなんていらない。そう言った私の元に、先輩は現れた。
「一太くんと一緒に住んで、華が嫌なら……全部、やめようと思ってた。だって私たち、二人でも、楽しいもんね」
母の声が潤む。
目頭が熱くなって、視界がぼやけて、息が詰まった。
私はずっと、無償の愛を受け取っていたのだと。感じずにはいられなかった。
「……お母さんと二人でも、楽しいけど、」
言葉がつっかえる。うまく話せなくてもどかしい。
「四人だったら、倍だもん。もっと楽しいよ」
嘘じゃない。気遣いでもない。本当にそう思う。
お母さんの幸せは、私の幸せだ。そしてきっと先輩も、お父さんが幸せだったら、幸せなんだ。
「華……」
ああ、ほら、お母さんの涙腺が限界だ。どうするの、今から仕事なのに。
でも私もそろそろ、泣きすぎて頭が痛いや。
「華、ありがとう」
心の底から安堵したような声色に、うん、とぐずぐずな返事をする。
それから母は何度も「ありがとう」と繰り返して、私も笑いながら頷いて、通話を終えた。
急に静かになった空間。タイミング良く、ぐうう、と腹の虫が鳴った。
「お前の腹、正直だなあ」
先輩が笑う。飾っていない、無防備な笑い方。
恥ずかしいはずなのに、つられて思い切り吹き出してしまった。
二人でけらけらと笑い転げて、疲れた頃にようやく先輩が立ち上がる。
「何か食うか。何がいい?」
きっとコンビニ飯だろう。私は数か月前に思いを馳せて、彼を見上げた。
「私はミートソーススパゲティで、先輩はカツ丼です」
二人で一番最初に食べたもの。
先輩は悪戯っ子のように目を細めて、任せろと言わんばかりに部屋を出て行った。




