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「先輩の、バカ」

 


 星なんて、もうどうでも良かった。


 チョコの家は公園から程近く、三人でそこまで歩いた。



「あ、じゃあ私、ここなんで」



 彼女が立ち止まり、小声で告げる。

 ずっと俯きながら歩いていた私は、反応が遅れて数歩先を行ってしまった。



「華」



 気遣わしげなトーンに呼ばれてゆっくり顔を上げると、チョコは努めて穏やかに言う。



「大丈夫だよ。……何も分かんない私が言うのも、無責任かもしれないけど」



 首を振った。ううん、と発した自分の声は掠れていて、彼女にきちんと届いていたかは定かでない。



「ありがとう」


「うん。おやすみ」



 彼女が家に入ったのをぼうっと眺めていると、頭上から「行こうか」と声が降ってくる。

 私はそれに頷いて、緩慢にまた足を動かした。


 タカナシ先輩は道中何も喋らず、ただ私に歩幅を合わせてくれた。今は人の優しさが特に沁みる。泣きそうになって、でも私が泣くのは絶対に違うから堪えた。


 その日の夜道はすごく明るくて。どうしてだろうと思うより先に、空をしきりに走っていく星々のせいだと気が付く。



「すみません。わざわざ、ありがとうございました」



 マンションの前まで辿り着いたところで、タカナシ先輩に頭を下げる。

 うん、も何も言わない彼。背の向け方に困った。



「山田さん」


「はい」



 タカナシ先輩は既に普段のポーカーフェイスに戻っていたけれど、どことなく硬い雰囲気だ。その唇が動くのを、空っぽの頭で見守る。



「今は、お互い距離を置いた方がいいと思う」


「……え?」


「一太のことはしばらく、そっとしておいて欲しい」



 彼から放たれた言葉があまりにも予想外で、ろくに返事もできなかった。

 立ち尽くす私に、タカナシ先輩は目を伏せて「じゃあ」と踵を返す。



「待って……下さい。鈴木先輩に何か言われたんですか? どうしてそんなこと……」



 自分の声は酷く覚束ない。

 みっともなく追い縋ると、彼は立ち止まり、静かに拒絶した。



「……ごめん。俺からは、何も言えない」



 それが本当に最後だった。歩き出した彼は、私の追及から逃れたいようにも見えてしまう。


 湿った風が肌を撫で、ようやく私もマンションへ向かった。


 恐々と玄関ドアを開けたものの、彼はもう自室に閉じこもっていた。きっと今夜は出てこないだろう。諦めて私も寝ることにする。


 明日の朝、どんな顔して会えばいいんだろう――そんな悩みは、杞憂に終わった。


 翌日、鈴木先輩は忽然と姿を消してしまったのだ。





 ***





 何だかんだ疲れていたようで、ベッドに横たわった途端、眠気に襲われた。

 目を開けば、カーテンから光が漏れている。時刻は七時を少し過ぎたところだ。


 せめて平日だったら間がもったかもしれないのに、生憎今日は日曜日である。寝ても覚めても気まずさは拭えるわけがなく、仕方なしに部屋を出ることにした。

 彼はまだ起きていないのだろうか。リビングに姿は見当たらなくて、ほっとした。


 起き上がっていつものように支度を終えてから、違和感を覚える。何が、と問われても明確には答えられないけれど、強いて言うなら――


 朝食の準備を始めようとキッチンに立ったところで、カウンター越しにダイニングテーブルが目に入った。その上に覚えのない紙切れが置かれている。


 瞬間、物凄い速さで心臓が音を立て、気が急く。

 慌ててその紙を手に取れば、鈴木先輩の角ばった文字がやや荒々しく並んでいた。



『華へ


 昨日は悪かった。お前の気持ちを考えずに投げ出したことは、謝っても許されないと思ってる。本当にすまない。


 俺はここを出る。今の華にとって、俺と一緒にいるのは最善じゃない。


 華はこのまま母さんが帰って来るまで住んでもらって構わない。お前のことは隣の伊集院さんにも話してあるから、何か困ったら頼るといい。金銭面も心配するな。』



 読んでいる最中、呼吸をしていなかったと思う。最後の行まで目を通した刹那、苦しくて、鼻の奥がつんとした。


 ああ――私、本当にとんでもない間違え方をしてしまった。


 たった一言の重みをこんなに実感したのは、初めてだ。


 だって、分かっていたじゃない。別段安定しているわけでもない、奇妙な関係の私たちがこれまで一緒に暮らすことができていたのは、お互いが「好き」という感情を抱かなかったからだ。


 最初に決めた同居のルールなんて比じゃない。私はタブーを犯した。一番のルール違反者は私じゃないか――。


 猛烈な後悔と自己嫌悪に苛まれながら、先輩が残していった手紙の文字を指でなぞる。


 ふらふらと吸い込まれるようにテーブルを離れて、彼の部屋のドアを開けた。当然、誰もいない。それでも部屋の中はほとんど変わりなかった。彼は今ちょっと出かけているだけで、またここに戻ってくるのではないか。そう思ってしまうほど。


 そこに足を踏み入れる。私はまた一つ、タブーを犯そうとしていた。



『一つ。お互いの部屋には立ち入らないこと』



 無効だ、そんなもの。もう先輩は帰ってこないし、同居生活は終わり。今日からは私一人で過ごさなければならない。

 でも、それより何より、先輩との最後の会話があんな内容だったのがやるせなかった。


 本棚に整然と詰め込まれた背表紙を一つひとつ、目で辿っていく。彼が優秀なのは知っていたけれど、こうして見てみると一層それが浮き彫りになった。

 小説というよりかは学術書や専門書が多く、それも英語で著された本が目立つ。


 デスクの上には使い込まれた地図帳が、開きっぱなしの状態で鎮座していた。



「マンハッタン……」



 ページはちょうど、アメリカのニューヨーク市のところだ。ぐるぐると赤ペンで印をつけられているのは、マンハッタン。母が今いるはずの地区だった。


 彼が英語に熱心なのと、何か関係があるのだろうか。考えても最適解は出ない。


 ふと視線を逸らした先に、一つの箱を見つける。

 本棚のすぐそば。蓋をして隠すようにしまわれたそれに、自然と手が伸びた。


 本を入れるにしては縦横の幅が大きすぎる。持ち上げてみても中で何かが擦れる音はすれど、重さはほとんどなかった。



「え、これ……」



 蓋を開けてから、息を呑む。


 中に入っていたのは、私が毎日紙飛行機を折っては飛ばしていたメモだった。それが一枚ずつ全て折り目を広げられ、ただの紙となって箱にしまわれている。


 とっくに捨てられているものだと思っていた。ガキくさいと呆れられ、そこら辺にほっぽってあるのだとばかり。



「何で……」



 全部、ちゃんと読んでいたんだ、先輩は。


 一番最初に紙飛行機を折った日。覚えている。

 その日の夕飯はカレーだった。声を掛けても反応してくれなくて、メモに走り書きをして。そしてそれを、飛行機にした。



『にんじんたっぷり特製カレー、できました』



 幾重もメモが積み重ねられた箱の中の、一番下。一機目の飛行機を広げた中に書いた言葉。

 わざわざ広げて読んでいるとは思わなかった。読まれていないと思って、私は毎日好き勝手に綴っていたのに。



『いつもお弁当全部食べてくれて、ありがとうございます』


『今度映画を観る時は、寝ないように気をつけますね』



 その日に直接言えなかったこと、面と向かって伝えるには気恥ずかしいこと。

 紙の上にこっそり記したメッセージは、最初から昨日に至るまで、一枚残らず丁寧に保管されていた。


 やっぱり、先輩は、全然意味の分からない人だ。

 横暴で気持ち悪いと思った矢先に、変な優しさを剛速球で投げてくる。



『でも一太にとって山田さんがすごく大事っていうのは、分かった』



 大事にされていた。間違いなく、そう思う。今ちゃんと分かった。


 箱を元通りにして、部屋から出る。呑気に朝食を食べる気分になんてなれず、一人ソファに沈んだ。


 もう、先輩には、会えないのだろうか。このまま母が帰国して、また何事もなかったように私は暮らしていくんだろうか。彼は一体、この先どうするのだろう。


 学校が同じというのがせめてもの救いだけれど、家出するくらいだ。会いに行ったところで、今までのように接してくれるかは分からない。そしてその学校も、あと一週間ほどで夏休みだ。



『今は、お互い距離を置いた方がいいと思う。一太のことはしばらく、そっとしておいて欲しい』



 しばらくって、いつまで? その後は私、どうしたらいいの?

 湧き出てくる疑問。答えてくれる人がいないのは明白だったから、口には出さなかった。





 ***





 先輩がいなくなって、三日が経った。

 変わったことといえば、家事の時間が短くなったことだろうか。


 隣の伊集院さんは、毎日必ず一回は私の様子を見に来てくれる。昨日は肉じゃがを持ってきてくれた。


 学校から帰ってきてすぐにテレビの電源を入れ、リビングに立ち尽くす。なんとはなしに家の中を見回して、広いな、と思った。

 広い。この家は、こんなに広かっただろうか――いやきっと、一人分の体積が減ったからそう感じるのだ。


 まあでも、いざ一人になってみると、結構気楽だ。

 リビングで着替えたって平気だし、ご飯は自分しか食べないから適当でいいし、お風呂もシャワーで済ませれば掃除が楽だし。テレビを見て夜更かししても、ソファで寝てしまっても、誰も文句を言わない。


 その日もキッチンにちゃんと立つ気力がなくて、伊集院さんに分けてもらったおかずと、冷凍保存しておいたご飯をレンジで温めた。もそもそと黙って口に運びながら、テレビを眺める。



『じゃあ、もういらないな』


『……何で消すんですか』


『今は俺がいるんだから、必要ないだろ』



 必要なんですよ。だって先輩、普通にいなくなるじゃないですか。だから私、こうしてテレビ見てるんじゃないですか。



『お前はもう静かな家に帰ることはないし、テレビで気を紛らわす必要もない』



 嘘つき。

 私、今日帰ってきた時ちゃんと「ただいま」って言ったのに。めちゃくちゃ家の中静かだったんですけど。



『お前はもう、一人じゃない』



 本当に、嘘つきだ。


 適当に惰性で温めたご飯なんて、全然美味しくない。一人で食べるご飯なんて、全然つまらない。


 咀嚼して飲み込もうとしたけれど、喉の奥から熱いものがせり上がってくる。



「先輩の、バカ」



 もう、気まずくても何でもいいから、せめて出て行くことはしないで欲しかった。そんなことはいっても、私のせいだからどうしようもない。


 俯いた先にあるタッパーのご飯の中に、水滴が落ちる。それを自覚すると、もう我慢できなかった。


 堪らず箸を置いて、立ち上がる。ご飯は喉を通りそうにない。

 シャワーを浴びて気分を変えようと、頭を振った。


 寂しい、なんて、思いたくない。思う資格もない。

 悔しかった。先輩はいい加減な生活を送っていて、私がいなきゃ死ぬかもしれないくせに、あっさり出て行くから。


 私がいなきゃ駄目。全然、全く、そんなことなかった。

 今だって、きっとこの先だって、先輩は私がいなくても平気で暮らしていけるんだ。


 何それ。半ば怒りにも似た感情が、渦を巻く。

 駄目なのは私の方じゃんか。平気じゃないのは、苦しいのは、私じゃんか。


 冷たいシャワーで余計な思考を削ぎ落して、早々にあがってソファに寝っ転がる。

 もういっそ、このまま朝が来なければいいと思った。





 ***





「華、大丈夫? 顔色悪いよ」



 チョコが言いつつ私の顔を覗き込んでくる。

 頷こうとして、やっぱりかなりしんどくて、力なく首を振った。



「保健室行こうよ。熱あるんじゃない?」


「分かんない、けど……早く帰って、寝たい」



 今日は夏休み前最後の登校日だった。


 昨日の夜からなんとなく体が怠いなと感じていたけれど、どうやら風邪を引いてしまったようだ。確かに数日前、シャワーを浴びてからソファでそのまま朝まで寝てしまったことを思い出した。


 保健室に行ったところで、結局最後は自力で帰らなければいけない。だったら最初から自分の部屋のベッドで横になりたかった。


 チョコは私の駄々を耳に入れると、「じゃあ私が家まで送ってくよ」と申し出る。



「なんか華、ふらふらしてるし。一人で帰すの危なっかしいから」


「いや、でも……」


「病人は黙って言うこと聞いてればよろしい!」



 彼女の覇気に押され、結局マンションまで付き添ってもらうことになった。

 チョコは私がベッドに潜り込むのを見届け、立ち上がる。



「華~、なんか食べたいものある? 買ってこようか?」


「ううん、いい……大丈夫……」



 食欲がない。とりあえず今は何も考えずに寝ていたい。


 掠れた声で返答した私に、チョコは眉根を寄せた。



「じゃあせめて何か飲んだ方がいいよ。とりあえず水持ってくるね」


「……ありがとう」



 部屋のドアを開けたままにして、チョコがつと振り返る。



「あ、ごめん。その前にちょっとトイレ借りていい?」



 声を出さずに彼女の問いに頷いた。

 ありがとー、と部屋を出て行くその背中をぼんやり見つめる。


 チョコが手を掛けたのは、私の部屋の真ん前。トイレはそこじゃないよ、隣。まともに回らない頭でそんなことを思った。

 本格的に意識が覚醒したのは、彼女がそのドアをすっかり開けてしまってからだ。



「待って、チョコ、そこは――」


『立ち入り禁止だ。絶対に開けるな』



 開け放たれたその先は、至って普通の部屋だった。書斎として機能していたのだろうか。とにかく本が詰まれている。



「あれ、ごめん! ここじゃなかったっけ。こっち?」



 一人で解決したらしい彼女に、返事をする余裕はなかった。

 倦怠感も何もかも消え失せ、ただただ自分の心音が内側で響いている。



「華?」



 見てはいけない。入ってはいけない。駄目と言われたんだから、守らなくてはいけない。

 分かっているのに、確かめずにはいられなかった。


 おもむろに立ち上がった私を、チョコが戸惑ったように咎める。



「ちょ、ちょっと。どうしたの?」



 自分の部屋を出て、真正面の聖域を眺めた。


 ゆっくり足を踏み入れ、左右を見回す。どことなく既視感を覚え、その理由はすぐに見つかった。



「お母さんの部屋にそっくり……」



 本がぎっちりと本棚に収まっているのもそう。ラインナップが洋書ばかりなのもそう。海外を舞台に働く人を彷彿とさせる、部屋の空気。


 奥のデスクはきちんと整理がされていて、一冊の本が置かれているだけだった。その表紙に書かれている文字を目でなぞり、息が止まる。



『lonely lovers』



 何で。どうして。なぜこの本がここにあるのか。

 今は私が持っている、母の部屋にあった少し古い洋書。それよりは幾ばくか綺麗な装丁が、この本に対する持ち主の想いを物語っていた。


 手に取ったのは無意識で。表紙を開いた瞬間、私は目を見張った。



「……なん、で」



 最初のページに挟まれていた、一枚の写真。そこには見知らぬ青年が写っている。そして彼の隣、笑顔で佇んでいるのは――



「お母さん……?」



 髪色は今と比べて僅かに明るく、印象が異なって見えた。


 数年ほど前の写真だろうか。

 一体、いつのものなのか。隣の青年は誰なのか。分からないことだらけだ。こんな写真は初めて見た。


 どういうことなの。どうしてお母さんの写真がこの家にあるの。なんで。どうして。



「華! ねえ、大丈夫? 横になった方がいいよ」



 後ろから肩を掴まれ、我に返る。


 ごめん、と振り返ろうとした刹那、脳がぐらりと揺れて、目の前が霞んだ。視界が暗くなり、堪らずしゃがみ込む。



「華!?」



 大丈夫、ただの立ち眩みだから。伝えようとした言葉は声にならず、喉の奥で潰れた。


 暑い。だるい。苦しい。

 数分前まで忘れていた感覚が、一気に押し寄せてくる。投げやりに目を閉じると、そのまま思考が闇に沈んだ。

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