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「……ペナルティは何ですか」

 


「なーに、そんな暗い顔して。さては鈴木先輩と喧嘩でもした?」



 月曜日も変わらず、雨が降り続いていた。


 チョコの指摘の通り、自分があまりいい顔をしていない自覚はある。しかしそれは天候のせいではない。



「あれ、図星? ……もしかして、聞いちゃいけない感じだった?」



 黙ってクリームパンを齧った私に、彼女は頬を引きつらせた。



『……お前が本当に望むなら、俺はいくらだってそうする』



 昨日は散々だった。

 朝に先輩と言い合ってしまったから、昼も夜も空気は最悪で、もちろん今朝も最悪だ。かろうじて朝食は作ったけれど、お弁当を用意する気力はなかった。



「……別に。そういうわけじゃないよ」


「そう? 今度は何が原因で喧嘩したの」



 喧嘩。これは喧嘩なんだろうか? そんな単純なものではない気がする。

 むしろ私が一方的に言い募った形になってしまったし、いやでも、それは先輩が妙なことを言うからだ。



『ちょっと、すぐには決められないです。……確認したいことがあるので』



 確認したいことって、何だろう。

 そもそも先輩は、私と暮らすのが嫌なんだろうか。だから色々言ってきたとか?



「なんていうか……先輩が秘密主義すぎるっていうか」



 思い返せば、最初からそうだった。

 先輩に彼自身のことを聞いてもふらふらとかわされることが多かったし、曖昧な回答しかもらえない。


 それなのに、向こうは私のことを多分色々知っている。私の知らないところで、母と知らないことを話している。


 不安になってしまうのだ。知らない、ということは、それだけで心に余裕がなくなってしまう。



「秘密主義? まあそりゃ、エロ本の一つや二つ、隠してるでしょ」


「エっ、……ロ本って」



 予期せぬ爆弾投下に、分かりやすく動揺してしまった。

 数秒遅れてチョコを軽く睨むと、「ごめんごめん」と全く気持ちのこもっていない謝罪が返ってくる。



「何? 華、先輩の部屋に入ったとか?」


「入ってないよ。お互いの部屋は立ち入り禁止だから」



 こんな話をして、この後どんな顔で家に帰ればいいんだ一体。ただでさえスーパー気まずいのに。



「まあ確かに、鈴木先輩って掴みどころないかも。何考えてるのか分からないし、私はちょっと苦手かなー」



 さらりと述べられたチョコの言葉に、私は「えっ」と思わず声を上げる。



「チョコ、鈴木先輩のこと苦手なの?」


「苦手っていうか、タカナシ先輩と比べるとっていう話~」


「へえ……私はタカナシ先輩の方がよく分かんないけど」



 あの人は何にも考えてないよ、というチョコの失礼極まりない発言に苦笑しつつ、適当に頷いておいた。







 ああ、本当に憂鬱だ。

 とうとう辿り着いてしまったマンションを前にして、気分は急降下である。


 放課後、先輩と同じ電車で鉢合わせることのないよう、いつもより二本遅い便に乗った。それに加えスーパーにも寄って、時間をかけて買い物を済ませた。


 とはいえ、いつまでも帰らないわけにはいかない。仕方なく重たい足を動かし、エレベーターに乗り込む。



「あら。ハナちゃん?」



 背後から聞こえた声に振り返ると、一人の女性がこちらを見つめていた。私は会釈をして、緩く笑いかける。



「伊集院さん、こんばんは」


「こんばんは。いま学校の帰りかしら?」


「ああ……そうなんです。買い物していたら少し遅くなって」


「そうなの」



 偉いわねえ、と彼女が口元に手を当て微笑んだ。

 二人分の体重を預かったエレベーターが動き出して、完全な密室に戸惑う。


 お隣の伊集院さん。何度かマンションですれ違って挨拶はしたことがあるけれど、特別よく話したことはない。

 そんな人と二人きりになってしまって、正直居心地は良いと言えなかった。



「ここのところ、じめじめしててほんとに嫌になっちゃうわよねえ。洗濯物も乾かないし」


「はは……そうですね」



 沈黙。せっかく向こうから会話を振ってくれたのに、速攻で終わらせてしまった。

 何か話さないと、と思考を巡らせる。



『最近お父さん見かけないけど……元気?』



 不意に以前の伊集院さんの言葉を思い出し、心臓の奥がぞわりと震えた。

 そうだ。今が聞くチャンスなんじゃないか。鈴木先輩のことを、何か少しでも。



「伊集院さん、あの……」



 聞くって、何を。何から聞けばいい。彼は知られることを嫌がっていたんじゃなかったの。


 ぽん、と到着音が鳴り、ドアが開く。



「ん? 何か言った?」



 顔だけ振り返った伊集院さんに、私は静かに首を振った。



「いえ……何でもないです」



 私の意気地なし。

 胸中で自身に悪態をつきながら、エレベーターを降りる。


 伊集院さんが「じゃあね」と玄関ドアに入っていくのを見届けて、私は気合を入れ直した。


 三○五。一応鍵を差し込んで、回してみる。……勿論開いていた。

 恐る恐るドアを引いて細く開いた隙間から中を覗いてみたけれど、気配はない。自室にこもっていてくれる分には、こちらも動きやすくて助かる。


 音を立てないように、慎重に。こそこそとドアを閉めて靴を脱ぐ。

 廊下を真っ直ぐ歩いていき、キッチンに差し掛かろうといった時だった。



「こんな時間までどこ行ってた!」


「ひっ」



 背後から鋭い怒鳴り声を浴びせられ、冗談抜きに飛び上がる。危うく袋を落として卵を駄目にするところだった。


 僅かに振り返って声の主を目視し、かち合った視線に再び竦む。

 先輩は腕を組み、仁王立ちで私を睨めつけていた。



「いま何時だと思ってる。門限とっくに過ぎてるぞ」


「まだ十七時ですし、門限あったの初耳ですが」



 どうやら本気の喝ではなく、茶番の一環だったらしい。

 昨日や今朝とは打って変わって通常運転の彼に、こちらが困惑した。



「あっ。先輩、またトイレの電気つけっぱなしです」


「いま消すところだ」


「絶対嘘ですよね。こないだもそう言って消してなかったですよ」



 違う。言いたいのはそんなことじゃない。

 心の内とは裏腹、口からはどうでもいい小言が次から次へと出てくる。


 まるで、なかったことになってしまったみたいだ。

 帰ってからも気まずいままだったら、もう一度きちんと話して、先輩のことも色々聞こうと思っていたのに。

 先輩は、触れることすら許してくれない。



「華。それよりお前、ルールを破ったな」


「はい?」


「いま入ってくる時、何か言うことがあったんじゃないのか」



 言うこと、とは。

 眉をひそめる私に、先輩は依然として険しい表情のままだ。


 まさか、ここにきて腹を割って話す気になってくれたのだろうか。昨日はごめんなさい、だとか、そういう謝罪の文言を望んでいるということか。



「……先輩、」


「『ただいま』を言ってないだろ」



 想定外の指摘に、数秒思考が止まる。



「ルール違反だぞ。いつもはっきり言わないのは大目に見てたけどな、今日は確実に黙って入ってきてた」



 それは私だけじゃなくて、先輩にも非があると思うんですが。

 しかしそれを言ってしまうと面倒なことになるのは目に見えていたので、渋々妥協する。



「……ペナルティは何ですか」


「ゲームに付き合え。一位になるまで寝れま10を開催する」


「うえっ、徹夜させる気ですか!? 私ゲーム苦手って言いましたよね!?」


「だからだろ」



 なんて無慈悲な。普通にゲームをするだけでも一苦労なのに、そのうえ一位だなんて絶対に無理だ。


 結局その夜は、私のあまりの悲惨さに提案者の先輩が疲弊するほど、同じコースを何度もリトライすることになった。





 ***





「ご飯にする? お風呂にする? それとも、い・ち・た?」



 開けてびっくり玉手箱――否、いま私が開けたのは玄関のドアのはずだ。

 帰宅してすぐ、目の前に飛び込んできたのは、普段私が使っているエプロンを着用した鈴木先輩の姿だった。


 突然のことに状況把握が追いつかなかったものの、努めて冷静に問う。



「どうしたんですか、そんな気持ち悪い格好で」


「新婚の練習だ」


「タカナシ先輩との予行演習を私でしないで下さい」



 オブラートに包む余裕がないくらいには動揺した。

 エプロンを着けるのはまあいいとして、体をくねらせながら言わないで欲しい。切実に不快だ。



「タカナシじゃない。俺と華のに決まってるだろう」


「どうでもいいですけど、ご飯もお風呂も用意するの私ですよ」



 一体何なんだ。茶番にしては酷すぎる。


 しっしっ、と立ちはだかる不審者を手で払い除け、荷物を置きに自分の部屋へ向かう。なぜかぴったり後ろをついてくる彼に、訝しみながらも声を掛けた。



「何ですか。ドア閉められないので退いて下さい」


「着替え、手伝ってやろうか」


「はあっ!?」



 何言ってんだこの人は!?

 突如変態と化した同居人に、遠慮する余裕もなく声を上げる。



「先輩、熱でもあります? いつにも増して気持ち悪いんですけど」


「無礼な。俺は健康だ」



 だって、あまりにも様子がおかしい。

 最初に会った時こそ変態チックな発言がみられたものの、それ以降は比較的健全だっと思う。冗談でからかわれることはあっても、むしろタカナシ先輩を巻き込んだ茶番であることの方が多かった。


 だからこそ今まで安心して暮らせていたのだ。



「冗談にしてはタチ悪すぎですよ。万が一変な事したら、すぐ出て行きますから」



 よく分からないけれど、「家出」をほのめかして対抗する。

 そういえば、最初の頃はすぐ通報だの何だの、好き勝手騒いでいたことを思い出した。


 先輩は恐らく、私の家出に一番弱い。きっと今回も血相を変えて謝ってくれるだろうと、期待している自分がいた。



「……先輩?」



 何で、何も言わないの。

 静かに私の顔を見つめて黙り込む彼に、息が詰まる。



『頼む。俺と暮らしてくれないか』



 あの日、あんなに必死だったくせに。嫌がる私に土下座してまで頼み込んだくせに。

 どうして、引き留めてくれないの。



「……早く着替えてこい」



 端的に言い残した先輩は、今度は振り返ることもなく、リビングに消えた。





 ***





 あれからどうにも、先輩がおかしい。

 変態ぶりに拍車がかかったというか、本来なら恋人のタカナシ先輩に言うべきであろうセリフを、容易く私に放り投げてくる。



「今日はカレーか」



 夕飯の支度をしていると、珍しく先輩がキッチンのカウンター越しに顔を出した。

 はい、と頷いてから、炊飯器の蓋を開ける。



「もうお腹空きました? 今できるので座ってて下さい」



 皿にご飯を盛り付けようとしたところで、先輩が「いや、」と思案顔で首を振った。



「俺はカレーが食べたいんじゃない。華が食べたいんだ」


「ああ、こんないいところに包丁が」



 本日の主役、にんじんたちを切り終えた刃を握った私に、彼が後ずさる。



「華……それがお前の愛情表現なんだな」


「何なんですか。ほんとに刺しますよ」



 恋だの愛だの、そんなものが絡んだら男女の同居生活なんて成り立たない。

 今更急に、どうして。そう考えるうち、一つの結論が自分の中で導き出されようとしていた。







「鈴木先輩が華に嫌われようとしてる?」



 例によって、昼休みの教室。

 ここ数日考えていたことをチョコに打ち明けると、彼女は目を瞬かせた。



「そりゃまた、どうしてそんなことに」


「私もよく分かんないけど……何か先輩、私の嫌がることばっかり言ってる気がする」


「せっかく仲直りしたと思えばこの有り様ですかー。骨が折れますなあ」



 その仲直りというのも、実際微妙だ。特に何か線引きがあったわけでもなく、なあなあになってしまっている。



「嫌がることって、例えば?」



 チョコに促され、あまり人に言う内容でもなかったけれど、渋々口を開く。



「……着替え手伝ってやるとか、ご飯じゃなくて私を食べたい、とか……」


「えーッ、結構キモ……っていうか際どいけど、大丈夫そ?」



 いま絶対キモイって言いかけた。普段あんなにかっこいいって持ち上げてたのに。


 まあでも、私だってことあるごとに「気持ち悪い」とはっきり先輩に伝えてはいる。それにも関わらずやめないということは、最早嫌がらせなんじゃないだろうか、と思い始めたのだ。



「慣れてるからまあいいんだけど、」


「いいんだ」



 問題はそこじゃない。



「私、先輩に嫌われるようなことしたかなと思って……」



 一番の懸念点はやはりそこだった。

 比較的正直に物事を述べそうな先輩が、言葉にせず遠回しに態度で訴えかけてくるほど、私は彼に何かしてしまっただろうかと。



「それさ、単に鈴木先輩が華のこと好きっていう可能性はないの?」


「いや、ないでしょ。だって、私が一番嫌いなタイプ――」


「あー、自意識過剰な人は論外、だっけ」



 彼女の言葉に深く頷く。

 チョコとタカナシ先輩が家に来た際、私が言ったことだ。それを鈴木先輩だって側で聞いていただろうし、もし仮に私を好きだとして、わざわざ私の嫌いなタイプを演じる理由が分からない。


 そうなるとますます、先輩は私に嫌われようとしているのだと思えてならなかった。



「うーん。確かに……でも急だよねえ」



 チョコが腕を組んで宙を見つめる。


 急ではあった。でも、心当たりがないわけでもない。



『お母さんがアメリカから帰ってきたら、先輩も一緒に三人で暮らせばいいんじゃない?』



 私の発言から、明らかに先輩も母も様子が変わった。

 だからといってその理由までは分からないし、結局、本人に聞くしかないのだと思う。頑なに口を割ってくれないけれど。



「ところで華」



 一人俯いて考えを巡らせていると、チョコが声色を変えた。それが話題の切り替えだと分かったので、私は素直に顔を上げる。



「もうすぐ期末テストだけど、進捗は?」


「あ」


「忘れてたって顔してますなあ」



 気を抜いた途端、箸からミニトマトがぽろりと滑り落ちた。慌ててその行き先を確認すると、ちょうどお弁当箱の中に着地するところだ。

 ほっと胸を撫で下ろして、いやいやそれよりも、と頭を振る。



「今テストなんてしてる場合じゃないのに……」



 色々懸念事項が重なって、パンクしてしまいそうだ。


 ため息交じりに呟けば、チョコが「ちょっと」と咎めてくる。



「夏休みまでには関係修復しといてよー。遊びに行っても気まずいじゃない」



 遊びに来る前提なのが絶妙に図々しいけれど、確かに彼女の言う通りだ。

 テストが終われば夏休み。家にいる時間も必然的に増え、今のままだと休暇を満喫できそうにない。



「海行きたいしー、バーベキューもしたいしー、花火も見に行きたいしー」



 指折り願望を口にする友人を眺め、苦笑しつつ聞き流す。

 タイムリミットは案外、すぐそこだ。



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