第42話 色褪せぬ想い
彼女を見た時、周りの全ての音が消えた。
白い素肌に纏われた血のように赤い朱色の衣裳は太陽の光と吸収しては輝き、影を吸ってはまるで生きているように色が変わっていく。軽やかなステップを踏むたび、夜のように深い色の黒髪が揺れ、金色の髪飾りもまたさらさらと涼やかな音を鳴らして踊りだす。
くるりと振り返り、黒曜石の瞳がこちらをとらえた瞬間、私の心を何かが貫いた。
深い心の奥に突き刺さった棘の痛みは、甘くしびれ、しばらく消えることはなく…もう二度と治らないとさえ思った。
だが、彼女と交流を重ねるたびにその痛みが和らいで…やがてそれが『恋』だと知った。
――少しだけ湿り気を含んだ風が、窓の隙間から流れ込んできた。
古びた木片のようなアガー・ウッドの香りは、このキアルーンにしかない独特の香りだろう。
「……さて、どこから話そうか」
テーブルの上には、リア―ネが好きだったパン・デビスと、好きだったお茶が並べられていた。
キアルーン地方はアズレアと違って白い陶器の茶器ではなく、すべらかな質感の磁器が多い。今回シャルが持ってきたのは、赤い小さな花の模様が書かれたもので、今日の市場巡りで見つけた一点ものらしい。
(なんとも、この子らしいデザインだ)
「じゃあ、お父様はどこでお母様と出会ったの?…やっぱりキアルーン?」
「そうだな。丁度…この秋霖に大きな広場があるだろう?そこで催しがあって…あれは、丁度雨が降り出しそうな天気だったが、彼女が舞台に出た瞬間、空が晴れたのをよく覚えている」
「へえ…」
「あの頃は…丁度先代から続いていた染織事業に陰りが差した辺り。」
没落か、ヴァラモの家門に降るか。どちらか一つ…それほどまでに追い詰められていた。
「ヴァラモ公爵家が王家との取引を独占し、ルドヴィガと懇意にしていた商会も染織事業から引き揚げ……ルドヴィガ家を受け継いだばかりからの私からすれば、打つ手なし、の状況だった」
「その時…ヴァラモ公爵家から、支援と持参金を盾に縁談を持ち込まれたんですよね」
「ああ」
(忘れもしない。ロザベーリ・ヴァラモ…彼女は、全身赤いドレスを身に纏い、高級なアクセサリをふんだんにつけてやってきた)
勝利を確信したかのような挑戦的な笑みを向けられたとき、嫌悪以外の感情が浮かばなかった。
ヴァラモ公爵家は、まるでアクセサリーのコレクションを欲しがるように、歴史の古いルドヴィガの『血統』を求めてきた。…それゆえ、昔から我が家門とは折り合いが悪い。
「最終的には、ヴァラモの支援に頼らざるを得なかった。だが、シャル…お前も知っての通り、私とあの女は分かり合えなかった」
「……はい、わかっています。お父様」
「うまくいかないことは多いと、人はくじけてしまう。…私のように。だが、その時助けてくれたのが、カシオスの父…クロム=セレストだ」
「助けてくれた…?」
「クロムとは昔ながらの友人だ。彼が病床の折、ルドヴィガ家にキアルーンと国交の活性化を任せてくれたんだ」
当時、キアルーン地方…この鸞坐王国は、今ほど豊かではなかった。
大きな壁のような山と、遠くにある砂漠の砂塵と海に面した特殊な環境のこの地方では、主たる産業がなかった。
「特殊な環境故、香木や不思議な色を作り出す染織材料となる花や植物が良く育つ。ヴァラモの独占を嫌った数名の職人たちをこちらに派遣し、その技術を広げることができた。…今でも、クロムとルドヴィガ感謝を示すキアルーンの民は多い。私も、クロムには一生頭が上がらないな」
「……そうだったんですね。だから、あの方を…」
「……シャル」
「?」
「いや…少し話がそれたな」
シャルは、カシオスの事をまだ名前で呼ばない。
その理由を聞くべきではないが…それを知ったらカシオスは多少落ち込むだろうが、まあ、めげないだろう。
「私はその舞台が終わった後、楽屋に駆け込んだ。彼女が着ていたあの朱色の衣が目に焼き付いて離れず…何より、彼女をもっと知りたいと思ったから」
(…これは、恥ずかしいから、黙っておくか)
「ちょっと!あんた突然どうしたの、困るよー楽屋まで来たら」
「その…その衣の色は?!」
「…え?衣って…これ、ですか?」
さらりと絹すれの音が鳴り、彼女は自身が被っていたヴェールを外し、見せてくれた。
その時、素顔を間近で見て互いに恋に落ちたのだ。
「…よかったら、そのヴェールお貸しします」
「貸す?」
「ええ。だって私にとっては商売道具だもの。ちゃんと返してください…四日後、またここで踊るから」
後にリア―ネが語ってくれたのは、「明らかに異国の金持ち、みたいな服装なのに…髪の毛がぐちゃぐちゃで、なんだかアンバランスで笑ってしまった。でも、だからまた会いたいと思った」らしい。
「でも、その頃には…もう」
「ああ。どれだけ冷戦だったとはいえ、私には形式上の妻がいた。そこで…これもクロムが言い出したことだが、【王国法第129章4節…後継を生まぬ妻は夫の権限で婚姻を解消できる】法律を作ってしまったんだ。…そして月一度の定期便も開設した」
「え?!!……すごい、定期便まで作って、法律まで…?!王様ってすごいんですね……」
「まあ、クロム自身は慧眼の王だった。……体が丈夫じゃなかっただけだ」
とはいえ…彼が作ったその法案は、皮肉にも血統を重んじる貴族たちの社会に大きな影響をもたらした。妻にとっても、夫にとっても…政略的な婚姻や、政治的婚姻で結ばれた縁は当人たちの意志を置き去りに進められていくものだから。
「なんにせよ…クロムのおかげで、私はその後ルドヴィガを立て直すことに成功できた。そして…リア―ネの持ってきた衣を使い、新しい交易ルートを開設することができたんだ」
「ねえ、どちらから告白されたの?やっぱりお父様?」
「……それは、言わないといけないか」
「当たり前ですっ!大事なところでしょう?」
(大事なのか…)
もうこうなると、全て白状せざるを得ないだろう。
「……実を言うと、私ではない」
「え?」
「当時は月一の定期便でひと月滞在し、その間に大量の物を買い取り貨物船を使って送る…そして。次の月で帰り、またひと月後に現地に赴く…そんな生活をしていた」
「そ、それは、ハードですね」
「だがある時、帰りの船になぜかリア―ネが先に待っていたんだ」
(今日で帰るのに、昨日も今日も会えていない…)
「またしばらく会えなくなるというのに…リア―ネ」
一番初めは一枚のヴェールだった。
その礼にと、持って行ったお菓子のパン・デビスから始まり…彼女と私だけの「借りる・貸す」を口実とした交流が続いていく。
「逢いたい」と口にできぬまま、私は帰る時期となる。アズレアとキアルーンの中間地点は冬になると、海が時化る。
冬の航行は危険を伴う為、来月の便は通常通り航行するかはわからず…もしかしたら次に会えるのは雪が融け、季節も変わったころになるかもしれない。
最後に渡そうと決めていたイヤリングを渡せぬまま、船に乗り込むと…彼女がいた。
「…リア―ネ…?君も、アズレアに行く用事が?」
「あら、奇遇ですね、レイドックさん。…その、ち 知人がしばらく遠くに行くって聞いたものだから」
「知人?」
「ええ。…本当は毎日逢いたいくせに、いつも無理やりな理由をつけて。無理やり約束を取り付けようとする臆病な方がいるんです」
初めは、彼女が誰かに会いに行くものだと、落胆しかけた。
しかし…よくよく考えてみると、その知人というのは…自分でもよく知っている奴の事だったのだ。
「…それって」
「私に直接、逢いたいって…そう言ってくださればいいのに」
そう言って頬を赤く染めてうつむく彼女を見た時、思いがけない言葉が自然と口からこぼれ出た。
「……負担に、なるかと思って」
「え…?」
「あなたは街で人気の踊り子でしょう。私のような異国の人間が、近づいたら…困ることもあるだろう、と」
この頃、いまだキアルーン地方の民衆の外部の人間に対する警戒は解けていなかった。
突然やって来た自分達とは違う人間を、快く思わないのは当然だろう。彼らの生活が脅かされるのではないか、何かが変わってしまうのでは、と…恐れる民も少なくない。
「…そんなの、いいわけよ」
「!」
「…私は、レイドックさんに会えない時は踊っていても、どこか別のところに心があるみたいで…鮮やかな色彩も、どれもくすんで見えてしまった。でも…あなたに逢った瞬間、全てが色を取り戻し、世界が鮮やかに変わっていくの」
「リア―ネ…」
「あなたがいなくなるって聞いて…心も、色も…全部消えてしまいそうで」
その時にはもうすでに、彼女を力いっぱい抱きしめていた。
「私は…リア―ネ、君に出会って、これが恋だと知りました…」
「レイドック…」
「だけど…私には制約がある。だから…ためらってしまった、あなたの言う通り、自分に言訳をしているんです」
答えが、その時は見つからなかった。
ただ、感情と想いだけが先走り、彼女を傷つけてしまうのだけは避けたい、そう思った。
「……これだけ、教えて。私は貴方が好きみたい。あなたは?」
「私は……だが」
「傷つける、なんて恐れないで。負担だなんて思わないで…あなたの心を聞かせて」
「お母さまって…結構白黒はっきりつけたい性格だったのね…?ふふ、お父様が押し負けるなんて!」
シャルが面白そうに笑う。
「押し負けた、と言うか。…自分の心に正直になれたのは、リア―ネが後押ししてくれたからだろうな」
その後は…友人たちの後押しもあり、リア―ネを妻に迎えた。
色々なものを犠牲にしても、それに以上に幸せな記憶は確かにある。だが、最終的に彼女を失ってしまった…後悔は尽きぬし、悔やんでも悔やみきれないことも多い。
しがらみや束縛…伝統や理由、選択。
色々な物が年をかさねるごとに増えていく。人はどうしてもなくしたものの数を数えたがるが、本当は亡くした物よりも新しくもたらされた物の方が多い。
「シャル…これは、父として、と言うよりも…大人としてのアドバイスだ」
「お父様の…アドバイス?」
「自分が選んだ選択に責任を持つこと。重大な選択は、自分に言い訳をせず、内側の心に聞きなさい」
「内側の…心」
「それを選んだあとは、後悔しても、それ以上に大きな見返りが必ずあるから」
「……はい、お父様」
クロムが遺し、この土地に運んだ風のように…私の元に、リッハシャルという娘がやってきたように。




