帰還
(帰るんだ、もとの世界に……)
泣くのを必死でこらえているアンナの手をゆっくりと握る。そこにいることを、確認するように。
すると、アンナが鼻を詰まらせた声で結希に宣言した。
「アンナね、お姉ちゃんみたいな強くて優しいひとになるの!だから、泣かない」
声を張って涙をこらえているアンナの頭をそっとなでる。そんなことを言われては、結希だって泣いてなどいられない。しゃがみ込み、泣き顔の代わりに、笑顔を送った。
「ありがとう。アンナならきっと強くて優しい、素敵な女の子になれるよ。だから、約束ね」
「うん!」
アンナが今日一番の笑顔で答える。
二人でする最後の約束。しかし、それはどこまでも優しいものだった。そのようすを見守るクリメントと目があう。寂しそうな瞳に、心配をかけないようにと微笑んで見せた。
「今まで、お世話になりました。どこの誰かもわからないような私を助けてくれて、美味しいご飯をくれて、本当にありがとうございました」
「……身体、に気をつけて」
小さな声、でも温かさを感じる言葉に結希は頭を下げた。ここまで結希がこれたのは、クリメントのおかげでもある。感謝が伝わるようにと、長く頭を下げた。
最後に向いた先には、銀色の毛並を揺らすキールがいた。
全ては、緑の森と白銀の狼の幻想的な光景に惹かれたところから始まったのだ。
「……」
言いたいことがたくさんあったなずなのに、いざその時がくるとなにを言えばいいのかわからない。あふれるほどの思いをどう言葉にすればいいのかわからなくて、ただ忘れないようにとキールを見つめた。同じく黙り込んでいたキールが先に口を開く。
「まだ、人間のことを完全に信じられるわけじゃない」
「……うん」
飾らない言葉に頷く。キールは嘘をつかない。あれだけ酷い仕打ちを受けてきたのだ。いまさら、すぐに許してもらえるとは思わない。
結希を見ていたキールの目元がふと弛んだ。
「だが、少なくともアンタのことは信じられる」
「……!」
その真直ぐな言葉に目を見開いた。キールの纏う空気がとても柔らかなものになっていることに気付いた。キールは真直ぐな瞳のまま言葉を続ける。
「もっと人間を信じてみたいと思えた。それは他でもないアンタのおかげだ」
「そんなこと……」
「そうなんだ。だから、アンタはもっと自分に自信を持つべきだ」
否定する結希に、キールが強い言葉で言う。諭すようなその響きは、とても優しい。
「自分にとって大事なものは、どれだけ年を重ねようと、誰がなんと言おうと大切なものであることに変わりはない。その気持ちだけは汚されない」
「……」
(自分にとって大切なもの……)
どうせダメだろうと、親に打ち明ける前に諦めてしまった自分の夢。大切な気持ちを傷付けられるのが怖くて諦めてしまったけれど、たしかにそれは今も自分の心のなかにある。キールの言う通り、表に出したところで、自分の思いが変わらない限りは宝物のままだ。しかし、だれかの前に自分の核ともいえる、大切なものをさらすのは酷く勇気のいることだった。あとは、その勇気があるかどうか。
結希の思いを見通しているかのように、キールが言葉を紡いだ。
「人間に敵意むき出しだったオレに、ここまで言わせるアンタだ。大丈夫だ、アンタなら大丈夫」
「――大丈夫」
繰り返される大丈夫という言葉が結希の心に刻まれる。キールに言われると本当に大丈夫なように思えてくるから不思議だ。
いままでずっと霞がかかったようだった気持ちが晴れていく。結希はこの世界にきて一番の笑顔をキールに向けた。
「ありがとう。私、自分を諦めずにもう一度やってみるね!」
力強く言葉にすると、キールはただ頷いた。そんな静かな優しさに、気持ちがあふれそうになる。
「……私、最初はすべてどうでもいいって、いろんなことを諦めてたんだ」
「――ああ」
キールは静かに聞いてくれる。はじめから気づかれていたのかもしれない。キールは驚いたようすもなく結希の話を聞く。
「けどね、この国にきて、それじゃダメだってことがわかった。自分が動かなきゃなにも変わらないんだって。それが自分自身のことなら、なおさら――」
足元に咲く小さな桃色の花が見えた。春の訪れを感じる。
「それに、動いてさえいれば、小さくても変化はあるんだってそう実感できた。実感して、やっぱり私は諦めたくないって思うことができた」
結希は足元から、再びキールに視線を上げる。その目にもう迷いや憂いはなくなっていた。
「私諦めないから」
「ああ」
キールは深くうなずき、満足そうな表情を浮かべた。それを目に、結希は軽やかにまた笑って見せる。
「ありがとう、キール!」
手をふると、キールの口がかすかに動く。
「――またな、結希」
「――!」
めったに呼ばない名前に、結希は嬉しくなってもう一度笑った。
「――では、行くぞ」
様子を見ていた老婆の合図で、霧がかかるようにキール達の姿が見えなくなっていく。




