帰る場所
ーーアンタは帰れ。
「キール?どうして……」
厳しい口調。結希はわからず声をあげる。
「な、なんで?残ったっていいじゃん。エドガルもいいって言っているんだし。
それに、どうせ帰ったって……」
結希のことを見ない母親と、結希だけを執拗に求め続ける颯真の瞳を思い出す。その光景を思い出すだけで全身に鳥肌が立つ。あそこに帰るのは、いまだに怖い。
そんな結希の気持ちを見通しているかのように、諭す口調でキールが続ける。
「……ずっと心に引かかっているのだろう。それをないふりをして、なにもせずに居心地がいいからとこの地に留まれば、後悔することになる。嫌なことから目を背けても、解決しない」
「……そんなこと。そんなことわかってる!!」
急に大声を出す結希に、キールは驚くでもなくただただ静かな瞳で見ている。
これはキールに当たっても仕方ない事だと頭では分かっているのに、口から出る言葉を止められない。
「怖いの!あの場所を考えるとどうしようもなく足がすくんで動けなくなる!
ーー分かってるんだよ、ほんとはこのままじゃいけないなんて事。なんとかしなきゃいけないなんてこと、私にもわかるの。でも!!!」
鼻の奥がツンとする。言葉が詰まってうまく出てこない。惨めな自分に、また嫌気が差した。
「私はそれでも――!!」
結希が反論しようとするのを、キールが絞り出すような声で遮った。
「オレのようにアンタに後悔してほしくないんだ。――結希」
「……―――」
(名前――)
面と向かって初めて呼ばれた気がする。こんな時に名前を呼ぶなんてずるい。
下を向く結希を見て、キールはふと小さく笑って見せた。
「どうせと言うが、アンタはエドガルに言っていただろう。なにかを始めるのに遅すぎるなんてことはないと」
「――!!」
それは紛れもなく、結希が口にした言葉だった。
「あれは、嘘だったのか?」
「……」
それを言われると返す言葉もなくなる。エドガルには諦めるなと言っておいて、自分は諦めるのかとキールは聞いているのだ。随分意地の悪い質問ではないか。なんと意地が悪く、優しい問いなのだろう。
先ほどの言葉は紛れもなく本心から言ったものだった。なにより、エドガルに諦めてほしくなくて。
(――キールも、私に諦めてほしくないの?)
大切だと思っている人だからこそ、幸せになってほしいと思う相手だからこそ、諦めてほしくはない。同じことを、キールが思ってくれているというのなら――。
顔を上げるとキールと目が合う。その目が全てを語っていた。結希は小さく呟く。
「嘘じゃない。嘘なんかじゃないよ」
「――ああ、知っている」
その瞳はどこまでも優しいものだった。
(本当に最初の頃とは大違い)
それでもあと一歩の勇気が出なくて、キールに弱音をこぼす。
「……あの場所には、エドガルやアンナやみんな。キールだって、いないじゃないーー」
「結希」
またも俯く結希のすぐ目の前までキールが近づいて来る。白銀の毛並みに覆われた脚が、涙で霞む視界に映った。
「探すよ、結希」
「ーーえ?」
顔を上げると、いつの間にか晴れていた青空を背に、キールの澄んだ瞳が結希をとらえていた。
「こっちの世界で結希がオレを見つけてくれたように、あちらの世界ではオレが必ず結希を見つけてみせる。結希を、一人にはしない。約束する」
「……キール」
「それに、アンタがオレを変えてくれたんだ。そんなアンタが無理なんてことはない」
随分と優しい顔をするようになったキールに、心にぽっと火が灯る。こんなふうに自分のことを信じてくれる人がいるのなら、こんな自分でも、今度こそは何か変えられるのではないか、そんな気がした。
「わかった、私帰るよ。私の居るべき場所に」
キールの表情が緩む。エドガルも名残惜しそうだが、納得したように頷いた。
「アンナも寂しいけど、我慢する」
今まで黙っていたアンナが声をあげる。足元で、結希を見上げながら、下唇を噛んでいた。目にはうっすらと涙の膜が張っているのが見える。心配させないよう泣くまいと堪えているのだろう。その健気な様子に、笑みが溢れる。膝をつき、しっかりとアンナを抱きしめた。
「ありがとう、アンナ。アンナは本当に優しい子だね」
抱きしめた結希の耳元で、鼻をぐずつかせる音が聞こえた。
「アンナ、えらい?」
「とってもえらいよ」
「……お姉ちゃんも、よく頑張ったから。えらいえらい」
「――!?」
小さな掌が頭をなでる。その温かな体温に、目を瞬かせる。鼻をぐずつかせながらも、結希の頭を撫でる手はとても優しい。
まだ幼いからと油断をしていた。アンナの行動に、結希の方が泣いてしまいそうだった。
「アンナには敵わないなー」
「へへっ」
得意げに声を漏らすアンナに、結希は微笑んだ。本当にたくさんのことをこの世界にきて学び、色々な感情を味わった。中には辛いものもあったけれど、その倍多くの幸せな思いを受け取った。その自覚がある。
心をもらった今の自分なら、自分を変えられる。そう改めて思う。




