二人の背中
「――?」
結希の足を柔らかななにかがかすめる。それは、銀にきらめく、やわらかなキールの尻尾だった。元気をだせとでも言っているように、ポンポンと軽く足にあたる。
「キール」
「……―――」
そっぽをむくキールに頬が弛む。何気ないやさしさが、心に染みて温かかった。
「……わたしも憎しみにかられ、ウヴェーリ全体が悪だと思い込んでいたのかもしれないな」
エドガルが小さくつぶやいた。その声に続くように、兵士や狩人達が次々と剣や弓から手を離す。
「みんな……」
場に渦巻いていた戦意が急速に小さくなっていく。結希はほっと息をついた。
「これで、もう……」
「なにをあんな小娘一人に惑わされている!」
一人剣を手放さず、声を張り上げる男がいた。
「なっ……」
エドガルが言葉を詰まらせ、キールが目を見開いた。
「人間こそ正義。ウヴェーリはこの国を蝕む害虫だ!和解!?はっ、笑えもしない冗談だな。
ーー皆大切な人を奪われたはずだろう?その思いはそんなにも簡単に風化してしまうものだったのか?」
治まった大衆を煽っていたのは、上背のある精悍な顔つきの男、ガッツォ・ローネその人だった。
「あの男……」
「ガッツォ、またしても――」
エドガルとキールが苦々しい顔をし、渦中にいるガッツォを鋭く睨みつける。
(ようやく、みんな落ち着きを取り戻し始めたのに……)
再びざわめく場に、結希は絶望しかける。あれだけ声をあげても届かないというのなら、他にどうしてよいのかわからない。その光景に俯きかけると、肩にそっとエドガルの華奢だが、力に満ちた手が添えられた。
「――大丈夫。あなたの想いを無駄にはさせません」
「エドガル?」
エドガルは前に一歩進むと、よく響く声でその場にいるすべての者に語りかけた。
「リアーナ・エリュスタ前女帝を、覚えておられますか?」
エドガルが口にしたその名に、その場にいた全員の動きが止まった。民のすべてが、敬愛する名、忘れることなどできない名だった。静まり返る広場に、エドガルの声だけが木霊する。
「リアーナ様は活発でお転婆で、こちらの身が持たないようなお方でした」
(それはどうなの)
エドガルの言葉に、兵士もウヴェーリの口元も弛むのが見えた。心のなかのリアーナに対し、複雑な気持ちを抱えながらも、結希はエドガルの次の言葉を黙って聞いていた。
「けれど、誰よりもお優しい方でした」
「……」
場に静寂が戻る。皆思い出しているのか、口元は笑っているのに、目にはたまるものがあった。
「そんなリアーナ様に昔、言われた言葉がありました。その言葉をわたしは今の今まで忘れていた。決して忘れてはいけなかったのに、その時の憎しみにかられ、大切なものを見逃していた」
エドガルが唇の端を噛むのが見える。俯いた髪が揺れて、一瞬泣いているように見えた。
「人間とウヴェーリがまた共生できる国になったらいいね、生前のリアーナ様がよくおっしゃっていた言葉です。リアーナ様は人の間に線を引くのを嫌がるお方でした。それは人間とウヴェーリとの仲でも同じ」
誰かが息を呑む音が聞こえた。エドガルは再び国民に向き直る。自分の過ちを認め、向き合うさまは一層彼を皇帝たらしめた。
「皇帝としてだけでなく、一個人として。どうかもう一度やり直す機会をください。今度こそ、皆で」
今までずっと独りだった彼自身が、皆でと口にした。それは確かに、大きな一歩だった。兵士たちも静まり、皇帝の力強い言葉にまた落ち着きをとり戻していた。
そんななか、一人だけ興奮冷めやまらぬ男がいる。
「せっかくここまで来たんだ。今更あんな小娘ごときに潰させない。ウヴェーリを根絶やしにする邪魔はさせない」
ぶつぶつと一人ごとを呟きながら、男は速足で結希達のほうに近づいてくる。結希の姿を捉えると、剣を掲げた。
「小娘なんぞに邪魔はさせん!」
ガッツォの剣の間合いに結希が入る前に、ガッツォと結希の間に大きな二つの影がすべり込んだ。
「この娘を傷つけることは許しません」
「一歩でも近づけば、その首、噛み千切ってやる」
エドガルとキールはそう言い放ち、結希を背後に毅然と立ちふさがっていた。




