”逃げること”を諦める
小さく聞こえたエドガルの言葉に彼を見つめるが、俯いていて表情はわからない。ただ、艶やかな黒髪が揺れていた。低く、震えるような声が部屋に響く。
「あなたには、わからない」
「……―――」
それは聞き覚えのある言葉だった。拒絶する色がそこにはある。以前訊いたのは、いつだったか。
――人間には、関係ない。
出会ったばかりの頃の、キールの言葉が耳元で聞こえた。
(そうだ、キールのあの時の言葉と似ている)
今回は、人間同士なのだけれど。それでも、人と心を通わせることがどれほど難しいことなのか、痛感せずにはいられない。悔しくて、唇を強くかむ。鈍い鉄の味が口に広がった。まずいの、そう思ってエドガルを真直ぐに見る。ウヴェーリの親子やクリメント達にもらったバトンを、結希が手放すわけにはいかない。
「――あなたの気持ちは、確かに私にはわからない。なにを考えなにを思っているのか。人間同士でも知るためには時間がかかって当然。人間同士だってそうなんだから、ウヴェーリとならもっと時間をかけて向き合っていくべきでしょ?」
「――」
「それなのに、こんな……排除するようなやりかたじゃ、溝が大きくなるばかりだよ。人間とウヴェーリだって、昔は共生していたって聞いた。それなら、もう一度……」
一緒に暮らしていけるはずだ、そう結希が言い終わる前に、エドガルが大股で結希に歩み寄る。唐突な出来事に結希は反応できない。
「――っ!!?」
衝撃に、一瞬息が止まりかける。その後、急速に吸い込んだ空気に、咳こむ。強く打ちつけた背中が軋んで痛い。視界には真っ白な天井が映っていた。その手前には、怒気をはらんだ瞳のエドガルの顔が、結希を見下ろしている。どうやら、結希は固い床に突き倒されたらしい。
狂気を瞳の奥に宿したエドガルの顔が近づいてくる。優しい微笑みを浮かべていた彼からは想像もつかない豹変ぶりに体が硬直する。非力な自分が悔しくて行動していたはずなのに、起こった出来事の恐怖から、彼を真直ぐに見ることができない。
「怖い、ですか?」
「……っ」
すぐそばにしゃがみ込んで、結希の淡いセミロングの髪を、しなやかな指が掬う。先ほど突き倒した本人とは思えないくらい優しい動作で。
その指に触れられた瞬間、全身が粟立った。怖い、その感情が結希の身体を占める。自分が何を訴えようとしていたのかもすべて飛んでしまいそうだった。一刻も早くこの恐怖から逃れたい、その事だけで頭がいっぱいになる。この感覚に、覚えがあった。
(そう、だ――)
颯真に抱くものと同じなのだ。エドガルに抱く恐怖は、颯真と一緒にいるときに感じるものと全く同じ。絶望感が結希を襲う。折角、あの息苦しい世界から離れられたのに。この世界でならなにか変われるのではないか、そう思っていた。実際に少しずつでも変わっていると思っていたのに、もとの諦めてばかりいた自分が顔を出そうとしている。
ここでもまた私は……。
「恐怖であなたがわたしの思う通りになるというのなら、いくらでもあなたに消えない傷をつけましょう。――そうすれば、あなたはわたしを忘れられない。ウヴェーリだなんて、口にさせない」
呪詛を吐くように謡う彼が、結希の髪に口づけを落とす。一度逃げた道。その道は何倍にも大きさを増して戻ってきた。逃げても、同じ分だけ、もしくはそれ以上のものが襲い来るというのなら――。
彼の籠に囚われた結希は、今度こそ”逃げる”という選択肢を諦めた。誰からも、弱い自分からも。
(嫌だ、もとの自分に戻るのだけは!ーーやれるだけ、やってやる)
恐怖で身は竦むし、声だってかすれて音をなさない。それでも、逃げることを諦めれば少しは心が軽くなった。それにいまは、一人じゃない。ウヴェーリの親子、クリメントやアンナの顔が浮かぶ。最後に、キールの真直ぐな瞳が結希を捉えた気がした。たとえなにをされても、怖くたって、一人じゃなければ何とかなる。最悪な状況下で、それでも結希の心のあかりはまだ灯ったままだった。
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それから毎日決まった時間に彼、エドガルは結希の部屋の戸を叩く。三食の食事は給仕の女人が持って来てくれた。話しかけようとすると、伏し目がちに頭を下げ、そそくさと戻っていってしまう。きっとエドガルにあまり話をするなというようなことを言われているのだろう。そのため、結希の話し相手はエドガルしかいなかった。そして、部屋の扉は誰かが(といっても、エドガルか給仕係の女人の二人しかいないのだが)出入りするたびに、外側から鍵がかけられているようだった。
夕刻、日が欠ける頃、ガチャガチャと金属の擦れる音がする。彼はいつも夕暮れ時にやってくる。
「変わりは、ないようですね」
安心したように、静かに笑顔を浮かべ、結希の姿を確認したエドガルが言う。
「……」
結希は視線を窓の外に移して、無言を貫く。
部屋に閉じ込めておいてよくそんなことが言えるものだと思う。変わりないどころかここ数日外に、否、部屋から一歩も出ていないのだ。それなのに、どうして彼はほっとした瞳で私を見るのだろう。
「今日も、お話ししてはくださらないのですか?」
「……」
眉を下げて、弱々しく呟くエドガルに、それでも目を向けずにいると、後ろでため息をつく声が聞こえた。エドガルの言う通り、この部屋に閉じ込められてからというもの、結希はエドガルからかけられた言葉すべてを無視している。逃げないと決めてからは、彼に対する怒りも出てきた。何も話さない私なんかにはすぐに飽きて、追い出してくれればいいのだ。そっぽを向いて、窓から部屋の外、うっすらと空を覆う雲を見つめた。結希の視線の先が外にあることに、エドガルの眉間にしわがよる。
「どうせ出られるわけがないのだから、もう諦めてしまえばいいのに」
エドガルは窓のそばによると、カーテンを引いた。空が見えなくなり、完全に外の世界から隔絶される。薄暗い室内に、エドガルの美しい微笑みだけが、明るく映えた。それが唯一の希望であるかのように。
「あなたのかわいらしい声が聞きたい。なんでもいいので、話してくれませんか?」
恐ろしいほど甘い声で、エドガルが囁く。それならばと、口をかすかに動かす。エドガルの目を見て、結希はずっと願っていることを口にした。
「ウヴェーリへの迫害を、やめてください」
「――……」




