ウヴェーリの子供
なぜだか無性に嫌な予感がして、キールにここにいろと言われたことも忘れて、結希は村の脇を歩んだ。道ではない道に、藁の靴が沈む。それでも足を止めずに進むと、村から少し離れた場所に、やはり川があった。
「――!」
二人分ほどの幅の川に、茶色の毛を纏った小さな狼の子供が溺れそうに両脚をばたつかせていた。口で川の脇にある草を銜えようとするも、雪ですべるのか失敗する。必死で顔を浮かせているが、浮いたり沈んだりと苦しそうだ。
「!!」
気づけば、川へ飛び込んでいた。考える前に体が動いていた。この場所には、自分しかいない、自分が動かなければ、この凍てつく川でこの子はきっと死んでしまう。突き動かされるように川へ飛び込み、狼の子供のそばまで泳ぐ。着衣水泳は学校の授業で行ったことがあったため、少し重くは感じても、思っていたよりもしっかり動けた。着衣で海やプールに入ることなんてないし、こんな授業に意味があるのかと思ったりしたこともあったが、いまばかりは学校の授業に感謝した。
川のなかは思っていたよりも深い。百六十センチほどある結希でも爪先立ちをしてようやく届くほどの深さだ。しかし、底に足をつけようとすると、ガバガバと口の中に水が容赦なく入ってこようとする。
「……だ、大丈夫だからね!」
やっとのことで子供の狼の元までたどり着き、手を差し伸べようとすると、小さく拙い唸る声が聞こえた。
「ち、近づくなっ!人、ごぼっ――」
口を開いた瞬間に水が入ってきたのか、その子は苦しそうにもがく。なにをいいたいのかの察しはついた。それは、なんどもキールから向けられた視線と同じだったから……。しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。
「――つかまって!」
口内への水の浸入を拒みながら、水面より高く顔を浮かした際に、手を差し伸べ叫ぶ。
「……っ」
ウヴェーリの子は手を取ろうとも、目を合わせようともしない。ただ、もがいて脚をばたつかせていた。どうあっても情けは受けないというような、頑なな態度。あちらから近づいてくるのを待っていれば、あの子は溺れてしまう。結希は何とか泳いで近づいて、ウヴェーリの子供を抱くように片手で引き寄せる。
「――つっ」
二の腕の鋭い痛みに顔を歪める。冷たく透きとおる川に、赤いすじが滲む。ウヴェーリの子供に噛まれたようだった。噛んだまま、腕の中で小さく唸る声が聞こえる。
「はなせ!はなっ……」
必死に抵抗して腕から逃れようとするウヴェーリの子供に、はじめて声を荒げる。
「そんなこと言っている場合じゃない!!溺れたいの?」
ビクっと腕の中で動いた後、抵抗が弱まる。ウヴェーリの子供は目を見開き驚きながらも、か細い声で抵抗の言葉を口にした。
「――人間に、助けられるくらいなら」
「ばか!!!」
「――!!」
結希の怒鳴り声にウヴェーリの子供は身をすくめた。抵抗をしなくなったその子の体を抱きしめる。助かる可能性があるのに、相手が人間だからと、自分から希望を手放すようなマネは、やはりどうしても納得できない。
「私は、死にたくない。そして、キミを死なせたくもない」
自然と出てきた言葉。自分の口から出た言葉なのに、目を見開いてしまった。この世界に来るまで、嫌なことが続いてあんなにも逃げ出したいと思っていたのに、それでもやはり自分は生きたいのだと感じた。生き汚くても生きていたい。腕のなかで水に濡れて冷たくなったしっとりとした毛が、腕のなかでもぞもぞと動く。視線が結希に向けられる。
「――。ぼ、ぼくも、死にたくない!!」
その眼からはもう、人間だとか、ウヴェーリだとかいう線引きは感じられない。透きとおった瞳には、結希の顔だけが映っていた。
「いいこ」
頬が弛むのが自分でもわかる。だが、ここでほっとしていてはいけない。再び気を引きしめる。ふたりとも、助かるために。
しっかりと、ウヴェーリの子供を抱える。ウヴェーリの子供も今度は結希の腕の服を銜え流されないようにしている。その様を見とめた結希は抱く手に力をこめ、片手で水の流れに逆らい陸を目指す。
――絶対に、助けてみせる。
腕の中の温かな体温を感じながら、結希は決意を固めた。
途中何度か沈みかける。その度つま先立ちをし、流されないよう足でストッパーをかけながら、なんとか陸に手をかけた。
「――かはっ。ごほ、っ!」
ふたりそろって地に薄く張った雪の上に身を投げ出す。両手をつき、肺に入った水を吐き出す。隣ではウヴェーリの子供が、苦しさに涙を浮かべていた。
「だい、じょうぶ?」
ようやっとのことで言葉をつぐむと、小さくうなずく様子が見て取れた。いまだ苦しそうだが、無事であることに心底ほっとする。安堵の表情を浮かべていれば、耳に残る不快な金切り声が聞こえた。
「……な、なにをしているの?ワタシの子に触れないで!!!」
襟首を強い力で後ろに引かれ、ウヴェーリの子供から引きはがされる。反動で、結希は後ろに倒れた。
「つっ!」
肘を強く地面に押し付けられる形となり、はしった痛みにおもわず結希は小さく呻いた。目を開き、前方のウヴェーリの子供がいる場所をみると、いつの間に来ていたのだろうか、キールほどの大きさはないが、それでも、人間一人分ほどの大きさの細い華奢な線のウヴェーリがいた。子供を後ろにかばい、結希の前に立っている。あの子供の母親なのだろうウヴェーリは毛を逆立て、歯をむき出しにし、大きな目を吊り上げ、結希を睨み据えている。その迫力に圧倒される。
そこには明確な敵意があった。




