8
離宮を守っていた護衛たちは、苦渋の表情で門前に立ち尽くしていた。
突き付けられたのは、王家の玉璽が押された勅命書。そこに記されていた内容は、到底信じられるものではなかった。
何度も確認した。一文字一句、読み返した。押印された玉璽も、目を凝らして確かめた。
それでも、それは間違いなく、本物だった。
誰一人、納得などしていない。それでも、王命には逆らえなかった。隊長は拳を握り締め、唇を噛み締める。
「……申し訳ございません」
掠れた声が、小さく零れ落ちた、その時だった。重厚な玄関扉が、ゆっくりと開く。サラは覚悟を決めて玄関を出る。
目の前にはニヤニヤ笑うヤンティーネと、薄ら笑いを浮かべるカスペルがいる。
そのさらに奥には、悔しさに顔を歪めた離宮の護衛たち。父が信用していた彼らの様子に、サラの背筋が冷えた。
それでも。
「カスペル様、ヤンティーネ様。どのようなご用件でしょうか」
母の所作を思い出し、静かに問う。ヤンティーネが、ニタリと嫌らしい笑みを浮かべる。
「あらぁ。まだ知らなかったの?」
大げさなほどの仕草と声音。ヤンティーネの顔が愉悦に歪む。
「……何のお話でしょう」
「昨日、国王陛下と王妃様が魔獣に襲われて亡くなられたそうよ。怖いわよねぇ。いつ何が起こるか分からないんですもの。ふふっ、お気の毒」
何を言われたのか、わからなかった。ただ、ヤンティーネの笑い声だけが耳に響く。
「あらあら。びっくりして声も出ないのかしらぁ。それとも信じられない? そうよね、信じられないわよね。でも本当よ。王宮じゃ大騒ぎ。それにね。もうお父様が即位なさったの。今日からティーネが王女なのよ。うふふふっ」
何を言われたのか、理解できなかった。言葉の意味は分かる。一つ一つの音も聞こえている。それなのに、その言葉だけが現実として胸へ落ちてこない。
――亡くなった。
その一言だけが、何度も頭の中で反響する。まるで誰か別の人の話を聞いているようだった。
違う。
お父様とお母様が亡くなるはずがない。昨日まで笑っていた。今朝には帰ってくると、皆で話していた。焼き林檎だって、まだ、食べてもらっていない。
だから、違う。きっと何かの間違いだ。
カスペルが一歩前に出る。
「今日から父上が国王だ。サラ。お前は王宮で保護する」
サラは返事ができなかった。
父と母が亡くなった。
ヘイルトが王となった。
そして、自分は王宮へ連れて行かれる。
その三つの事実が、胸の中で絡まり合い、何一つ整理できない。あまりにも突然すぎて、思考が何一つ追いつかない。
足元がぐらりと揺れたような気がした。それでも、倒れてはいけないと必死に踏みとどまる。
離宮の者たちも同じだった。
家令も、庭師も、料理人も、使用人たちも。護衛たちでさえ、誰一人として声を発することができない。重苦しい沈黙だけが、その場を支配していた。
その一瞬の空白を、カスペルは見逃さなかった。
「……連れて行け」
短く、冷たく命じる。
その声を合図に、兵士たちが一斉に動き出した。鎧の擦れる音が玄関前へ響き渡る。
その瞬間だった。
「お待ちください!」
家令が我に返ったように叫び、兵士たちの前へ飛び出した。続いて庭師や料理人、男性使用人たちもサラを庇うように前へ並ぶ。
「姫様にお手を触れることはなりません! 勅命書を! 姫様を連行するとの命令を、この場でご提示ください!」
家令は毅然とした態度を崩さない。
「離宮の管理は、私に一任されております。姫様へ勅命を執行されるのであれば、正式な勅命書を拝見いたします」
カスペルは鼻で笑った。
「門で見せただろ」
顎で離宮護衛隊長をしゃくる。
「こいつらが確認済みだ」
護衛隊長は悔しげに拳を握り締めたまま俯いている。何も言えない。あれが本物であることを、誰よりも知っていたからだ。
それでも家令は一歩も引かなかった。
「離宮へ勅命を執行される以上、この場でも確認いたします。それが離宮家令としての務めにございます」
「……チッ」
カスペルは露骨に舌打ちすると、懐から勅命書を乱暴に取り出し、家令の胸元へ投げつけた。床へ落ちる寸前、それを家令が両手で受け止める。震える指先で封を開き、ゆっくりと文面へ目を走らせた。
一文字ずつ。何度も、何度も。そして最後に押された玉璽へ視線を落とす。
見間違いであってほしい。偽物であってほしい。そんな願いも虚しく、刻まれた紋章は紛れもなくホーフダル王家の玉璽だった。
家令の顔から血の気が引いていく。手が、小刻みに震えた。
「……本物、です」
掠れた声が零れる。その言葉に、その場の誰もが絶望した。
「確認は終わったな」
カスペルが面倒そうに腕を組む。
「さっさとしろ。無駄な時間を使わせるな」
兵士たちへ顎をしゃくる。
「連れて行け」
カスペルの命令と同時に、兵士たちが一斉に踏み出した。しかし、その行く手を家令が大きく両手を広げて塞ぐ。
「姫様には指一本触れさせません」
「お退きください」
兵士が低く告げる。
「退けません」
家令は一歩たりとも引かなかった。その背後では庭師が鍬を握り締め、料理人は薪割り用の斧を持ち、男性使用人たちも震える拳を固く握ってサラの前へ並ぶ。
武器にもならない。勝てるはずもない。それでも、彼らは誰一人として退かなかった。
「姫様をお守りしろ!」
護衛隊長の叫びが響く。
離宮護衛たちも剣を抜き放ち、サラを守るように前へ出た。けれど、誰一人として剣先を王宮兵へ向けようとはしなかった。
王命へ背くことはできない。それでも、黙って姫を差し出すことなどできなかった。抜き身の剣を下げたまま、彼らは身をもって兵士たちの行く手を塞ぐ。金属の擦れ合う鋭い音が、玄関前に響いた。
一触即発。
張り詰めた空気を破ったのは、兵士の一人だった。
「どけぇっ!」
怒号とともに盾が家令を突き飛ばす。
「ぐっ!」
年老いた身体が大きくよろめいた。
「イェルン様!」
庭師が兵士へ飛びかかる。
だが、鎧をまとった兵士の拳が容赦なく振り抜かれた。鈍い音が響き、庭師の身体が石畳へ叩きつけられる。
「く……っ」
「やめろ!」
護衛たちが反射に剣を持ち上げた瞬間、数で勝る王宮兵が一斉に押し寄せた。
振り下ろされた剣を、離宮護衛が咄嗟に受け止める。金属と金属が激しくぶつかり合った。
怒号、悲鳴。鎧のぶつかる音。
玄関前は一瞬で混乱に包まれた。
料理人が兵士へ体当たりをする。男性使用人がサラを庇おうと腕を広げる。しかし、突き飛ばされ、殴り倒され、それでも何度でも立ち上がる。
「姫様だけは……!」
「お逃げください!」
「姫様!」
その叫びが、サラの耳へ届いた。
それまで遠く霞んでいた世界の音が、一気にサラを現実へ引き戻した。
目の前では家令が兵士に胸ぐらを掴まれ、庭師は口元から血を流していた。料理人も、使用人たちも、必死に兵士へしがみついている。
皆、自分を守るために。
自分のために傷ついている。
「……やめてください!」
震える叫びが玄関前へ響いた。その一言に、その場の誰もが動きを止めるサラは震える足で一歩前へ出た。
「参ります」
涙を必死に堪えながら、小さく首を振る。
「だから……皆に乱暴しないでください」
「姫様!」
家令の悲痛な叫びが背中を打つ。
サラはゆっくりと振り返った。泣きそうになるのを必死に堪え、小さく笑みを作る。
「イェルン……皆を頼みます」
「姫様……!」
それ以上の言葉は出なかった。サラは自ら粗末な馬車へ乗り込む。重い扉が閉まり、馬車はゆっくりと離宮を後にした。
離宮の者たちは誰一人として追うことはできず、悔しさに拳を握り締めながら、その姿を見送るしかなかった。
静寂が辺りを包む。その静寂を破ったのは、カスペルの下卑た笑いだった。
「そうだ、この前の女を出せ」
離宮を見回しながら、舌なめずりする。
「あいつはなかなかいい身体をしてた。この間はあの茶髪が帰ってきたから連れてけなかったが、今日は少し可愛がってやろうと思ってな。呼んでこい」
その下劣な言葉に、その場の空気が凍りつく。
家令は一歩前へ進み出た。
「あの者は離宮を辞しております。この場にはおりません」
「ほぉ?」
カスペルは面白そうに眉を上げる。
「逃がしたってわけか」
家令は答えない。
「まぁいい」
肩をすくめると、兵士たちへ顎をしゃくった。
「屋敷中探せ。その女じゃなくてもいい。隠れてる奴がいたら引きずり出せ」
兵士たちが一斉に屋敷へ踏み込む。
荒々しく扉が開かれ、廊下へ足音が響き渡る。部屋という部屋が乱暴に開け放たれ、家具が倒され、棚が漁られていく。
だが。どれだけ探しても、女性使用人は一人も見つからなかった。
カスペルは露骨に舌打ちをして、不機嫌そうに吐き捨てる。
「せっかく俺が目をかけてやったってのによ」
その時だった。
「ああ、それと」
思い出したように振り返る。
「あの色なし女の腕輪も探せ」
家令の胸が大きく波打つ。
「母上が欲しがってたんだ。昨日は身につけてなかった。ここにあるはずだ」
家令の胸が、大きく波打った。
──昨日?
なぜ、この男が知っている。
昨日、マリアアンシェが王族腕輪を身につけていなかったことを。
それを知る者は、ごく限られているはずだ。
背筋を、冷たいものが伝った。
「宝飾品も全部持って来い」
ヤンティーネが退屈そうに言った。
「あの地味女の持ち物なんて、大した物はないでしょうけど」
肩をすくめ、口元を歪める。
「どうせ、もう誰も使わないものですもの」
「お待ちください!」
家令が声を張り上げる。
「勝手な真似はおやめください!」
「勝手?」
カスペルは鼻で笑い、もう一通の勅命書を取り出した。
「これを読め」
乱暴に投げられた勅命書を、家令は慌てて受け止める。震える指で封を切り、文面へ目を落とした。
そこに記されていたのは、離宮を王家へ返還すること。
離宮内に残された財産をすべて没収すること。
使用人は速やかに立ち退くこと。
最後まで読み終えた家令の手が、小さく震える。
「文句ねぇだろ」
兵士たちは命令を受けるや否や、屋敷中を荒らし始めた。
家具が引きずられる。
食器が床へ投げ出される。
思い出の品々が乱暴に箱へ詰め込まれていく。
護衛も、使用人も、誰一人止めることはできない。ただ、悔しさに拳を握り締め、その光景を見つめることしかできなかった。
家令は震える声で問いかける。
「……お二人の、ご葬儀は」
カスペルは心底面倒そうに答えた。
「必要ねぇだろ」
その一言に、その場の全員が息を呑む。
「では……ご遺体は」
「王都の詰所に転がしてある」
まるで荷物でも語るような口調だった。
「あとで兵士に穴でも掘らせて、放り込んどきゃいい」
誰も声を発することができなかった。
護衛隊長は拳を握り締め、家令は唇を噛み締める。庭師も料理人も、残された使用人たちも、怒りと悲しみに震えていた。
その場に残された者たちの胸の奥で、恐ろしい疑念が確かな輪郭を帯びていく。
──この者たちが、お二人を手にかけたのではないか。




