9
サラが連れて行かれたのは、王宮の地下牢だった。重い鉄格子が閉ざされる。
ガシャン――
冷たく乾いた音が石造りの通路へ響き渡った。遠ざかっていく兵士たちの足音。やがて、それすら闇へ溶けるように消えていく。
残されたのは、淀んだ空気だけだった。湿った石壁には黒い染みが広がり、鼻をつく黴臭さが漂う。
簡素な木の寝台。隅に置かれた用足し用の桶。それだけの狭い空間。
サラは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
どれほどの時間が過ぎたのかも分からない。やがて糸が切れた人形のように力なく寝台へ腰を下ろす。
涙は出なかった。まだ、何一つ実感が湧かない。両親の遺体すら見ていない。
だから――
「……嘘、ですよね」
掠れた声が静かな牢へ吸い込まれる。返事をする者はいない。
信じたくない。
信じられない。
「お父様……」
小さく呟く。
「お母様……」
その名を呼んでも、返ってくるのは沈黙だけだった。
どれほどの時間が過ぎたのだろう。地下牢には窓がない。昼も夜も分からず、湿った空気だけが肌にまとわりつく。
サラは寝台へ腰掛けたまま、虚ろな瞳で石畳を見つめていた。
カツ……
カツ……
カツ……
静まり返った地下牢へ、甲高い靴音が響く。近づくにつれ、聞き覚えのある甲高い声が耳へ届いた。
「もうっ、狭いわね! 歩きにくいったらありゃしない! それに、なぁにこの臭い。ドレスに移ったら嫌だわぁ」
サラはゆっくりと顔を上げる。
揺れる松明の灯りに照らされ、豪奢なドレスをまとったヤンティーネが姿を現した。
ヤンティーネが口元へ扇を当てながら鼻をしかめる。
「あら」
鉄格子の向こうのサラを見るなり、嬉しそうに目を細める。
「まだ泣いてなかったの?」
「ヤンティーネ様……」
「気分はどう? 元王女様」
くすくすと笑いながら鉄格子へ近づく。
「地下牢ってお似合いね。ふふっ。本当に無様」
サラは何も答えない。
そんな様子が、ますますヤンティーネの癇に障る。
「今日から王女はティーネなの」
胸を張り、顎を上げる。
「セラファンにはティーネが嫁いであげるわ。王太子殿下も、色無しのお前なんかより、ティーネの方がずっと嬉しいでしょうね」
高らかな笑い声が地下牢へ響く。
その時だった。サラが静かに顔を上げる。その瞳だけは、まっすぐヤンティーネを見つめていた。
「王太子殿下の婚約者は、ホーフダル王国の王女ではありません」
掠れた声だった。それでも、一言一言を噛み締めるようにはっきりと言う。
「婚約は、セラファン王太子殿下と、わたくしとの間で結ばれております。その契約は、王女位とは別のものでございます」
一瞬、地下牢の空気が凍りつく。
「……はぁ?」
ヤンティーネの笑みが消えた。
「何よ、それ。まだそんなこと言ってるの!? 今日からティーネが王女なの! ティーネが行けばいいのよ!」
サラは小さく首を横へ振った。
「契約は、そのように結ばれております」
「ここまで来ても認めたくないの? どこまでしがみつくつもりなのよ!」
怒声が響く。
「出しなさい!」
兵士たちが牢を開ける。二人がかりでサラの腕を掴み、乱暴に外へ引きずり出した。
石畳へ膝を打ちつけても、サラは声一つ上げない。その態度が、ヤンティーネの怒りへ油を注いだ。
「その顔が気に入らない!」
乾いた音が地下牢へ響く。
パァンッ!
頬が大きく弾かれ、サラの身体が揺れる。
それでも悲鳴は上げなかった。
ゆっくりと伏せた顔から、一筋の血が石畳へ落ちる。
「……っ!」
もう一発。
さらにもう一発。
平手打ちが何度も頬を打つ。
白い肌が赤く腫れ上がり、口の端から細く血が伝った。やがて力を失った身体が石畳へ崩れ落ちる。
ヤンティーネは躊躇なくその体を踏み付けた。細い踵が華奢な体に食い込む。命じられた兵士にも数回蹴られた。
「立ちなさい!」
兵士たちは髪を掴み、無理やり身体を引き起こした。
鉄格子へ押し付けられる。両腕を高く持ち上げられ、冷たい鉄へ拘束された。
「鞭を」
兵士が恭しく差し出す。
ヤンティーネはそれを受け取り、楽しげにしならせた。
ヒュン――
風を裂く音が響く。
「色無し!」
ビシィッ!
白い背へ赤い線が走る。
「化け物!」
ビシィッ!
鞭が裂けた布ごと皮膚を打つ。
ビシィッ!
「その顔も!」
ビシィッ!
「全部気に入らない!」
何度も、何度も。鞭が振り下ろされる。朝用の淡い水色のドレスが無惨に裂け、鮮やかな赤が滲んでいく。
「泣きなさいよ!」
ビシィッ!
「喚きなさい!」
ビシィッ!
「許してくださいって言いなさい!」
ビシィッ!
地下牢へ響くのは鞭の音だけだった。
サラは悲鳴を上げない。泣きもしない。ただ唇を噛み締め、静かに耐え続ける。その姿が、ヤンティーネには何よりも腹立たしかった。
「何とか言いなさいよ!」
振り上げられた鞭が、再び振り下ろされる。その瞬間、サラの身体から、ふっと力が抜けた。拘束されたまま、静かに意識を失う。
地下牢には、ヤンティーネの荒い息遣いだけが響いていた。
サラはもう、指一本動かさなかった。
翌朝。
サラは熱に浮かされながら浅い眠りを繰り返していた。昨夜の鞭傷は熱を持ち、白い額には脂汗が滲んでいる。
喉は焼けるように乾いていた。昨日から、水すら与えられていない。
何度目かも分からない牢の扉が開く音が響いた。
カツ……
カツ……
カツ……
「まだ生きてたのね」
ヤンティーネだった。今日は機嫌が良さそうに笑っている。
兵士が牢を開け、ぐったりしたサラを無理やり起こす。
その拍子だった。裂けた朝用ドレスの胸元から、一筋の淡い光がこぼれた。
「……あら?」
ヤンティーネの視線が釘付けになる。
胸元に隠されていた、小さな薄青の宝石。朝の光もない地下牢で、それだけが静かに輝いていた。
「綺麗……」
思わず呟く。そして、その瞳が欲望に染まる。
「それ、寄こしなさい」
兵士へ顎をしゃくる。
「外しなさい」
兵士が首元へ手を伸ばす。
しかし。
「……申し訳ございません。留め具がございません。外せません」
「はぁ?」
ヤンティーネが眉を吊り上げる。
兵士は困惑したまま首を振った。
「一つの輪になっております。切るしか……」
「そんなことしたら宝石が傷付くじゃない!」
苛立ちが爆発する。
「起こしなさい!」
兵士がサラの肩を乱暴に揺する。熱に浮かされた瞼がゆっくりと開く。
「外しなさい」
返事はない。
「聞いてるの!?」
頬を打つ。
「その首飾りよ! 外して、ティーネへ渡しなさい!」
掠れた声が、小さく零れる。
「……外せません。外し方も……知りません」
「はぁ!?」
「物心ついた頃には……着けていました」
息をするだけでも苦しそうだった。
「一度も……外したことが、ありません。留め具も……ありません」
「知るわけないでしょう!」
ヤンティーネの怒鳴り声が地下牢へ響く。
「嘘をつくな!」
怒りに任せ、再び鞭を振り上げた。
ビシィッ!
熱を持った傷へ、新たな痛みが走る。何度も。何度も。鞭が振り下ろされる。それでもサラは悲鳴を上げない。
「……っ」
唇を噛み締めるだけだった。その姿が、ますます癇に障る。
「……もういいわ!」
ヤンティーネは乱暴に鞭を放り捨てた。
「汚らしいったらありゃしない」
近くに置かれていた桶を指差す。
「水をかけなさい」
兵士が躊躇う。
「ですが……」
「いいから!」
命令されるまま、兵士は冷水を頭から浴びせた。
バシャァッ――
凍えるような水が全身を打つ。傷口へ染み込み、サラの身体が小さく震えた。
「少しは綺麗になったわね」
満足そうに笑う。
「行くわよ。放り込んで起きなさい」
甲高い笑い声を残し、ヤンティーネは地下牢を後にした。
命じられた兵士がサラを再び牢に入れ、鍵をかけて去っていく。
再び静寂が訪れた。
濡れた服が体温を奪う。熱はさらに上がっていった。
その夜、冷水で濡れた服は乾くことなく、奪われた体温が戻ることもない。
浅い眠りと目覚めを繰り返す。夢とも現ともつかない意識の中で、小さく呟く。
「……天使様……」
掠れた声は誰にも届かない。
幼い頃、母が話してくれた。
──セラファンの王族には、それぞれ天使様がついていてくださるのよ。
──目には見えなくても、いつも見守ってくださっているの。
──お母様の天使様も、ずっと一緒にいてくださっているのよ。
その話が好きだった。
母が笑いながら空を見上げる姿が好きだった。
だから。
「……お母様の……天使様……」
熱に浮かされたまま、小さく呟く。
「お母様を……守ってくださった、天使様……」
お願いします。
どうか。
どうか、お父様とお母様のおそばにいてください。
その声は、静かな地下牢へ消えていった。




