10
翌朝、地下牢の鉄格子が軋む音を立てて開いた。
「出ろ」
ぶっきらぼうな声が響く。サラはゆっくりと瞼を開けた。
身体が熱い。息をするだけで胸が苦しい。昨夜浴びせられた冷水のせいか、熱はさらに上がっているようだった。
立ち上がろうとして、身体が大きく揺れる。足に力が入らない。兵士が腕を掴み、無理やり立たせた。
「歩け」
命じられるまま、一歩を踏み出す。足元がおぼつかず、何度も石畳につまずきそうになる。
兵士に支えられながら進んだ先で待っていたのは、数人の侍女だった。
無言のまま、裂けた朝用のドレスが脱がされる。傷口へ布が擦れるたび、小さく息が漏れた。
新しく渡されたのは、粗末な灰色の服。頭から被るだけの簡素な一着だった。王族が身にまとう衣装とは似ても似つかない。
「……どこへ」
掠れた声で尋ねる。返ってきたのは短い一言だけだった。
「謁見の間だ」
それ以上、誰も何も教えてはくれなかった。
再び歩き出す。
長い廊下。階段。何度も意識が遠のきそうになる。それでも、謁見の間の大扉が見えた瞬間、サラは立ち止まった。
ゆっくりと息を吸う。浅く、静かに吐く。
──背筋を伸ばしなさい。
──どのような時も王女として。
母の穏やかな声が耳の奥によみがえる。震える指先を握り締める。もう一度だけ息を整え、小さく背筋を伸ばえた。
「開けろ」
重厚な扉がゆっくりと開かれる。
眩しい光が差し込んだ。
謁見の間。
左右には大勢の貴族たちが整列している。玉座に近い前列には、ヘイルトへ恭しく頭を垂れる貴族たち。
一方、その遥か後方。王座から最も遠い場所には、険しい表情を浮かべた者たちが静かに立っていた。誰も口を開かない誰も笑わない。重苦しい空気だけが広がっていた。
最奥の玉座には、新王ヘイルト。その隣には新王妃クサンドラ。
さらに一段下がった席には、新王太子カスペルと、新王女ヤンティーネ。
四人は勝者のような笑みでサラを見下ろしていた。
兵士に促され、サラは玉座の前へ立つ。
膝が震える。熱のせいか、傷の痛みか。それでも倒れるわけにはいかなかった。
その姿を見届けるように、書記官が一歩前へ進み出る。巻物を広げ、高らかに読み上げた。
「罪人、サラ・フォン・ホーフダル」
「第一。離宮の財産を隠匿した罪」
「第二。王太子殿下が所望された女性使用人を匿い、差し出さなかった罪」
「第三。婚約解消命令に従わなかった罪」
「第四。新王女ヤンティーネ殿下の首飾りを盗み、返還を拒んだ罪」
読み上げられるたび、ざわめきが広がる。後方に並ぶ良識ある貴族たちの表情が強張った。
「あれは……」
「何という……」
「証拠はあるのか」
小さな囁きが漏れる。しかし前列の貴族たちは顔色一つ変えない。
書記官は巻物を閉じた。
「以上である」
静寂が訪れる。
ヘイルトがゆっくりと口を開いた。
「異論はあるか」
掠れた声が響く。
「……ございます」
誰もが息を呑んだ。
熱に浮かされながらも、サラは真っ直ぐ顔を上げる。
「婚約は、セラファン王太子殿下と、わたくしとの間で結ばれております。その契約は、王女位とは別のものでございます」
小さく息を整える。
「双方の同意なく、解消も変更もできません」
謁見の間がざわつく。
「それから……」
掠れた声は途切れそうになりながらも続く。
「首飾りは、物心ついた頃より身につけております。留め具がなく、一度も外したことはございません。外し方も存じません」
数人の貴族が顔を見合わせる。一人が意を決したように前へ出た。
「陛下。婚約の件は、セラファン王国へ確認を――」
「不要だ」
ヘイルトは冷たく言い放つ。
「養女であった色無し王妃の戯言に過ぎぬ。茶髪王も、その女に踊らされていただけだ。首飾りもヤンティーネの物で間違いない。この女は嘘を申している」
反論の余地は与えられなかった。ヘイルトは静かに告げる。
「サラ・フォン・ホーフダル。本日をもって王族籍を剥奪する。国外追放とする」
ヤンティーネが待っていたかのように立ち上がる。
「その首飾りを外しなさい!」
サラは静かに首を横へ振った。
「……できません」
「だから外せって言ってるでしょう!」
「外せません。留め具が……」
最後まで言い終える前に、ヤンティーネが金切り声を上げた。
「だったら首を切ればいいじゃない!」
謁見の間が凍りつく。
「首ごと落とせば外れるわ!」
カスペルが肩を震わせて笑った。
「いいんじゃねぇか。王家へ逆らった罪人だ。構いやしねぇ」
静まり返った謁見の間で、ヘイルトだけが静かに頷いた。
「うむ」
その一言が、サラの運命を決めた。
重い扉が開かれた。
兵士たちに両脇を抱えられ、そのまま石段を下りていく。
足は思うように動かない。高熱で視界が霞み、世界が揺れていた。それでも転ぶまいと、一歩ずつ前へ進む。
やがて城門を抜けた。
外には荷馬車が待っていた。荷台には藁が敷かれているだけ。罪人を運ぶための粗末な荷車だった。
「乗せろ」
兵士が短く命じる。
サラは荷台へ放り上げられる。身体中の傷へ衝撃が走り、小さく息を呑んだ。
馬車が動き出す。石畳を車輪が軋みながら進んでいく。
どれほど走っただろう。やがて、ざわめきが聞こえてきた。
人の声。大勢の人々の気配。
ゆっくりと荷台の幕が開けられる。その瞬間、息を呑んだ。
処刑場を埋め尽くすほどの人。老若男女。子どもまで、渡す限り、人、人、人。
兵士に腕を掴まれ、荷車から降ろされる。
その途端。
「……あれは」
「まさか……」
ざわめきが少しずつ広がっていく。サラはゆっくりと顔を上げた。
目の前には断頭台。黒く変色した木材。長い年月、風雨に晒されたその色は、どこか赤黒くも見えた。
その向こう。豪華な観覧席には、新王一家が悠然と腰掛けている。
ヘイルト、クサンドラ、カスペル。そして、ヤンティーネ。
ヤンティーネはサラと目が合うなり、満足そうに笑った。
「あらぁ。ちゃんと歩けるじゃない。死ぬ前くらい、しゃんとしなさい」
兵士たちに支えられながら、サラはゆっくりと処刑台へ歩いた。
足はもう、自分のものではないようだった。一歩踏み出すたび、熱に浮かされた視界が揺れる。
その時だった。
「……姫様?」
誰かの震える声が聞こえた。
「サラ姫様……!」
その呼び声をきっかけに、処刑場のあちこちからざわめきが広がっていく。
ゆっくりと顔を上げる。そこには、大勢の民の姿があった。
市場で出会った人。
冬の炊き出しで笑顔を向けてくれた親子。
離宮へ野菜を届けてくれた農夫。
皆が、自分を見つめていた。
泣きそうな顔で、震えながら。
「姫様……」
その声を聞いた瞬間、サラはそっと微笑んだ。それだけで十分だった。
けれど、その笑顔は人々の悲鳴を誘うだけだった。
「姫様ぁ!」
「やめろ!」
「そんな!」
叫び声が処刑場中へ響き渡る。
「黙れ!」
兵士たちの怒号が飛ぶ。槍が向けられ、人々は押し戻される。
その様子を見たヤンティーネが、不機嫌そうに立ち上がった。
「本当に気に食わないわ」
兵士から鞭を受け取る。
「色無しのくせに」
乾いた音が響いた。
パァンッ!
身体へ衝撃が走る。
熱を持った傷口が焼けるように痛む。それでも、悲鳴だけは上げなかった。
民の泣き叫ぶ声だけが耳へ届く。
「姫様!」
「やめて!」
「お願いだ!」
何度鞭が振るわれたのか、もう分からない。
やがて、ヤンティーネは満足したように鞭を放り捨てた。
「首を据えなさい」
兵士たちに引きずられるようにして、サラは断頭台の前へ立たされた。
もう、自分の足で立っているのかさえ分からない。身体は熱く、寒い。視界は白く霞み、遠くの景色は滲んで見えた。
「姫様!」
どこかで、誰かが叫んでいる。
泣き声。
悲鳴。
怒鳴り声。
たくさんの声が聞こえるのに、どこか遠い。
兵士に肩を押され、小さな身体が木枠へ伏せさせられる。
冷たい感触が頬へ伝わった。
乱暴に髪を掴まれ、顔が上を向く。
目に映ったのは、ただ青い空だった。
──きれい。
それだけが、ぼんやりと思い浮かぶ。
処刑人がすぐ横に立つ。
大きな剣がゆっくりと持ち上がった。陽の光を受けて、刃がきらりと光る。
まぶたが重い。もう、眠ってしまいそうだった。
──お父様。
──お母様。
お会いしたいです。
サラは静かに目を閉じた。




