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夜、ブルームホフ離宮には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
ダーフィットとマリアアンシェが王都郊外の視察へ向かうと連絡を受けたのは、昼の一の鐘が鳴って間もない頃だった。
夕刻には戻る予定だと聞かされていたため、使用人たちもいつも通り夕食の支度を整え、サラも帰宅を楽しみに待っていた。
だが、閉門を告げる鐘が王都へ響き渡っても、二人の姿は離宮へ戻らない。それどころか、馬車の音一つ聞こえてこなかった。
食堂には夕食が並べられている。
ダーフィットの好物である焼き林檎も、マリアアンシェのために温かい薬草茶も用意されていた。
けれど、料理は誰の手も付けられないまま、ゆっくりと湯気を失っていく。
サラは何度も席を立っては玄関へ向かった。
耳を澄ませる。
遠くから馬車の車輪が石畳を叩く音は聞こえないか。馬のいななきは聞こえないか。
玄関扉へ手を掛け、夜の冷たい風を頬に受けながら、何度も街道の先へ視線を向ける。けれど、そこには闇が広がるばかりで、人影一つ見当たらなかった。
そんなサラの背中へ、ヒルダがそっと声を掛ける。
「姫様。きっと視察が長引かれたのでしょう。閉門までに間に合わず、郊外のお宿へ泊まられたのかもしれません」
家令も穏やかに頷く。
「そのようなことは珍しくございません。明日の朝には、きっとお戻りになります」
使用人たちは笑顔を作っていた。
サラを安心させるため、そして何より、自分自身へ言い聞かせるために。
「……そうですね」
サラも小さく微笑んだ。けれど、その笑顔はどこかぎこちない。胸の奥に渦巻く不安は、少しも消えてはくれなかった。
今、離宮には年長の使用人が少ない。
イザークたち五人は、ダーフィットの命を受けてセラファンへ向かっている。離宮の子どもたちにとって兄のような存在だった彼らが、今この場にいてくれたなら。皆の心も、もう少し違っていたのかもしれない。
頼れる者が少ないというだけで、離宮はこんなにも広く、静かに感じられる。誰も、そんなことを考えたことはなかった。
幼い子どもたちもいる。いつまでも待たせるわけにはいかず、使用人たちは静かに夕食を勧めた。
「いただきます」
その声だけが、小さく食堂へ響く。
料理はどれも丁寧に作られていた。それなのに、誰も味を覚えていない。
言葉少なに食事を終え、再び玄関へ目を向ける。それでも、二人は帰ってこなかった。
やがて夜も更け、離宮中の明かりが一つ、また一つと落とされていく。
「姫様、お休みになりましょう」
ヒルダに促され、サラは静かに頷いた。
寝室にはヒルダをはじめ、数人の侍女が付き添っている。誰も口にはしなかったが、皆、今夜だけはサラを一人にしたくなかった。
寝台へ横になっても、眠気は少しも訪れない。
窓の外で風が木々を揺らす音がするたび、馬車ではないかと耳を澄ませる。
廊下を歩く足音が聞こえるたび、お父様とお母様が帰ってきたのではないかと身体を起こす。
けれど、その願いが叶うことはなかった。ブルームホフ離宮は、不安な一夜を静かに明かしていく。
眠れない夜が明けた。
まるで人々の不安を映したかのように、空は厚い雲に覆われ、朝だというのに薄暗い。
離宮にいる誰もが、ほとんど眠ることができなかった。
昨夜は何度も玄関へ足を運び、馬車の音が聞こえるたびに胸を高鳴らせ、その度に落胆を繰り返した。
朝になっても、ダーフィットとマリアアンシェは戻らない。
使用人たちの表情にも隠しきれない不安が滲み始めていた。
幼い子どもたちも何かを感じ取っているのか、いつものような笑顔はなく、大人たちの顔を不安そうに見上げている。
そんな時だった。
遠くから、馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえてきた。
「……!」
待ち望んでいた音だった。
食堂で朝食の席に着こうとしていたサラも、思わず顔を上げる。使用人たちの表情にも、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。
けれど──
ガラガラガラ……
一台ではない。二台、三台。さらに、その後ろからも車輪の音が続く。馬の蹄の音も多すぎた。
「何事でしょう……」
誰かが小さく呟く。窓際へ駆け寄った使用人が、そっと外を覗き込み──息を呑んだ。
「そんな……」
震える声が漏れる。
前庭には、数台の馬車と、それを取り囲むように並ぶ大勢の兵士たち。まるで離宮を包囲するかのような光景だった。
先頭の馬車の扉が開く。
ゆっくりと姿を現したのは、ヤンティーネとカスペル。二人とも、豪奢な衣装へ身を包み、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
ダンダンッ!!
玄関扉が乱暴に叩かれる。
幼い子どもたちが悲鳴を飲み込み、互いに身を寄せ合った。
「さっさと開けろ!!」
カスペルの怒声が離宮中へ響き渡る。
サラは小さく肩を震わせた。それでもゆっくりと息を吸い込み、自分を落ち着かせる。
「ヒルダ」
静かな声だった。
「女性たちと、小さい子たちを隠してください。ヘリー、ロビン、リニ。皆をお願いします」
突然名前を呼ばれた三人は、呆然と立ち尽くしたまま動けない。
「急いで!」
サラは珍しく声を張り上げた。
「ミルテ、ラウラも! ヒルダを手伝って! 早く!」
「嫌です!」
ヒルダが涙ぐみながら首を振る。
「私は姫様のお側を離れません!」
その言葉に、サラも一瞬だけ胸が締め付けられた。それでも首を横へ振る。
「駄目です。これは、お父様との約束です。リニ」
サラは真っ直ぐ彼を見つめた。
「ヒルダをお願いします」
「……姫様」
「お願い」
その一言に、リニは歯を食いしばった。
「ヒルダ。行こう。俺たちが……姫様の足を引っ張るわけにはいかない」
「嫌! っ……姫様!」
ヒルダは必死に抵抗する。それでもリニは涙を堪えながら、その手を引いた。
ダンダンダンダンッ!!
再び扉が激しく揺れる。蝶番が悲鳴を上げるように軋んだ。
サラは玄関を見据えたまま、小さく息を吐く。お父様は、何度も仰っていた。
──ヘイルトとカスペルが来た時は、女性と子どもを必ず隠しなさい。
前回は、ヒルダたちを守れなかった。だから今度こそ。彼女たちだけは、危険から遠ざけなければ。
もちろん、その中にはサラ自身も含まれている。誰よりも先に守られるべきは、自分なのだと。
けれど今、この離宮に父も母もいない。皆を守れる者もいない。ならば、自分が逃げるわけにはいかなかった。
ダンダンダンダンッ!!
再び扉が激しく揺れる。蝶番が悲鳴を上るように軋んだ。
ヒルダたちの姿が廊下の奥へ消えていく。その時だった。
リーン――
澄み渡る鐘のような音が、離宮の奥で小さく響いた。誰も気づかないほど静かな音。
けれど、その場にいたサラだけが、不思議そうに小さく首を傾げる。
「……?」
ほんの一瞬。それだけで音は消えた。離宮の地下深くに刻まれていた魔法陣が、静かに起動したのだ。
セラファンより秘かにもたらされた、防護結界。女性と子どもたちが避難を終えたことを感知し、その区画を外界から完全に隔離する。
これで、彼女たちは大丈夫。
サラはその事実を知らない。ただ静かに息を整え、玄関扉へ向かって歩き出した。その背中は小さく、華奢で。それでも、一歩たりとも迷うことはなかった。
ギィ……
重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。




