6
あの日から、一か月が過ぎた。
ヤンティーネとカスペルがブルームホフ離宮へ押しかけて以来、サラは一度も離宮の外へ出ていない。
天気の良い日には庭園を散策し、花々を眺めることを何よりの楽しみにしていたサラだったが、それさえも控えるようになった。
必要なものはすべて使用人たちが王都で調達し、離宮の者たちは、誰一人としてサラを一人で外へ出そうとはしなかった。
以前は孤児や使用人の子どもたちが自由に駆け回っていた離宮の門前にも、今はダーフィットが信頼を寄せる護衛騎士が昼夜を問わず配置されている。
来訪者は門前で身分を確認され、家令の許可なく敷地へ入ることはできない。
夜間の見回りも増やされ、窓や扉の施錠は何度も確認された。
それでも、不思議なほど何事も起こらなかった。
ヘイルトが再び姿を現すこともなければ、ヤンティーネやカスペルが怒鳴り込んで来ることもない。離宮の周囲を窺う不審者も見つからず、脅迫めいた書状が届くことさえなかった。
一日が過ぎ。
一週間が過ぎ。
さらに二週間が過ぎても、何も起こらない。
あまりにも静かだった。
その静けさが、かえって不気味に思えるほどに。
張り詰めていた使用人たちの表情も、日が経つにつれて少しずつ緩み始めていた。
サラも自室や居間で刺繍を進め、母からセラファンの礼儀や文化を学びながら、穏やかな日々を取り戻しつつある。
あと少しで十五歳の誕生日。
雪解けも進み、庭の木々には小さな新芽が顔を覗かせていた。
その日の朝。
ブルームホフ離宮の執務室では、ダーフィットとマリアアンシェが一通の書状を挟んで向かい合っていた。
差出人は、トローファスト国王トールヴァルト。
簡潔に記された文面には、イザークたち五人が無事にトローファストへ入国し、港へ向けて出発したことが記されていた。
王命によって護衛が追加され、港までの宿場と替え馬も手配されたという。さらに、港には最速の船を用意したともあった。
『可能な限りの便宜を図った。あとはセラファンから良い知らせが届くことを願う』
最後に添えられた一文を読み、ダーフィットは安堵したように息を吐いた。
「相変わらず、やることが早いな」
「トールヴァルト様には、いくら感謝しても足りませんね」
マリアアンシェも穏やかに微笑む。
「あの子たちも、順調に進んでいれば、もうセラファンへ入国している頃でしょうか」
「そうだな。トローファストが高速船を用意してくれたのなら、予定よりかなり早い」
ダーフィットは書状を丁寧に畳み、机の端へ置いた。
「東の入国管理局で君の腕輪を見せれば、事情を聞くまでもなく王宮へ連絡が入るだろう」
「ええ」
マリアアンシェは、腕輪のなくなった左手首へ無意識に触れる。長年身につけていたものが失われた感覚には、未だ慣れなかった。
それでも、後悔はない。
あの腕輪が五人の身分を保証し、兄たちのもとへ一刻も早く辿り着く助けになるのなら、惜しむ理由などなかった。
「お兄様が書状をご覧になれば、すぐに動いてくださいます」
「迎えを早めてもらえたとしても、到着は早くて一か月後くらいだろうか」
「国境門からこちらまでの距離を考えれば、そのくらいでしょうね」
あと一か月。
長いようで、これまで待った年月を思えば短い。
サラを無事に送り届けることができれば、ようやく肩の荷が下りる。寂しくないと言えば嘘になる。だが、セラファンならば安心して娘を託せる。
何より、マリアアンシェが心から信頼する家族と、幼い頃からサラを待ち続けている婚約者がいる。
「もう少しだな」
ダーフィットが静かに呟く。
「ええ。もう少しです」
マリアアンシェも微笑んだ。
その日の午後、二人は王都郊外にある農村の視察へ向かった。
春先の雪解け水によって川が増水し、畑の一部が被害を受けたという報告が入ったためである。
本来ならば役人を派遣するだけでも済む案件だったが、ダーフィットは自ら現地を見なければ判断できないと主張した。
マリアアンシェも、被害を受けた家々へ届ける衣類や薬を持参するため同行を申し出た。
護衛を増やすべきだという進言もあった。 しかし王都郊外への日帰り視察であり、道中も王家が管理する街道を通る。同行する護衛も、長年ダーフィットに仕えてきた者たちばかりだった。
何より、サラを離宮に残していく以上、護衛の大半を連れ出すわけにはいかない。二人は必要な人数だけを伴い、昼前に離宮を出発した。
視察そのものは滞りなく進んだ。
畑の被害は想定より広範囲に及んでおり、住民たちから直接話を聞き、今後の支援について役人たちへ指示を出しているうちに、予定していた時刻を大きく過ぎてしまった。
帰路に就いた頃には、太陽が山の端へ傾き始めていた。馬車の窓から差し込む光が、車内を赤く染めている。
「少し遅くなってしまいましたね」
マリアアンシェが窓の外へ目を向けた。遠くに見える王都の城壁は、夕暮れの中で黒い影のように連なっている。
「閉門までには間に合うだろう」
向かいに座るダーフィットは、懐中時計へ目を落とした。
「御者には少し急ぐよう伝えてある。サラも待っているだろうしな」
「今夜は焼き林檎を作ると、朝から張り切っていましたものね」
「それは急がねばならないな」
ダーフィットが冗談めかして笑う。その穏やかな笑顔を見つめ、マリアアンシェも小さく笑った。
この一か月、心のどこかに沈み続けていた不安が、少しだけ薄らいだような気がした。
セラファンへ書状は向かっている。
トローファストも力を貸してくれている。
離宮には信頼できる者たちが残り、サラを守ってくれている。
あと一か月。
ただ、それまで無事に過ごせればいい。
その時だった。
馬車が激しく跳ね上がった。
「きゃっ……!」
マリアアンシェの身体が大きく傾く。ダーフィットは咄嗟に腕を伸ばし、倒れかけた妻を抱き留めた。
直後、馬車は地面を抉るような音を立てながら大きく傾き、そのまま動きを止めた。
外から馬の鋭いいななきが上がる。
「何事だ!」
ダーフィットが叫ぶのと、御者の声が響いたのはほぼ同時だった。
「陛下! 車輪が――」
その声は、最後まで続かなかった。
ヒュンッ――
鋭い風切り音。
続いて、何かが馬車の外壁へ突き刺さる鈍い音が響いた。
一本ではない。
二本。
三本。
無数の矢が夕暮れの空を切り裂き、馬車と護衛たちへ降り注いでいた。
「敵襲!」
護衛の怒号が街道へ轟く。
剣が鞘から引き抜かれる音。馬の悲鳴。何者かが地面へ倒れる重い音。
たちまち辺りは、怒声と金属音が入り乱れる戦場へと変わった。
ダーフィットはマリアアンシェを座席の陰へ押し込むようにして抱き寄せ、自らの身体で覆い隠した。
「ここから動くな」
「ダーフィット様は……」
「大丈夫だ」
そう答えながら、腰に佩いた剣へ手を伸ばす。馬車の窓から外を窺うと、街道脇の林から黒装束の男たちが次々と姿を現していた。
顔は布で覆われ、誰一人として声を発しない。けれど、その動きには迷いがなかった。護衛の配置を把握し、逃げ道を塞ぎ、馬車へ近づく者を援護する。
明らかに訓練を受けた集団だった。
盗賊などではない。最初から自分たちの命だけを狙っている。その事実を悟った瞬間、ダーフィットの背筋を冷たいものが走った。
ドンッ!
突然、馬車の扉へ激しい衝撃が加わった。
マリアアンシェが息を呑む。
もう一度。
ドゴンッ!
分厚い木扉が軋み、斧の刃が内側へ突き出した。
三度目の衝撃と共に蝶番が弾け飛び、扉が外側へ吹き飛ばされる。夕暮れの冷たい空気が、血と土の匂いを伴って車内へ流れ込んだ。
黒装束の男が、剥き出しの剣を手に馬車へ踏み込んでくる。
ダーフィットは剣を抜き放った。狭い車内で刃と刃が激しくぶつかり合う。
一人を押し返す。
しかし、すぐ後ろから二人目が飛び込んできた。身体を捻り、突き出された剣を避ける。
背後にはマリアアンシェがいる。一歩も退くことはできなかった。
さらに三人目が加わる。
腕を押さえられ、剣を弾き飛ばされた。
「離せ!」
抵抗する間もなく馬車の外へ引きずり出され、硬い地面へ叩きつけられる。
息が詰まった。
起き上がろうとした脇腹へ、容赦なく剣が突き立てられる。焼けるような痛みが身体を貫いた。
「ダーフィット様!」
マリアアンシェの悲鳴が響く。振り向けば、彼女もまた数人の男たちによって馬車から引きずり下ろされていた。
「マリア!」
手を伸ばす。
だが、届かない。
護衛たちは既に大半が倒れていた。
なおも立ち続ける数人が必死に剣を振るっているものの、黒装束の集団は次々と押し寄せてくる。
やがて一人が膝をつき、続いてもう一人が倒れた。
ダーフィットとマリアアンシェは、引き離されたまま街道の上へ押さえつけられた。
剣が振り下ろされる。
一度。
二度。
身体の感覚が、少しずつ遠のいていく。血に濡れた視界の向こうで、黒装束の男たちが左右へ分かれた。
その間を、二つの人影がゆっくりと歩いてくる。見間違えるはずがなかった。
「……ヘイルト」
掠れた声が、喉の奥から漏れた。
弟は黒い外套を羽織り、倒れ伏す兄を見下ろしていた。その隣には、愉快そうに口元を歪めるカスペルがいる。
「ようやく終わりだな」
ヘイルトは満足げに笑った。
「長かった。父上も、貴様も、いつまで俺の邪魔をするつもりだったのだ」
ダーフィットは答えようとした。だが、口から漏れたのは言葉ではなく血だった。
「これで俺が王だ」
ヘイルトは両腕を広げ、夕暮れの空へ宣言するように声を張り上げる。
「黒髪こそが正統なる王家の証だ。色なし共に汚された王国を、俺が正しい姿へ戻してやる。そして、セラファンとの婚約もティーネのものになる」
カスペルが喉の奥で笑った。
「これであの小娘も、言うことを聞くしかねぇ」
ダーフィットは残る力を振り絞り、顔を上げた。
遠のきかけた意識の中に浮かんだのは、朝の食卓で笑う娘の姿だった。
刺繍を隠すように抱えていた、小さな背中。自分を見上げる、春色の瞳。
「……お前が……王に、なろうと……」
声は途切れ、呼吸をするたびに胸が痛んだ。それでも、言わなければならない。最後まで、娘の父でありたかった。
「サラの……婚約は……覆らない……」
ヘイルトの笑みが消えた。
「黙れ」
「サラで……なければ……ならない……」
「黙れと言っている!」
激昂したヘイルトが、傍らの男から剣を奪い取る。
「さっさと死ね!」
振り下ろされた刃が、ダーフィットの身体を貫いた。
大きく息を吐き、彼の身体から力が抜ける。それでも、その顔はマリアアンシェの方へ向けられていた。
瞳から光が失われる、その瞬間まで。
「ダーフィット様……」
マリアアンシェの声が震える。手を伸ばしても、二人の間には僅かな距離があった。その僅かな距離が、今は果てしなく遠い。
身体にはもう力が残っていなかった。呼吸をするたび、胸の奥から血が溢れる。視界も霞み始めている。
それでもまだ、伝えなければならないことがあった。
マリアアンシェは薄暗くなり始めた空を見上げた。姿は見えない。声も、もうほとんど聞こえない。契約は長い年月をかけて細くなり、守護天使の力は地上へ届かなくなっていた。
それでも、生まれた日から寄り添ってくれた存在が、今も傍にいることだけは分かっていた。
「……天使、様……」
震える唇から、掠れた声が零れる。
「お願い……」
意識が途切れそうになる。けれど、娘の顔を思い浮かべると、もう一度だけ力が湧いた。
「お兄様に……真実を……伝えて……サラを……」
あの子は、離宮で待っている。
父と母が、今夜も帰ってくると信じて。
焼き林檎を用意して。
笑顔で扉を開けるのを待っている。
「あの子を……守って、と……」
声にならないほど小さな願いだった。
それでも、確かに届いた。
マリアアンシェの傍らに漂っていた淡い光が、悲しむように大きく揺れた。
ヘイルトは苛立たしげに顔を歪める。
「まだ生きているのか。母子揃ってしぶといな」
カスペルが剣を持ち上げた。
「もう終わりだ」
最後の一撃が振り下ろされる。
マリアアンシェの身体から、静かに力が失われた。
その表情は不思議なほど穏やかだった。最後まで、娘の無事だけを願い続けた母の顔だった。
夕暮れの街道に、ヘイルトとカスペルの笑い声が響き渡る。
その傍らでは、誰にも気づかれることなく、小さな光の粒がふわりと空へ浮かび上がっていた。
弱々しく、今にも消えてしまいそうに揺れながら。
それでも光は、遠い南を目指して飛び始める。
ただ一つの願いを届けるために。




