5
重厚な馬車がブルームホフ離宮へと滑り込んだ。トローファスト国王トールヴァルトを見送り、穏やかな余韻が残る帰路だった。だが、その空気は離宮の門前を目にした瞬間、霧散する。
玄関前に横付けされた豪奢な馬車。見慣れた黒鷲の紋章。ヘイルト家の馬車だった。
ダーフィットの表情が険しくなる。胸の奥を、嫌な予感がよぎった。
「……まずい」
その小さな呟きに、隣のマリアアンシェも息を呑む。
「ダーフィット様……」
「すまない。先に行く」
言い終えるより早く、ダーフィットは御者が踏み台を用意するのも待たず馬車から飛び降りた。普段であれば、どれほど急いでいても妻を先に降ろすことはない。それほどまでに胸騒ぎがしていた。護衛たちも慌てて後を追う。
マリアアンシェも侍女へ小さく頷き、自ら裾を持ち上げて馬車を降りた。
離宮の扉を押し開いた瞬間だった。
「何をしている!!」
ダーフィットの怒声が玄関ホールへ轟く。そこに広がっていたのは、あまりにも痛ましい光景だった。
使用人たちが壁となるようにサラを庇っている。その向こうでは、ヤンティーネが平手を振り上げ、カスペルは拳を固く握り締めていた。あと一瞬遅ければ。誰もがそう思うほど危うい空気が流れていた。
全員の動きが止まる。
ヤンティーネだけが憎々しげに振り返った。
「うるさいわ! 黙って! 全部こいつが悪いのよ! ティーネが王太子妃になるの! この色なし! 化け物!」
堰を切ったように罵声が飛ぶ。
ダーフィットは静かに息を吐いた。ヘイルトだけを警戒していた。あの兄妹までここへ押しかけるとは思っていなかった。
甘かった。この離宮だけは安全だと、どこかで思い込んでいた。守れると思っていた離宮へ、この者たちは何の躊躇いもなく踏み込んできた。
その事実に、王としても父としても苦い後悔が胸を締め付ける。
「サラの婚約は覆らない」
低く、しかし揺るぎない声だった。
カスペルが鼻で笑う。
「お前が決めたんだろ。なら替えろ。ティーネを嫁がせりゃ済む話だ」
ダーフィットは静かに首を振る。
「違う。その婚約は父上とセラファン前国王陛下が、サラの誕生と同時に結ばれた盟約だ。今さら覆せるものではない」
ヤンティーネが目を見開いた。
「……セラファン? あの大国ですって?」
驚きは一瞬だった。すぐさま怒りがその表情を塗り潰す。
「なおさらよ! ティーネの方が相応しいじゃない! 譲りなさい! ティーネが王太子妃になるの!」
ダーフィットは淡々と告げる。
「サラだから選ばれたのではない。サラでなければならないのだ。サラはホーフダル王女であると同時に、セラファン王女マリアアンシェの娘。セラファン王家の血を引く王族でもある。だからこそ結ばれた婚約だ。替えることはできない」
「はっ」
カスペルは鼻で笑った。
「養女のそいつが娘可愛さに、ごり押ししただけだろ。色なしの言いなりとはな。セラファンも大したことねぇ。王家揃って頭がおかしいらしい」
その言葉に、マリアアンシェが静かに一歩前へ出る。
「わたくしは養女ではありません」
柔らかな声だった。それでも、その場にいた全員が思わず姿勢を正すほど凛としていた。
「何度も申し上げております。わたくしはセラファン王家の王女です。そしてサラもまた、セラファン王家に連なる王族。その事実は、何一つ変わりません」
カスペルは肩をすくめる。
「まだそんな嘘をつくか。身分を守るのも大変だな」
マリアアンシェは悲しげに目を伏せる。ほんの一瞬だけ。そして、静かに顔を上げた。
「……残念です。あなた方を、私の家族が歓迎することは決してないでしょう」
「歓迎されなくて結構だ」
カスペルは吐き捨てる。
「そんな国、こちらから願い下げだ」
もう話す意味はない。ダーフィットは静かに護衛へ視線を向けた。
「……帰れ」
その一言だけで十分だった。護衛たちが一斉に前へ出る。
「お帰りください」
「お離れ願います」
暴れる兄妹を数人がかりで玄関の外へ押し出していく。
「離しなさい! 無礼者!」
やがて重厚な扉が閉ざされた。
玄関前へ押し出されたヤンティーネは、憎しみに満ちた目で固く閉ざされた扉を睨みつける。拳が震える。
「……絶対に許さない」
低く呟いた声には、どす黒い憎悪が滲んでいた。
「嫁げない身体にしてしまえばいいのよ。そうすれば、ティーネが王太子妃になれるんだから。お兄様ならできるでしょう?」
その言葉に、玄関先へ付き従っていた使用人たちの顔から血の気が引いた。
カスペルは鼻で笑う。
「あんなガキに興味はねぇ。もう少し待て。その時が来れば、お前が王女になればいい」
兄妹は馬車へ乗り込み、砂煙を巻き上げながら離宮を後にした。
玄関前に残された使用人たちは、しばらく誰一人として言葉を発することができなかった。今、耳にした言葉が、あまりにも恐ろしく、現実とは思えなかったからだ。
兄妹を乗た馬車が砂煙を巻き上げながら走り去っていく。やがて車輪の音も遠ざかり、ブルームホフ離宮にはようやく静寂が戻った。
だが、その静けさは先ほどまでの穏やかなものとは違う。誰もが張り詰めた空気の中で立ち尽くし、しばらく言葉を失っていた。
ダーフィットはゆっくりと使用人たちを見渡した。
侍女は青ざめた顔のまま胸を押さえ、庭師は今なお拳を握り締めている。家令もまた、サラを庇った姿勢のまま立ち尽くしていた。皆、自分の娘を守るために身を挺してくれた者たちだった。胸の奥が痛む。ダーフィットは静かに頭を下げた。
「……皆、すまなかった」
王が頭を下げる。その姿に使用人たちは一斉に顔色を変えた。
「陛下、そのようなことは!」
「どうか、お顔をお上げください」
「皆のお陰で、サラは無事だった」
ダーフィットはゆっくりと顔を上げる。
「礼を言う。本当に、ありがとう」
その一言に、使用人たちも静かに頭を垂れた。その横で、マリアアンシェは震えるサラをそっと抱き寄せる。
「サラ……」
その温もりに、ようやく張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。それでもサラは小さく首を振る。
「皆様に、お怪我がなくて良かったです」
自分ではなく、まず使用人を案じる娘。マリアアンシェは胸が締め付けられる思いだった。
「ヒルダ」
静かに侍女を呼ぶ。
「サラを部屋へ」
「はい」
ヒルダが優しく手を添える。
サラは父を見上げ、不安そうに問いかけた。
「お父様……」
ダーフィットは娘の頭へそっと手を置いた。
「大丈夫だ」
穏やかに微笑む。
「少し話をするだけだから」
その笑みを見て、サラは小さく頷いた。ヒルダに付き添われ、ゆっくりと階段を上がっていく。その姿を見送ってから、ダーフィットは家令へ向き直った。
「執務室へ」
短く告げる。家令は深く一礼し、数名の使用人と共に後へ続いた。
執務室の扉が静かに閉じられる。
部屋にはダーフィットとマリアアンシェ。そして家令をはじめ、先ほど玄関にいた使用人たちだけが残された。
重い沈黙が流れる。やがて家令が意を決したように口を開いた。
「……陛下。実は、ご報告がございます」
ダーフィットは静かに頷く。
「申せ」
「兄妹が玄関を出た後のことです。扉が閉まったあと、私どもが見送りをしておりましたところ……」
家令は一度目を閉じた。思い返すだけでも恐ろしい。それほどの言葉だった。
「ヤンティーネ様が、玄関の扉を睨みながら仰いました」
『……嫁げない身体にしてしまえばいいのよ。そうすれば、ティーネが王太子妃になれるんだから。お兄様ならできるでしょう?』
部屋の空気が凍り付く。家令はさらに続けた。
「それに対し、カスペル様は……」
『あんなガキに興味はねぇ。もう少し待て。その時が来れば、お前が王女になればいい』
誰一人として口を開かなかった。ダーフィットの顔から血の気が引いていく。マリアアンシェも口元を押さえ、小さく息を呑んだ。
「……本気、なのか」
呟くような声だった。
誰も答えられない。だが、その場にいる全員が理解していた。
あの兄妹は、本気だ。
ダーフィットは固く目を閉じる。そして、ゆっくりと開いた。
「予定を変更する」
その声に迷いはなかった。
「イザーク。ヴィレム。ハンス。ユーリ。オットー」
五人の青年が同時に一歩前に出て、膝をつく。
「ここに」
ダーフィットは机へ向かい、便箋を広げた。ペンを執る手は静かだった。
だが、一文字一文字には娘を守りたいという父の願いが込められていた。書き終えると封をし、五人へ差し出す。
「セラファンへ届けてくれ。迎えを早めていただきたい。サラとマリアアンシェの保護をお願いしたいと」
五人は恭しく受け取る。その時だった。
「私も」
マリアアンシェが静かに席を立った。
別の机へ向かい、便箋を広げる。書状は天使文字。封筒には、兄ルイだけが理解できる秘匿の暗号。最後に左手へ触れる。
淡青銀ミスリルの王族腕輪。迷うことなく、それを外した。
「マリア!」
ダーフィットが思わず声を上げる。
「それは……!」
マリアアンシェは穏やかに微笑んだ。
「娘の方が大切です」
ただ、それだけを告げる。
ダーフィットは何も言えなかった。
その腕輪が、セラファン王族としてどれほど重い意味を持つものか、誰よりも知っていたからだ。
マリアアンシェは腕輪をイザークへ差し出した。
「これを、お兄様へ。きっと、この腕輪をご覧になれば、全て察してくださいます」
一拍置き、優しく微笑む。
「東の入国管理局でも、この腕輪とわたくしの封書をお見せなさい。事情を話せば、必ず便宜を図ってくださいます」
「……承知いたしました」
イザークは両手で大切そうに腕輪を受け取った。
ダーフィットも再びペンを取った。宛先はトローファスト国王トールヴァルト。書いたのは、わずか数行。
『この者たちへ便宜を図ってほしい』
それだけだった。余計な説明は不要。あの友なら理解してくれる。封を閉じ、イザークへ手渡す。
「もしトールヴァルトに追いついたなら、この書状を見せろ」
「はっ」
ダーフィットは五人を見回す。
「出発は明朝──」
言い終える前に、イザークが静かに口を開いた。
「いいえ。今すぐ発ちます」
ヴィレムたちも迷いなく頷く。ダーフィットは一瞬だけ目を伏せ、小さく頷いた。
「……頼んだ」
金袋を五人へ手渡す。
「必要最低限の荷だけ持て。休める時は必ず休め」
五人は深く一礼すると、そのまま部屋を後にした。やがて五頭の馬が夜の街道へ駆け出していく。
その背を見送りながら、ダーフィットは静かに呟いた。
「……あの子たちまで失うわけにはいかない」
隣でマリアアンシェも小さく頷く。
「ええ。お兄様なら、きっと察してくださいます」
月明かりの下。
五頭の馬は一刻も早くセラファンへ想いを届けるため、闇を裂くように駆けていった。




