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ブルームホフ離宮。
サラは、日差しが柔らかく差し込む窓辺で、静かに針を動かしていた。
膝の上に広げられた白い布へ、ひと針、またひと針。これは、ホーフダルを旅立つ日に父へ贈るための刺繍だった。
幼い頃からたくさんの愛情を注いでくれた父へ、感謝を込めて、一針一針、丁寧に糸を重ねていく。
窓の外では、残雪が陽光を受けてきらきらと輝いていた。
雪が解ければ、誕生日。
そして、旅立ち。
ホーフダルを離れたら、お父様と会う機会はあるのだろうか。母は嫁いでから、一度帰ることはなかったと聞いている。今回は私を送り届けるために一緒に来てくださる。
けれど、しばらくすれば、お母様はまたお父様の待つホーフダルへ戻られる。
セラファンには、お祖父様も、お祖母様もいらっしゃる。お伯父様方も、お伯母様方も。従兄弟の皆様も、待っていてくださるという。
婚約者である王太子殿下も、待っていてくださるとお母様は仰っていた。
それでも、お父様も、お母様もいない場所で暮らすのは、やっぱり、寂しかった。
婚姻式は来年の予定だ。その時は、きっと来てくださる。そう信じている。だから、それまでの少しの間だけ。頑張ろう。
サラは縫いかけの刺繍をそっと撫で、小さく微笑む。布には、雪をいただくヘーメルルフと、その麓に咲く小さな白花が少しずつ形になり始めていた。
「……お父様、使ってくださるかしら」
そう呟く指先は、もう一度静かに針を取った。ブルームホフ離宮は、穏やかな午後を迎えていた。
窓から差し込む陽光は暖かく、厨房からは焼き菓子の甘い香りが漂ってくる。そろそろ午後のお茶の支度が整う頃だった。
その穏やかな午後を――
ガラガラガラガラッ!!
静寂を切り裂くような轟音が離宮中へ響き渡った。
「何事です!?」
庭師が思わず窓の外へ目を向ける。数頭立ての豪奢な馬車が砂埃を巻き上げながら正門へ突っ込み、石畳を軋ませながら乱暴に急停車した。
馬が甲高くいななく。
玄関前で待機していた使用人たちが一斉に駆け寄った。だが、馬車の扉が開くより早く怒声が飛ぶ。
「遅いわ!」
勢いよく降り立ったのは、真紅の巨大なドレスを纏ったヤンティーネだった。
幾重ものパニエで膨らんだ裾を揺らし、高く結い上げた黒髪の宝飾りを鳴らしながら、苛立たしげに辺りを見回す。その後ろから兄カスペルも大股で降りてきた。
「サラを呼びなさい! 今すぐよ!」
玄関へ駆け寄った家令が深く一礼する。
「ようこそお越しくださいました、ヤンティーネ様、カスペル様。姫様へお取次ぎいたしますので、どうぞ応接間へ――」
「待つわけないでしょう!」
ヤンティーネは家令の言葉を遮った。
「ティーネは起きて早々、わざわざ来て差し上げたのよ! 何をぐずぐずしているの!」
家令は一瞬だけ目を瞬かせた。
「左様でございましたか」
穏やかな笑みを崩さぬまま、窓の外へ視線を向ける。
「ただいま午後のお茶の刻でございますので……。それでは、お目覚めは二時間ほど前でございましたか」
その場が一瞬静まり返る。
「なっ……!」
ヤンティーネの頬が引きつった。
「嫌味ですの!?」
「いえ」
家令は首を横に振る。
「時刻を申し上げただけでございます」
「このっ……! 生意気な平民が!!」
ヤンティーネが一歩踏み出そうとした瞬間。
「ティーネ」
隣のカスペルが鼻で笑う。
「こんな愚民を相手にするだけ無駄だ。おい」
使用人たちを睨みつける。
「さっさとサラを連れて来い。邪魔をするな。愚民風情が。平民ごときが俺たちを待たせるとは、いい度胸だな」
冷たい声に、使用人たちの肩が震える。それでも誰一人として道を開けようとはしなかった。
「姫様へは、こちらからお声掛けいたします。どうか、お待ちください」
家令が静かに頭を下げる。
「待てと言って待つものですか!」
ヤンティーネはヒールを鳴らして床を踏みつけた。
「ティーネ自ら来て差し上げたのよ! さっさと出て来なさい!」
怒声は離宮中へ響き渡った。
その頃、二階の自室で刺繍をしていたサラの肩が、小さく震えた。
「……っ」
聞き慣れた声だった。胸の奥が、すっと冷たくなる。
まただ。また、怒鳴られる。
行かなければ、使用人たちへ怒りが向く。行けば、自分が罵られる。どちらを選んでも苦しい。それでも、サラは静かに針を置いた。
「……参ります」
「姫様!」
ヒルダが慌てて引き留める。
「お出になってはいけません!」
サラは小さく首を振った。
「皆にご迷惑をお掛けするわけにはまいりません。ヒルダは降りてきてはいけませんよ」
そう言って静かに立ち上がる。
その表情には、不安と諦めが入り混じっていた。
階段をゆっくりと降りてきたサラの姿に、その場の視線が一斉に集まった。
「姫様……!」
使用人たちが心配そうに振り返る。サラは皆を安心させるように小さく微笑み、そのまま玄関ホールへ歩み出た。ヤンティーネとカスペルの前で静かに一礼する。
「ヤンティーネ様。カスペル様。本日はどのようなご用件でしょうか」
穏やかで乱れのない所作。
その姿が、ヤンティーネの癇に障った。
「決まっているでしょう!」
甲高い声が離宮へ響く。
「婚約を辞退しなさい! ティーネが嫁ぐの! ティーネが王太子妃になるのよ! あなたは辞退すればいいの!」
サラはゆっくりと顔を上げた。
「……申し訳ございません。その願いを、お受けすることはできません」
「なぜよ!」
ヤンティーネは一歩踏み出す。
「変わりなさいと言っているでしょう! この色なし! 化け物みたいな目をして! そんな目で誰かに愛されるとでも思っているの!? ホーフダルの恥よ!」
サラは静かに首を横へ振る。
「婚約は、私一人の意思で決められるものではございません。両国王家の約定です。私には覆すことはできません」
「言い訳なんて聞いてないわ!」
ヤンティーネが怒鳴り散らす。
その横で、カスペルが鼻で笑った。
「おい、色なし。さっさと辞退しろ。ティーネの方が百倍相応しい。それとも何だ? 相手はそんな貧相な身体が好みの変態野郎なのか? どこの国の王太子か知らねぇが、見る目のねぇ男だ」
その瞬間。サラの表情が、わずかに曇った。自分を侮辱されることには慣れていた。けれど、まだ一度も会ったことのない婚約者を侮辱されることだけは、聞き流すことができなかった。
翠の瞳が、真っ直ぐカスペルを見据える。
「……そのような無礼なお言葉は、お慎みください」
静かな声だった。けれど、その場にいた誰もが息を呑むほど、凛としていた。
「王太子殿下は、そのようなお方ではございません。私は、まだお会いしたことはございません。ですが、お母様より何度もお話を伺っております。ご立派で、お優しいお方だと。そのようなお方を侮辱することは、お許しできません」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「黙りなさいっ!!」
ヤンティーネが叫び、勢いよく腕を振り上げた。
「姫様!!」
使用人たちが一斉に動く。
家令が、侍従が、料理人が、庭師が、薬師が。誰一人としてためらうことなくサラの前へ飛び出した。降りてくるのを禁じたはずのヒルダまで。
「お下がりください!」
「姫様!」
「お怪我をなさいます!」
振り下ろされた腕を受け止めようとした、その時。
「平民風情が!」
今度はカスペルまでもが拳を振り上げた。
「主人に逆らうな!」
玄関ホールの空気が一変する。誰もがサラを庇おうと身を挺した。
それでも二人は止まらなかった。目の前に立つ使用人たちごと、力ずくで押し通ろうとした。




