幕間 会談・一
アンジェリーヌ救出から二か月後。
セラファン王国とホーフダル王国による、賠償請求のための正式会談が開催されることとなった。
会場はホーフダル王宮、玉座の間。
中央には特別に設えられた長机と椅子が並べられ、両国の文官たちが慌ただしく最後の確認を行っている。
その様子とは対照的に、玉座に座るヘイルトたちの表情は明るかった。
「やっと来たか」
ヘイルトは満足そうに笑う。
「ティーネとの婚約の件ですもの」
ヤンティーネが嬉しそうに扇を揺らした。
「贈答品を選ぶのに時間がかかったのでしょう」
カスペルも口角を吊り上げる。
「あんなガキでも、セラファンの王女なら我慢してやるさ」
その言葉に、ホーフダルの文官たちは顔を見合わせた。誰一人として笑う者はいない。むしろ、今にも胃を押さえて倒れそうな者までいる。
(お願いです……)
(どうか、それ以上お話しになりませんように……)
重苦しい空気の中、衛兵が高らかに告げた。
「セラファン王国使節団、御到着!」
玉座の間の扉がゆっくりと開かれる。
先頭を歩くのは、落ち着いた佇まいのアンリ。その半歩後ろにジャンとシャルル。さらに数名の文官が続く。三人は玉座の前まで進むと、礼節に則った一礼をした。
それを見たヘイルトたちは、三人の髪色を見ただけで侮蔑の色を隠そうともしない。
その瞬間、ホーフダルの文官たちの顔色が、一斉に青ざめた。
(……やめてくれ)
(まだ何も始まっていないのだ)
「よく来た」
ヘイルトは背もたれへふんぞり返ったまま顎をしゃくる。
「まあ、座れ」
アンリは表情一つ変えず、儀礼的に一礼すると静かに席へ着く。ジャン、シャルルもそれに続いた。
セラファン側の文官が一歩前へ進み出る。
「本日、書記を担当いたします。ルロワ、ポワレ、コクトーでございます」
三人が揃って一礼する。続けて、代表者を紹介した。
「こちらは、トゥロンヌ公爵にしてセラファン王国宰相、アンリ閣下」
「宰相補佐、ジャン公子殿下」
「アルカンジュ公爵にしてセラファン第二王子、シャルル王子殿下でございます」
紹介が終わると、玉座の間は一瞬だけ静寂に包まれた。ホーフダルの文官たちは、その顔ぶれに静かに息を呑む。
(宰相自ら……)
(それだけではない)
(公子殿下に、第二王子殿下まで)
(……セラファンは、本気だ)
「第二王子?」
ヘイルトは眉をひそめた。
「国王と王太子は来ないのか」
アンリは静かに答える。
「今回の会談に、そのお二方がご同席される必要はないと判断いたしました」
「必要ないだと?」
ヘイルトが鼻で笑う。
「あるだろう。ティーネと王太子の婚約。サラをカスペルの第三妃にしてやる件だ。当事者が来なくてどうする。我らを馬鹿にしているのか」
玉座の間が静まり返る。ホーフダルの文官たちは一斉に俯いた。
(始まった……)
アンリは一つ頷く。
「なるほど。ようやく誤解の原因が分かりました」
「誤解?」
「はい。本日の会談は、そのような内容ではございません」
「何?」
「本日は」
アンリの声音は終始穏やかだった。
「セラファン王国よりホーフダル王国へ請求する賠償につきまして、ご説明に参りました」
「……賠償だと?」
「はい。婚約について協議する予定は、一切ございません。また。アンジェリーヌ王女殿下は、現在も療養中でいらっしゃいます。レオナール王太子殿下も、婚約者のお側を離れるおつもりはございません。従いまして、本会談へのご出席は不要と判断いたしました」
シャルルは穏やかな笑みを浮かべたまま、腕輪から一枚の書類を取り出し、卓上へ置いた。
それは、二枚のミスリル板に挟まれ、精緻な封印術式が幾重にも施された書類だった。
「その件ですが。皆様、何か誤解をなさっているようですので、ご説明いたします」
にこり、と微笑む。
「こちらは、レオナール王太子殿下とアンジェリーヌ王女殿下の婚約誓約書の原本でございます」
「げ、原本だと!?」
ヘイルトが目を見開く。
「はい。ご覧のとおり、改ざん防止、破損防止、耐火、耐水、耐汚染など、複数の保護魔法が施されております」
「……」
「あ、お手を触れになりませんよう。承認者以外は触れることもできませんので」
さらりと言って微笑む。
「まずこちらをご覧ください」
細い指先が署名欄を示す。
「こちらがレオナール王太子殿下のご署名」
誓約書には長い正式名が美しい筆跡で記されていた。
「レオナール王太子殿下のご署名は、ご本人の直筆であり、魔力登録も完了しております。そしてこちら。アンジェリーヌ王女殿下は当時まだ乳児でいらっしゃいましたので、ご署名は母君マリーアンジュ王妃殿下が代筆されています」
こちらにもアンジェリーヌの長い正式名が流麗に記されていた。
「ですが、魔力登録は、アンジェリーヌ王女殿下ご本人のものでございます」
シャルルは淡々と次へ進む。
「保護者として、セラファン前国王フェリクス陛下。現国王ルイ陛下。ホーフダル前々国王ドミニクス陛下。前国王ダーフィット陛下。以上四名の署名と魔力登録がございます」
玉座の間が静まり返る。
「さらに立会人として、オンラード前国王フェルナンド陛下。アルモニ前国王フランソワ陛下。こちらも署名、魔力登録ともに確認済みです」
シャルルはにこやかなまま締めくくる。
「つまり、レオナール王太子殿下と、六名の国王陛下によって承認された正式な婚約でございます」
ヘイルトの表情が引きつる。
しかしシャルルは止まらない。
「そして、こちらが重要になります。誓約書には、『ホーフダル王女』という記載はございません。『セラファン王太子』という記載もございません。婚約しているのは、レオナール様。そして、アンジェリーヌ様。お二人個人でございます」
静寂。
「従いまして。アンジェリーヌ様がホーフダル王女位を失われようとも、ホーフダル王女がヤンティーネ様へ変更されようとも、本婚約には一切影響いたしません」
にこり。
「当然ながら、すでに正式な婚約が成立しておりますので、アンジェリーヌ様が、レオナール様以外の方と婚約される理由はございません」
一拍置き、シャルルは穏やかな笑みのまま続ける。
「なお、婚約相手の変更には、婚約当事者双方の合意に加え、誓約書へご署名くださった承認者全員による再承認が必要と定められております」
静かな声で、まるで契約条文を読み上げるように告げる。
「承認者は、先ほどご説明いたしました六名の国王陛下でございます」
そこまで述べると、シャルルは口元に穏やかな笑みを浮かべたまま締めくくる。
「以上が、本誓約書に定められた手続きでございます」
玉座の間が、水を打ったように静まり返る。ホーフダルの文官たちは一斉に俯いた。
(ダーフィット陛下が、婚約者はサラ姫様だからだとおっしゃっていたのはこれが理由か)
(……書簡を送るのはやめてくと、あれほど言ったのに!)
(ドミニクス陛下も、ダーフィット陛下も、フランソワ陛下も、すでに崩御なさっている……)
(再承認など、不可能だ……)
当のヘイルトだけが、その意味を理解できず眉をひそめる。シャルルはそんな反応など意にも介さず、にこりと微笑んだ。
「婚約解消も、婚約者の変更もありえません。ましてや──」
ほんのわずかに笑みが深くなる。
「第三妃になる理由は、なおさらございません」




