幕間 愚者は薄氷を知らず
処刑場からサラが消えた後のホーフダルは、まさに混乱の坩堝と化していた。
翼を持つ青年たちが空から舞い降りる。四枚もの翼を広げた青年は、セラファン王太子だという。それだけでも信じ難い光景だった。
さらに一人の青年は、ホーフダル語で高らかに宣言した。最初は何を言っているのか分からなかった。
だが二度目の宣言は、その場にいた誰一人として聞き漏らすことはなかった。まるで声そのものが耳元で響いたかのように、広大な処刑場の隅々まで、等しく届いたその声に、人々は言葉を失う。
そして、さらに、青年が高々と掲げた一枚の書状。
離れた場所にいたはずなのに、その文字は不思議なほど鮮明に目へ飛び込んできた。
理解できた者は多くない。書かれていたのは、ホーフダル語ではなくセラファン語だったからだ。だが、貴族席の一角では、顔色を失う者たちがいた。
外交官。紋章官。一部の文官。そして、セラファン語を解する者たち。彼らは瞬時に理解した。セラファン語を読める者は、その内容を。
外交官や文官は、玉璽と署名が紛れもなく本物であることを。
紋章官は、用紙に描かれた紋章が間違いなくセラファン王家のものであり、さらにセラファン国王の印まで押されていることを。
その意味を理解した瞬間、血の気が引いた。
「……終わった……もう、おしまいだ……」
ある者は崩れ落ち。
「どうすればいいのだ……」
ある者は呆然と立ち尽くし。
「なんで止めなかったのだ……」
ある者は悔恨に震えた。
そして──
「ええい! 何をしている! 探せっ! 探すのだ!!」
「わけの分からねぇ紙なんぞ掲げやがって! どうせ偽物だ!」
「ティーネが王女だ! 婚約者もティーネだ!」
「国境侵犯で訴えろ!」
「とっとと探せっ!」
新たな王家の者たちは、現実を受け入れられぬまま、口汚く怒鳴り散らすばかりだった。彼らだけが、まだ理解していなかった。
もはや問題は、サラを逃がしたことではない。セラファン王国を敵に回したことなのだ。
ホーフダル王国王城。
玉座の間には、重苦しい空気が流れていた。
「──ノールスケン王国より書状にございます!」
使者から受け取った文官が顔色を変える。
「陛下……これは……」
「読め」
ヘイルトが苛立たしげに顎をしゃくる。文官は震える声で読み上げた。
「ノールスケン王国は、本日をもってホーフダル王国との国境を閉鎖する。併せて、王家との一切の往来を停止し、今後の交易についても全面的な見直しを行う──」
「馬鹿馬鹿しい!」
最後まで聞かず、ヘイルトが一蹴した。
「ダーフィットの外戚だから肩を持っているだけだ! 余が王になったのが気に入らぬのであろう!」
ヤンティーネも鼻で笑う。
「悔しいのでしょうね。ティーネが王女になったのですもの。放っておけばよろしくてよ」
二人は顔を見合わせて笑う。しかし、居並ぶ文官たちは誰一人笑えなかった。
(違う……)
(これは私情ではない)
国境閉鎖。それは国家が発する、最大級の警告だった。
それから半月。再び玉座の間に緊張が走る。
「トローファスト王国より書状です!」
封蝋を見た瞬間、外交官たちの表情が凍りついた。読み上げられた内容は簡潔だった。
ホーフダル王国への優遇措置を、本日をもってすべて終了する。
関税優遇。宿場の優先利用。補給支援。緊急時の便宜。そのすべてを通常の国交へ戻す。
「……ふざけるな!」
ヘイルトは書状を握り潰した。
「何だこれは! 余を馬鹿にしているのか!」
クサンドラも甲高い声を上げる。
「トローファストもダーフィットのびいきだっただけでしょう! 嫌がらせですわ!」
文官たちは俯いた。トローファストは感情で動く国ではない。優遇措置とは、国に与えられるものではなく、信頼に与えられるものだ。その信頼が失われた。ただ、それだけのことだった。
そんな重苦しい空気など意にも介さず、カスペルが笑った。
「色なしの、色気もねぇガキだが」
酒杯を揺らしながら口角を吊り上げる。
「王女って肩書だけは使える。本当にセラファンの王女ってんなら、俺の第三妃くらいにはしてやってもいい。ありがたく思うだろ」
外交官の顔から血の気が引く。ヤンティーネは嬉しそうに身を乗り出した。
「でしたらティーネはセラファン王太子妃ですわ! ティーネが王女なのですもの! 婚約者はティーネでしょう? そうでしょう、お父様!」
「うむ!」
ヘイルトは満足げに頷いた。
「それがよい。ティーネを王太子妃に。サラはカスペルの第三妃として迎え入れてやろう。セラファンも文句はあるまい。ありがたく受け入れるはずだ」
玉座の間から音が消えた。誰も、何も言えない。老文官は静かに目を閉じる。
(……終わった)
(この書状が届いた瞬間、セラファンとの交渉の道は閉ざされる)
(この方々は、本当に何も分かっておられない)
セラファンが救い出したのは、政略結婚の駒ではない。王女であり。愛し子であり。マリアアンシェ王妃の忘れ形見だからだ。その意味を、この王家は誰一人理解していなかった。
「書状を書け」
ヘイルトが命じる。
「ティーネを王太子妃に迎え、サラはカスペルの第三妃として迎え入れる。ありがたく思うよう伝えよ」
外交官が反射的に一歩踏み出した。
「陛下、お待ちください。そのような内容は――」
「黙れ」
ヘイルトは一喝した。
「余は国王だ。余の書状に文官の確認など必要あるまい。すぐ送れ」
逆らうことは許されなかった。
数日後。その書状は、はるか南――セラファン王国へと届けられることになる。
それが、北方諸国だけでなく、大陸全土を敵に回す、新たな火種になるとも知らずに。
それから半月。北方諸国から、次々と抗議文が届く。
国交停止。交易停止。国境封鎖。使節受け入れ停止。
机の上へ積み上がる書状を前にしても、ヘイルトは怒鳴るばかりだった。
「揃いも揃って反抗しおって! どうせノールスケンに唆されたのだ! 放っておけ!」
その声を聞きながら、ある老貴族は静かに項垂れた。
(……いい加減、現実をご覧ください)
(皆がダーフィット陛下を慕っていたのではない)
(皆が、貴方を王と認めなかったのです)
誰も口にはしない。いや、口にできなかった。
その現実を、ただ一人理解できない男が、今日もなお、ホーフダルの玉座に座っていた。




