幕間 トローファスト
アルヴェリア大陸北部。
ヴァルミール大山脈の北側に広がる北方諸国。その最東端、ヴァルミール東嶺より東は、すべてトローファスト王国の領土である。
北方諸国では最大の領土を持つが、大陸全体では中堅国に位置する。しかし、セラファン王国と海路で結ばれる唯一の北方国家であり、北方諸国が東回りでセラファンへ向かう際には必ず通過する交通と外交の要衝でもあった。
そのトローファスト王国へ、この日、三通の報せがほぼ同時に届こうとしていた。
国王トールヴァルトは、執務机に向かい、一通の書状をしたためていた。
宛先は、隣国ホーフダル王国国王――盟友ダーフィット。
一月半前、ダーフィットはセラファン王国へ使者を送り、その道中ではトローファストも便宜を図っていた。使者はすでにセラファンへ到着している頃合いだ。そろそろ先触れか、あるいはセラファンから正式な使者が訪れるだろう。
ペンを置き、静かにインクが乾くのを待つ。窓の外には、北の遅い春の景色が広がっていた。
「一度、様子を見に行きたいところだが……」
セラファンからの迎えが早まる可能性もある。その時に備え、受け入れの準備や各所への指示を考えれば、今は国を空けるわけにはいかなかった。
あの日、ヘイルトが見せたあの異様なまでにぎらついた目だけが、どうにも胸に引っ掛かる。
「……いくら何でも、セラファン相手に馬鹿な真似はすまい」
そろそろインクも乾いただろう。書状へ視線を戻した、その時だった。コンコン、と扉が叩かれる。
「入れ」
「失礼いたします。陛下、ホーフダルの密偵より急報が届いております」
文官が差し出した書状の封蝋は、至急を示す赤。その色を目にした瞬間、トールヴァルトの胸に嫌な予感が走った。
封を切り、書状へ目を落とす。記されていたのは、わずか数行。
ダーフィット国王陛下、崩御。
マリーアンジュ王妃殿下、崩御。
ヘイルト即位。
詳報後送。
日付は二十日前。
何が、あったというのだ。病か。事故か。二人同時だったのか。それとも、日を違えて――
最悪の事態も脳裏をよぎる。だが、それだけは考えたくなかった。
「陛下?」
「情報部を呼べ──」
ダンダンッ!
荒々しく扉が叩かれる。トールヴァルトは眉をひそめた。
「入れ」
「失礼いたします! ホーフダルより特急伝令です!」
差し出された書状を奪うように受け取り、封を切る。よほど急いで書いたのだろう。書状の文字は乱れていた。
サラ王女処刑未遂。
処刑寸前、セラファン王国王太子レオナール殿下ら六名が空より出現。
レオナール殿下は四翼、他五名は二翼を顕現。
内一名がサラ王女の素性を公表。
サラ王女、本名アンジェリーヌ王女殿下。
セラファン王女位を有することを宣言。
救出後、一瞬にして姿を消失。
読み終えたトールヴァルトは、目を見開いた。
あり得ない。
最初に浮かんだのは、その一言だった。セラファン王家に連なる王女を処刑しようとした。何という暴挙か。続く報告に目を走らせる。そこに記されていた事実に、安堵と驚愕が入り混じった。
「……馬鹿なことをしたものだ」
サラ姫――否、アンジェリーヌ王女殿下。
いずれにせよ、これでホーフダルはセラファンを敵に回した。そして、おそらく――
「ダーフィットとマリーアンジュ様を殺めたのは……あいつか」
心の奥が、すうっと冷えていく。確たる証拠はない。それでも、分かる。分かってしまう。
「……ここまで愚かだったとは」
トールヴァルトは立ち上がる。
「国境警備隊へ伝達」
「はっ」
「国境警備を最大警戒態勢へ」
「承知――」
コンコン。
「陛下。セラファン王国より、使者がお見えです」
「……そうか。お通ししろ」
やがて使者から正式な告知文を受け取ったトールヴァルトは、静かに目を通し、大きく息をついた。
そこに記されていたのは、
ダーフィット国王暗殺。
マリーアンジュ王妃暗殺。
アンジェリーヌ王女殿下救出。
そして――ヘイルト政権を正統政府として承認しないという、セラファン王国の明確な意思。
末尾には、こう結ばれていた。
先日は我が国の使節への格別のご配慮を賜り、深く感謝申し上げます。
「……やはり、そうだったか」
点と点が、一本の線として繋がる。本当に、馬鹿なことをしたものだ。ヘイルトは、セラファンを敵に回すという意味を理解しているのだろうか。
「……いや、理解していたならば、こんな真似はできまい」
トールヴァルトは一度静かに目を閉じた。そして再び開くと、迷いなく命じる。
「ホーフダルとの国境を封鎖せよ。王族および貴族の入国を一時停止。商人は厳格な検査を行え。ヘイルト政権は認めない。抗議文を作成し、各国にも通達せよ」
「はっ!」
「それと……ホーフダルへの優遇措置を、すべて打ち切れ」
側近たちが息を呑む。
「陛下……」
「構わん」
迷いのない声だった。
「あれはホーフダルという国に与えていたものではない。ダーフィットと、マリーアンジュ様がおられたからこそ続けていた友誼だ。ヘイルトには必要ない。通常の国交へ戻せ。関税、通行、補給、宿場の優先使用……すべてだ」
一拍置き、続ける。
「ただし、民を飢えさせるつもりはない。難民は受け入れる。正当な商人との交易も止めるな。必要であれば国民への援助も行え。ただし、貴族や王族に搾取されぬよう徹底しろ。王家への便宜は、一切不要だ」
「……はっ!」
側近たちは一斉に動き出した。
やがて執務室は静寂を取り戻す。一人残されたトールヴァルトは、そっと目頭を押さえた。
込み上げるのは、盟友を失った悲しみ。救えなかった悔しさ。もっと強く忠告すべきだったという後悔。
「ダーフィット……」
お前は、甘かった。民を守り、娘を守り抜いた。そして――かけがえのない友だった。
「もっと強く言っていれば……」
お前は、今も笑っていたのだろうか。
トローファスト王国は、この日を境に外交方針を大きく転換する。それは後に「ホーフダル革命」を支える、大きな転機の一つとなった。
数日後、今度はホーフダル西方のノールスケン王国より、一通の書状が届く。
送り主は、国王シーグルト。
そこには、ダーフィット国王夫妻の崩御に疑念を抱いたこと、セラファン介入の兆候、ヘイルト政権とは距離を置くべきとの判断、そして自国もホーフダルとの国境を閉鎖し、交易を停止したことが記されていた。
「セラファンの正式通達より前に書かれたものか」
トールヴァルトは静かに頷く。
「さすがだな。シーグルト殿は」
ダーフィットの伯父である男もまた、事態を正しく見抜いていた。トールヴァルトは自国の対応を書状に認め、早馬を走らせる。
「セラファンからの通達と、ほぼ同時に届くだろうが……」
東西の国境を閉ざされたホーフダル。
いや――ヘイルトか。
「結末は、見えているな」
──滅びへの道を、自ら選んだのだから。




