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幕間 兄たちの夜

 セラファン王宮都市最奥部。

 堅牢な内壁に囲まれた王族特別区(天苑)。

 その一角に広がる王弟離宮群(外苑)の一つ、プランシポーテ公爵邸。

 ガルディアン北国境伯家へ婿入りした末弟ルネの屋敷では、その夜、執務を終えた四兄弟が静かに食卓を囲んでいた。

 誰も口数は多くない。食卓に響くのは、時折カトラリーが皿へ触れる小さな音だけ。

 あまり、食は進まなかった。健啖家のジョゼフでさえ、珍しく途中でカトラリーを置いてしまう。やがて食事を終えると、誰からともなく居間へと場所を移した。


 静かな夜だった。


 彼らが今夜ルネの屋敷へ集まったのには理由がある。

 ルネの妻ブリジットは、現在北国境伯領に滞在していた。爵位は夫であるルネが継承しているものの、ガルディアン家は元々ブリジットの生家である。

 家政をはじめとした細やかな差配は彼女が担い、王都と北を行き来するルネとは対照的に、ブリジットは北で過ごすことが多かった。

 アンリのトゥロンヌ公爵邸には、妻アデライドと、ジャンの妻子がいる。ジョゼフのピィサンス公爵邸には、妻コンスタンスが。

 そして、ルイが暮らす熾天宮には、王妃フェリシエンヌをはじめ、息子たちや甥たちが勢揃いしているはずだった。母エレオノールも、今夜は熾天宮で休むだろう。


 何より──アンジェリーヌがいる。


 ようやく救い出したあの子だけは、今夜くらい穏やかに眠らせてあげたかった。

 だから今、この屋敷には兄弟以外、誰もいない。今夜だけは、誰にも気を遣わず、兄弟だけで過ごしたかった。

 ただ、それだけのことだった。


 グラスへ酒を注ぎ、ゆっくりと口へ運ぶ。けれど、その味は分からない。酒を飲んでも、酔えそうで酔えなかった。

 重い沈黙だけが、静かな部屋を満たしていた。


「……マリー」


 ルイがぽつりと、妹の名を呼んだ。

 押し殺すような、小さな声だった。


 ――ぽたり。


 大粒の涙が、グラスの中へ落ちる。

 十二歳離れた、大切な妹。産声を上げたあの日のことを、今でも鮮明に覚えている。

 男児しか生まれないセラファン王家に生まれた、奇跡の娘。

 天使の愛し子。

 セラファン王家の希望。

 小さくて、可愛くて。皆で大事に育てた、たった一人の妹。


 ──必ず守る。


 あの日、幼い胸にそう誓ったはずだったのに。


「守れなかった……」


 絞り出した声には、後悔も、悲しみも、悔しさも、怒りも──

 そして何より、自分自身への深い憤りが滲んでいた。


 重い沈黙が落ちる。


 やがて、ジョゼフがぽつりと口を開いた。


「……俺たち、約束したよな」

「しましたね。何度も、何度も……」

「マリーの、笑顔を守るのだと」

「傷一つつけるもんかって。泣かせたりしないって……」

「マリーの幸せを、守るのだと……」


 アンリがぐいっと酒を流し込む。いつもなら、絶対にしない呑み方だ。ジョゼフも釣られるように煽った。


「あの子を守るために、私は強くなると誓いました。北へ婿入りしたのも、愛する妻と共に歩みながら、さらに己を鍛えられると思ったからです」


 一度だけ、目を閉じる。


「……あの転移陣も。使いたく、なかった……」


 ドン、と酒瓶が机へ置かれる。いつの間にか、中身は空になっていた。やがて、誰からともなく嗚咽が漏れた。堪えていたものが、とうとう決壊する。


 国王、宰相、将軍、北国境伯。


 そんな肩書きなど、この夜だけは何の意味もなかった。


 そこにいたのは──


 たった一人の妹を愛した、四人の兄だけだった。

 四人は声を上げて泣いた。やがて涙も枯れ果てた頃。

 空になった酒瓶だけが、机の上へ何本も転がっていた。


「……アンジェだけは」


 ルイが静かに呟く。


「もう二度と、誰にも奪わせん」

「ああ」


 ジョゼフが力強く頷く。


「今度こそ守る」

「何があっても」


 アンリは、いつの間にか結わえていた髪を解いていた。それだけで、酒の回り具合が知れた。それほどまでに、この夜は酒が回っていた。


「今度は、四人だけではありません。息子達もおります。天使様方も、おられます」

「ええ」


 ルネも静かに頷く。


「アンジェは、皆で守りましょう」


 しばらく静かな時間が流れた。


 やがて、少し落ち着きを取り戻した頃、ルネはグラスに残っていた酒を一息に飲み干し、ぽつりと呟いた。


「……兄上、聞いてくださいよ」


 三人が顔を上げる。


「何だ」


 ルイが静かに問い返す。


「いや……救出の帰りなんですが」

「帰り?」


 アンリが首を傾げる。


「何かあったのか」


 ジョゼフも怪訝そうに眉を寄せると、ルネは深々とため息をつく。


「ありましたとも。天幕を片付けようとしたらですね。ミカエル様が『時間が惜しい』と仰って。ウリエル様が『収納した。来い』と。レオナールと融合したまま、声だけが響くんです。私、まだ何も言ってないんですよ?」


 三人は揃って黙り込んだ。


「ありがとうございます、くらい言わせてくださいよ。なのに」


 ルネは二人の口調を真似るように低い声を作る。


「『もたもたするな』『急げ』ですよ!」


 堪えきれず、ジョゼフが吹き出した。


「ぶっ……はははっ!」

「笑い事じゃありません!」


 ルネは思わず机を叩く。アンリも口元を押さえ、肩を震わせる。ルイまで小さく笑っていた。


「……らしいな」

「非常に」


 アンリも苦笑する。


「不器用ですね」


 ルネは頬を膨らませた。


「そうなんですよ。もう少し言い方というものが……」

「だが」


 ルイが静かに口を開く。


「それだけ急いでおられたのだろう。アンジェのためにな」


 ルネは一瞬だけ黙り込み、小さく息を吐いた。


「……それは、分かっています。だから文句も言えないんですよ。余計に複雑なんです」


 三人は顔を見合わせ、今度は声を立てずに笑った。ルネもつられるように苦笑する。


「……それと」


 少し間を置き、ルネはジョゼフへ向き直った。


「ジョゼフ兄上」

「ん?」

「護衛騎士、もう少し鍛え直してください」


 ジョゼフが瞬きをする。


「レオナール達に置いていかれていました。王太子護衛でしょう? 白翼峰まで全力で駆けたのに、転移陣へ着いた時には影も形もありませんでした」


 ジョゼフは腕を組んだまま黙り込む。


「あと一歩遅れていたら、見送ることもできませんでした。鍛え直しです」


 しばらく考え込んでいたジョゼフは、大きく頷いた。


「……そうだな明日から朝練を増やす。全員だ」


 アンリが苦笑する。


「レオナール達が速すぎる気もしますが」

「それでも護衛です」


 ルネは真っ直ぐに言い切った。


「レオナールを見失うようでは話になりません。まして、シャルルに追いつけないようでは論外です」


 ルイも静かに頷く。


「ルネの言うとおりだ。強化しよう」

「お願いします」


 ルネはようやく安堵したように笑い、グラスへ新しい酒を注いだ。そこから先は、もう誰が何を話していたのか分からない。


「あの天使様方、容赦ありませんよ」

「ウリエル様も怖いぞ」

「いや、ミカエル様もだ」

「説明くらい……」

「聞いてくださいよ……」


 愚痴なのか、文句なのか。怒りなのか、感謝なのか。酒に溶けた言葉は次第に支離滅裂になり、それでも四人は久しぶりに笑い合っていた。

 やがて、一人。また一人と、その場で眠り込む。

 ソファへ身を預けたまま眠るルイ。椅子へ突っ伏したアンリ。床へ転がるジョゼフ。そして、クッションを抱えたまま寝息を立てるルネ。


 翌朝、いつもの時間に侍従長が静かに扉を開ける。


「失礼いたします──」


 一歩足を踏み入れたところで、その動きが止まった。


「…………」


 部屋中に転がる酒瓶。

 あちらこちらで寝息を立てる四人の王族。

 侍従長は静かに扉を閉めると、小さく呟いた。


「……もうしばらく、お休みいただきましょう」

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