17
お茶会から半月ほどが過ぎた頃、アンジェリーヌは侍女たちに身支度を整えられていた。今日のドレスは、灰色に淡い紫を溶かしたような藤鼠色。装飾は控えめで、胸元には白百合の刺繍がひっそりと咲いている。
「今日は、お出掛けでしょうか?」
鏡越しに尋ねると、侍女は柔らかく微笑むだけだった。
「皆様がお待ちでございます」
それ以上は教えてもらえないらしい。首を傾げながら部屋を出ると、そこにはレオナールたち六人が待っていた。
「おはようございます」
「おはよう、アンジェ」
穏やかな笑みを浮かべたレオナールが歩み寄る。その後ろでは、シャルルとジェラルドが抱える大きな花束が目に入った。
「お花……?」
「今日は少し遠出だからね」
シャルルが笑う。
「楽しみにしてて」
ジェラルドも嬉しそうに頷いた。行き先は、まだ教えてもらえないらしい。不思議そうに二人を見つめていると、不意に身体がふわりと浮いた。
「きゃっ……!」
気付けば、レオナールに横抱きにされていた。
「レ、レオナール様?」
「目的の場所までは距離があります」
「歩けます」
慌てて言うと、レオナールは困ったように微笑んだ。
「途中で疲れたらどうします」
「それは……」
言葉に詰まる。確かに、最近は以前より歩けるようになったとはいえ、まだ時折ふらつくことがあった。
「でも……」
こんなふうに抱き上げられるのは、やっぱり恥ずかしい。その心情を察したように、ジャンが静かに口を開く。
「無理は禁物ですよ」
「まだ時々ふらつくだろ」
ヴィクトルも腕を組んで頷いた。
「護衛騎士としても賛成です」
イヴォンまで真顔で後押しする。
「レオン従兄様なら安心だよ!」
ジェラルドは満面の笑みだ。
「兄上のしたいようにさせてあげて」
シャルルまで涼しい顔で言う。
「……黙れ」
レオナールが一言だけ返すと、五人はどっと笑った。
「では、参りましょう」
レオナールに抱かれたまま、アンジェリーヌは王太子宮を後にした。
転移陣を抜けた先には、巨大な白亜の神殿が静かに佇んでいた。天井は遥か高く、どこまでも続いているように見える。柔らかな光が空間全体を包み込み、季節の花々が咲き誇る庭園のような香りが漂っていた。
王族の廟堂。
歴代の王と王妃、王族たちが眠る、聖域。その静謐さは、まるで天上の楽園を思わせた。
「……すごい……」
思わず息を呑む。地上から見た広さとは、とても思えない。まるで空間そのものが広がっているようだった。
レオナールは何も言わず、静かに歩みを進める。やがて一つの墓碑の前で足を止めた。ゆっくりとアンジェリーヌを地へ降ろす。墓碑には、二つの名前が並んで刻まれていた。
マリーアンジュ・ソフィ・ローズ・ブランシュ・イヴォンヌ・アリス・ジャンヌ・シャルロット・アレクサンドラ・ヴィクトリーヌ・ド・ランジュ。
ダーフィット・フォン・ホーフダル。
「……っ」
アンジェリーヌの瞳が揺れる。
シャルルとジェラルドが抱えていた花束を、そっと差し出した。
「アンジェ」
レオナールが静かに告げる。
「ご両親に、会いに来ました」
一拍置き、穏やかな声で続ける。
「ご遺体は、ブルームホフ離宮にございます」
アンジェリーヌが小さく息を呑む。
「離宮の者たちが丁重に弔っていたことを、ウリエルが確認しています。現在も、ウリエルの保護結界によって守られています」
レオナールは墓碑へ視線を向けた。
「こちらには、ウリエルが回収したお二人のご遺髪と、叔母上の王族装身具を納めています」
それ以上、言葉は必要なかった。
アンジェリーヌは震える手で花束を受け取る。六人もそれぞれ献花を終えると、静かに黙祷を捧げた。しばらくの静寂の後、ジャンが一歩下がる。
「私たちは外で待っています」
「兄上」
シャルルがレオナールを見ると、レオナールは静かに頷いた。
「私はここにいる」
五人は何も言わず礼拝堂を後にした。
広い廟堂には、アンジェリーヌとレオナールだけが残る。
レオナールは少し離れた場所へ静かに下がった。声は掛けない。近付きもしない。ただ、そこにいる。アンジェリーヌが一人にならないように。それだけだった。
花束を抱えたまま、墓碑の前へ歩み寄る。震える指先で、静かに石碑へ触れた。
「お母様……」
その一言が漏れた瞬間。堪えていたものが、一気に溢れ出した。
「お母様……っ、お父様……!」
墓碑へ縋るように膝をつき、アンジェリーヌは声を上げて泣き崩れた。一か月もの間、胸の奥へ押し込めていた悲しみが、止めどなく涙となって零れ落ちる。
レオナールはただ静かに、その背中を見守り続けていた。
思い切り泣いて。
溜め込んでいたものをすべて吐き出して。
やがて嗚咽が静まる頃、アンジェリーヌは墓碑を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと両親へ語りかけ始めた。
「お母様。わたくし、先日のお茶会で、皆様からわたくしの名前の由来を伺いました」
「アンジェリーヌは、愛し子の証。セラファン王家に生まれた王女には、“天使”の意味を持つ名前を授けるのだそうですね」
「ローズとブランシュは、お母様のお名前から。お母様は白薔薇の美しい季節にお生まれになったから、このお名前を授けられたのだと、お祖母様がお話ししてくださいました」
「アリスは、お祖父様のお名前の一つ、アリスティドから」
「エレオノールは、お祖母様」
「ルイーズは、ルイ伯父様」
「マリーは、セラファンとオンラードの曾祖母様」
「アンリエッタは、アンリ伯父様」
「ジョゼフィーヌは、ジョゼフ伯父様」
「ルネは、ルネ伯父様」
「そして、リリアーヌは、ガブリエル様を象徴する百合から」
アンジェリーヌは、そっと胸へ手を添えた。
「皆様が、わたくしの幸せを願って、一つひとつ考えてくださったお名前なのだと伺いました」
「ホーフダルで『サラ』と名乗っていたのも……」
小さく微笑む。
「わたくしの本当の名前が、悪意を持って呼ばれることのないようにと」
「ホーフダルのお祖父様と、お父様と、お母様が相談して決めてくださったのだそうですね」
静かな涙が、頬を伝う。
「……わたくしは、何も知りませんでした」
「こんなにもたくさんの愛情を込めて、この名前を贈っていただいたことも」
「こんなにもたくさんの方々に、誕生を喜んでいただいていたことも」
「わたくしが、生まれたその日から、ずっと愛されていたことも」
墓碑へそっと手を重ねる。
「お父様」
「お母様」
「……ありがとうございます」
その日の夕方。
琥珀色の夕陽が部屋を柔らかく染め上げる中、アンジェリーヌの部屋を訪れたレオナールは、小さく息を吸うと、後ろに隠していたものをそっと差し出した。
春の野に咲く花だけを集めて編まれた、小さな花冠。
「……綺麗」
思わず零れた呟きに、レオナールが柔らかく微笑む。
「夢の中で約束したでしょう。貴方が成人して私の所へ来てくれたら、もっと綺麗に作って、貴方に贈ると」
そう言って、壊れ物に触れるような手つきで、そっとアンジェリーヌの頭へ花冠を載せた。その瞬間、アンジェリーヌの身体が、ぴたりと止まる。
春風。
花の香り。
笑い声。
優しく笑う六人。
『次はもっと上手に作るよ」
「君が大人になったら、もっと綺麗なものを作って君に贈る』
──約束。
「……あ」
震える声が漏れた。
「あの時の……」
次々と記憶が繋がっていく。
十日に一度だけ見る、不思議な夢。
春の庭。
笑い合う六人。
優しい時間。
夢だと思っていた。
ずっと、夢だと信じていた。
ゆっくりと顔を上げる。
目の前には、あの時と同じ蜂蜜色の髪。
同じ、優しい瞳。
「……夢では、なかったのですか」
レオナールは静かに頷いた。
「はい。天使たちが、貴女と私たちを繋いでくれていました」
「夢の中の六人は……」
アンジェリーヌは小さく息を呑む。
「皆様だったのですね。ずっと……会っていたのですね」
その言葉に、レオナールは少しだけ寂しそうに笑う。
「そうです。でも──」
一歩だけ近付く。
「私は、早く本当の貴方に会いたかった」
アンジェリーヌの瞳が潤む。
「……わたくしも」
花冠へそっと触れながら微笑む。
「ずっと、お会いしたかったです」
レオナールは懐から、小さな箱を取り出した。
ゆっくりと片膝をつく。
箱を開くと、そこには淡青銀ミスリルの台座に、ローズカットの透明な宝石が静かに輝いていた。
「アンジェリーヌ」
真っ直ぐに彼女を見つめる。
「夢の中で貴方と過ごすうちに、私は貴方に惹かれていきました。十日に一度だけ訪れる、あの時間が楽しみで。貴方に会える日を、いつも待ち遠しく思っていました。そして、夢から覚めるたびに願っていたのです。早く、本当の貴方に会いたいと」
一度だけ言葉を切る。
「愛しています。私と結婚していただけますか」
アンジェリーヌは涙で滲むレオナールの姿を見つめた。
あの日、処刑台で自分を抱き上げてくれた天使。夢の中で何度も笑い合った人。そして、これから共に未来を歩む人。
溢れる涙を拭うこともせず、何度も何度も頷く。
「──はい」




