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お茶会のあと、アンジェリーヌは王太子宮へ居を移した。
用意されたのは、王太子妃のために設えられた部屋だった。陽光がたっぷりと差し込む広々とした居間に、寝室、衣装室、浴室まで備えられたその一角は、本来であれば未来の王太子妃が日中を過ごすための私室である。
その奥には、王太子であるレオナールの私室と続き部屋になった寝室があった。寝室は互いの私室へ通じる内扉で繋がっているが、それはあくまでも夫婦となった後のための造りだ。
もちろん、今はまだ婚姻前。
寝室も夫婦の部屋として使われることはなく、アンジェリーヌの療養のためだけに整えられていた。
夜ごと魘され、眠りの浅い日が続くアンジェリーヌを案じたレオナールが、「何かあればすぐ駆けつけられるように」と強く望んだ結果である。
王妃フェリシエンヌや大公妃エレオノールをはじめ、周囲は最後まで「婚約中の二人には早すぎます」と難色を示した。それでもレオナールは首を縦に振らなかった。
「これは婚約者としてではありません。アンジェが安心して眠れる環境を整えたいだけです」
その一言だけは、決して譲らなかった。幾度もの話し合いの末、ようやく認められた措置だった。
その代わり、昼間は侍女たちが常に付き添い、夜間も必要に応じて侍女が控えること。そして、レオナールも決して一線を越えないこと。
そんな家族との約束のもとで、アンジェリーヌは王太子宮で新しい生活を始めた。
王太子宮には、レオナールだけが暮らしているわけではない。ヴィクトル、シャルル、イヴォン、ジェラルドもそれぞれ部屋を構え、ジャンに至っては妻エリザペトと二人の息子たちも共に生活している。
賑やかな宮ではあるが、アンジェリーヌはまだ疲れやすく、一日の大半を自室で静かに過ごす日々が続いていた。
天使たちの癒やしによって身体の傷はすべて消え去った。けれど、心に刻まれた傷だけは、そう簡単には癒えない。
だからこそ、誰も焦らなかった。
ゆっくりでいい。少しずつ笑顔を取り戻してくれれば、それでいい。アンジェリーヌが心穏やかに過ごせること。それだけが、皆の願いだった。
王太子宮での療養が決まった時、レオナールたちは父親たちから思いがけない言葉を掛けられた。
「執務は私たちに任せろ」
「お前たちはアンジェのそばにいてやれ」
驚く息子たちへ、父親たちはどこか懐かしそうに笑う。
「マリーアンジュが輿入れする前も、私たちは同じようにしてもらった」
「今度は私たちが支える番だ」
その言葉どおり、国王や宰相、将軍、北国境伯が率先して仕事を引き受けてくれた。
もっとも、だからといってレオナールたちが王太子宮で執務をすることはない。王太子宮には、そもそも公務のための執務室が設けられていなかった。王太子宮を含む天苑は、王族にとってあくまでも私的な生活の場である。政務に関わる書類も、各省庁から届く報告書も、会議資料も、原則として天苑へは持ち込まない。
それは王太子だけではなく、国王も王弟たちも同じだった。どれほど忙しくても、朝になれば王宮の執務区域へ出向き、仕事はそこで行う。仕事を終えれば天苑へ戻る。公と私を分けることは、長く王家に受け継がれてきた習慣の一つだった。
だからレオナールたち六人も、アンジェリーヌの療養中だからといって王太子宮へ書類を持ち込むことはしなかった。毎朝いつもどおり王宮へ出仕し、午前中に可能な限りすべてを終わらせ、午後には王太子宮へ戻る。それが、いつしか六人の日課になった。
当然、最初は無理があると思われていた。それまで一日かけて処理していた量を、半日ほどで終わらせようというのだから当然である。
ところが、できた。それどころか、驚くほど速かった。
「次を」
「……はい?」
レオナールが決裁を終えた書類を横へ置く。控えていた文官が一瞬遅れて次の束を差し出したが、それもほどなく終わった。
「次」
「は、はい」
さらに次、その次と書類が片付いていく。横ではジャンが複数の報告書へ目を通しながら必要な箇所だけを抜き出して指示を出し、ヴィクトルのところへ持ち込まれた軍務関係の案件も、確認から判断、差し戻しまでほとんど滞らない。イヴォンもシャルルもジェラルドも、それまで以上の速度で仕事を片付けていた。
最初の数日、文官や官僚たちはほとんど唖然としていた。
「……速くないか?」
「速い」
「前から速かったが」
「今日はさらに速い」
「次の資料、まだか?」
「今まとめています!」
「急げ!」
王族側の処理が速すぎて、今度は補佐する側が追いつかなくなったのである。書類をまとめ、必要な資料を揃え、各部署へ照会し、回答を受け取り、それを整理して再び王族へ上げる。どこか一つでも遅れれば、そこで仕事が止まってしまう。
その様子を見ていた天使たちは、すぐに問題へ気づいた。
『彼らが遅いと、円滑に進みません』
『……まあ、そうだな』
『ここで止まったら、レオナールたちの速度を上げた意味がありません』
ウリエルの言葉に、ミカエルも少し考えた。
『では、上げるか』
『上げましょう』
非常に簡単な結論だった。
翌日、王宮の執務区域ではまた少し妙なことが起きた。
「昨日の照会結果です」
「もう来たのか?」
「はい。……あれ?」
差し出した本人まで不思議そうにしている。別の部署でも、いつもなら午後までかかる資料が午前中にはまとまり、その次の場所では必要な書類が頼まれる前に揃っていた。
「早いな」
「そうでしょうか」
「いつもなら、もっとかかるだろう」
「……そうでしたっけ?」
文官たちは顔を見合わせたが、仕事は待ってくれない。そのまま続けているうちに、皆なんとなく納得し始めた。
王太子殿下方の執務速度が上がったから、自分たちもそれに慣れたのだろう。人間というものは環境に適応する。きっと、そういうことなのだ。
もちろん、違った。
『こちらも、だいぶ速くなりましたね』
『はい。これなら止まりません』
『ついでに疲労も軽減しておきましょう』
『午後にへばっては困りますからね』
『睡眠も深くしておきますか?』
『それも必要でしょう』
『では、ついでに』
『ついでです』
天使たちは満足そうだった。
愛し子の療養のため、王族たちを一秒でも早く王太子宮へ帰す。そのためには、王族を補佐する文官も、その文官へ資料を回す官僚も、照会を受ける各部署の者たちも円滑に動く必要がある。
そして、書類だけが円滑に進んでも、それで仕事全体が円滑になったとはいえない。
決定された内容を実際に動かす者がいる。物資を運ぶ者がいて、倉庫を管理する者がいて、設備を整える者がいて、そのさらに下には細かな作業を担う者たちがいる。どこか一つでも滞れば、結局はそこで止まる。
天使たちは、そこにも気づいた。
『ここも遅いですね』
『では、少し』
『こちらもです』
『では、ついでに』
そうして恩恵は、文官から官僚へ、官僚から各部署へ、その下で働く者たちへと広がっていった。やがては、さらにその下の末端の作業員に至るまで、その奇妙な恩恵が波及した。
本人たちは、なぜか今日は身体が軽い、いつもより判断が早い、作業が妙に捗ると思うだけだった。
誰も、その理由を知らない。
その結果、王宮全体の執務効率は目に見えて向上した。書類の滞留は減り、部署間の照会は早まり、会議資料は以前より短時間で整い、決定事項の実行まで滞りなく進むようになる。
しかも、なぜか皆、以前ほど疲れない。
「最近、よく眠れるんだ」
「私もです」
「忙しいはずなのに、不思議ですね」
「慣れたんじゃないか?」
「そうかもしれません」
そんな会話まで交わされるようになったが、誰も自分たちまで天使の恩恵を受けているとは思っていなかった。
そして、恩恵がどこまで広がったのか。その余波がどこまで広がったのかは、誰にも分からなかった。
おそらく、セラファン全土。そして、下手をすれば交易相手国の港や倉庫で働く者たちにまで。
もっとも。
天使たち自身も、そこまでは把握していなかった。
大天使長ミカエルと大天使長補佐ウリエルは、若手王族と契約している自らの配下へ次々と指示を飛ばし、執務補佐の体制をさらに強化していた。
ジャンにはウリエル配下の上位天使、ヴィクトルにはミカエル配下の上位天使、イヴォンにはラファエル配下の上位天使、シャルルにはガブリエル配下の上位天使が付き、それぞれの得意分野を生かして主人を支えている。
さらに、ジェラルドの守護天使にもミカエル配下の上位天使が付いているが、こちらだけは少し事情が異なる。ヴィクトルとその守護天使が予想以上に気が合い、時折暴走する前例を踏まえ、ジェラルドの守護天使にはラファエルの加護も与えられていた。
主人だけでなく、守護天使まで暴走させてはならない。そんな四大天使の判断による措置である。
愛し子が穏やかに療養できる時間を一秒でも多く確保するため、四大天使の指揮のもと、上位天使たちは誰よりも張り切っていた。その熱意は父親世代を支える守護天使たちにも波及し、気づけば王宮全体が以前とは比べものにならない速度で動くようになっていた。
その結果、レオナールたち六人の執務速度は、それまでのおよそ四倍にまで跳ね上がった。それを支える文官や官僚、そのさらに下で働く者たちの処理速度まで、いつの間にか引き上げられている。
もっとも、当の本人たちは、
「最近、仕事が捗りますね」
「皆、慣れてきたんだろう」
「部下たちも随分速くなったな」
「こちらの速度に慣れたのでしょうね」
程度にしか思っておらず、その理由に気づくことは最後までなかった。
もちろん、その理由は誰一人として口にしない。天使たちもまた、愛し子の笑顔を一秒でも長く見ていたかったのだから。




