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アンジェリーヌの本契約を終えたその日から、王宮は慌ただしさを増した。
まず執り行われたのは、マリーアンジュとダーフィットの葬儀だった。
王家の廟堂には、アンジェリーヌ救出の際にウリエルが回収していた二人の遺髪と、マリーアンジュの王族装身具が納められる。セラファン王族以外がこの廟堂に眠るのは、ダーフィットが初めてである。それは、マリーアンジュとアンジェリーヌを想う王家の、特例だった。
その傍らでは、マリーアンジュの訃報とアンジェリーヌ王女帰国を知らせる正式な通達が各国へ送られ、ホーフダルへの対応も連日協議が重ねられていた。
レオナールたちも午前中だけ執務へ赴き、急ぎの案件を片付けると、すぐに熾天宮へ戻る日々が続く。
一方、アンジェリーヌは数日間、目を覚ましては食事を摂り、また眠ることを繰り返していた。夜になると魘されることも多く、穏やかに眠れる日はまだ少ない。
その様子を見た王家は協議を重ね、当初予定していた王女宮ではなく、王太子宮にアンジェリーヌの部屋を用意することを決めた。
熾天宮で療養を続けるべきか。それとも王太子宮へ移るべきか。王妃と大公妃、そしてレオナールたちの間で、幾度となく議論が交わされる。
──結果は、レオナールたちの粘り勝ちだった。
十日後、熾天宮。
春の庭へ大きく張り出した、屋根付きのテラスでは、王族たちが主役の登場を心待ちにしていた。
春風が花々を優しく揺らし、穏やかな陽光が白い卓を照らす。香り高い紅茶が用意されているというのに、誰も手を伸ばそうとはしない。
「まだかしら」
「母上、落ち着いてください」
「あなた達が一番落ち着いてないでしょう」
フェリシエンヌがくすくすと笑う。
「まったく……あなた達は頑固なんですから」
「あれは譲れません」
レオナールは迷いなく言い切った。
「アンジェが夜に魘されたら、すぐ駆けつけられます」
「僕達もそばで支えたいんです」
「護衛騎士である私が傍にいるのは当然です」
「結果、王太子宮ね」
エレオノールが肩をすくめる。
「粘り勝ちだったわねぇ」
「母上達も最後まで反対していたじゃないですか」
「だって、まだ婚約者なのよ。熾天宮でもいいではありませんか。それに王女宮も素敵だし、何よりマリーアンジュも過ごした宮なんですもの」
フェリシエンヌが少しだけ口を尖らせる。
「確かにその通りですが」
レオナールは穏やかに微笑んだ。
「王女宮でアンジェが一人になるのは、まだ早すぎます。熾天宮では、皆に気を遣ってしまうでしょう。私はただ、アンジェが一番安心できる場所にいてほしいだけです」
何度も繰り返された言葉に、フェリシエンヌが小さく嘆息する。
「わたくしだって、娘と暮らしたかったのよ」
「母上、本音が……。でも、兄上、あの時すごかったよね」
シャルルが思い出したように笑う。
「絶対譲らなかったもんな。今もだけど」
ヴィクトルも苦笑する。
「でも、あそこには僕達の部屋もありますし」
「元は客室だったがな」
ヴィクトルが肩をすくめる。
「最初に自室にしたのはヴィクトルでしょ」
「俺は荷物を置いただけだ」
「ですが、きっかけがヴィクトルなのは間違いありません」
「イーヴ、お前なぁ……。お間だって同じじゃねぇか」
「私は護衛騎士として泊まり込んだだけです」
「可愛くねぇ」
「可愛くなくて結構」
どっと笑顔が弾ける。
「私もエリザ達と移ります」
ジャンが当然のように告げる。
「精神的な支えも必要ですから」
フェリシエンヌとエレオノールは顔を見合わせ、小さく笑った。
「それなら安心ね」
「ええ。エリザペトがいてくれるなら心強いわ」
フェリシエンヌが優しく微笑む。
「負担になるかもしれないけれど、この子達をお願いね」
「お任せくださいませ」
エリザペトは穏やかに一礼した。
「乳母や侍女も増員していただきましたので、大丈夫ですわ。アンジェリーヌ様にも、どうか安心して過ごしていただけるよう努めます。どうぞ安心してお任せくださいませ」
「僕も遊び相手になるし!」
「ふふっ」
ジェラルドが胸を張ると、一同から笑いが漏れた。
控えていた侍女が、静かに一礼する。
「アンジェリーヌ様がお見えになります」
先ほどまで賑やかだったテラスから、笑い声がすっと消えた。会話がぴたりと止まり、全員が一斉に立ち上がる。
扉の先から現れたアンジェリーヌは、淡いセージグリーンのドレスを身にまとっていた。フェリシエンヌとエレオノールが、彼女のために仕立てた一着である。
胸元から緩やかに流れる柔らかな生地は、身体を締めつけることなく足元まで優しく広がっている。二の腕をふんわりと包む袖は、肘から先へゆるやかに広がり、歩みに合わせて軽やかに揺れた。
雪のように白い肌には穏やかな血色が戻り、陽の光を透かしたような淡い金の髪が、ゆるやかな波を描いて春の日差しを受けて煌めいていた。
春の若葉を思わせる翠の瞳には、金橙の光が小さく花開くように揺れていた。
幾重にも重なる裾が春風をはらみ、その髪もまた、陽の光を受けて柔らかく煌めく。
飾り立てることよりも、穏やかに過ごせることを大切にした装い。それでも、その姿は誰の目にも美しかった。
十日前、血と泥に塗れ、断頭台に立っていた少女とはまるで別人だった。春の陽だまりが、そのまま少女の姿をとったようだった。
扉の向こうから聞こえていた賑やかな笑い声が、ふっと途切れた。その静けさに、アンジェリーヌの緊張が少しずつ増していく。この先にいるのは、セラファンの王族たち。
母、マリーアンジュの家族。
婚約者である王太子と、五人の従兄弟たちも揃っていると聞いている。
ホーフダルの親族は、皆辛辣だった。だからだろうか。会うのが、ほんの少しだけ怖い。
処刑場から救い出し、このセラファンで保護してくださった方々。
この十日も、体調が戻らない自分を気遣い、面会は控えながら、それでも幾度となく花を届けてくださった。そんな優しい方々を怖がるなんて、失礼だ。そう思っているのに、それでも、やはり胸の奥が少しだけ震えてしまう。
「アンジェリーヌ様、どうぞ中へ。皆様がお待ちでございます」
侍女に促され、アンジェリーヌは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、一歩、テラスへ足を踏み入れる。途端に、視線が一斉にこちらへ向いた。
そのあまりの熱量に、思わず歩みが止まる。緊張で指先がかすかに震えた。
けれど、その時だった。一番先に目へ飛び込んできたのは、春の陽だまりを閉じ込めたような、蜂蜜色の髪。
──天使様。
処刑台で初めて見た、あの日と同じ色。それだけで、不思議と肩の力が抜けた。
蜂蜜色の髪の青年が、静かに一歩前へ出る。穏やかに微笑む瞳は、澄み渡るサファイアブルーに、金琥珀の輝きを宿していた。
二つの色を持つ瞳。
ホーフダルでは、そんな瞳を持つ自分は”化物”と蔑まれた。けれど、目の前の青年の瞳は、あまりにも優しく、美しかった。
──綺麗な瞳。
自然と、その瞳から目が離せなくなる。
青年は優しく微笑んだ。
「……会いたかった」
一度だけ言葉を切る。目の前の少女が夢ではなく現実なのだと、改めて噛み締めるように。
それから穏やかに微笑んだ。
「……元気そうで安心しました」
その一言に、アンジェリーヌは思わず目を見開く。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれた。
「兄上」
その空気を壊すように、シャルルがにやりと笑う。
「……何だ」
「他に言うことないの?」
レオナールが首を傾げる。
「綺麗だね、とか」
ヴィクトルも肩を揺らした。
「可愛い、とか」
イヴォンは真面目な顔のまま、小さく頷く。
「髪も、とてもお似合いですよ」
「ドレスもよくお似合いです」
ジャンまで、ごく自然に言葉を添える。
「……」
レオナールが一瞬固まった。
「なんで言わないの?」
ジェラルドだけが、本気で不思議そうに首を傾げる。
「……うるさい。黙れ」
ぴしゃりと言い返したレオナールに、テラスはどっと笑いに包まれた。
一つ小さく咳払いをすると、レオナールは改めてアンジェリーヌへ向き直る。先ほどまでよりも少しだけ早口で、胸へ手を添え優雅に一礼した。
「レオナール・ミシェル・ルイ・フェリクス・オリヴィエ・アルベール・シルヴァン・ヴィクトル・シリル・アレクサンドル・ド・ランジュ。セラファン王国王太子として、あなたをお迎えします」
「…………」
レオナール。
アンジェリーヌは息を呑んだ。
間違いない。母が幾度となく語ってくれた、婚約者の名前。
幼い頃、何度も復唱し、忘れないように覚えた名前だった。
「……天使様が、私の婚約者……?」
その小さな呟きに、テラスへ柔らかな笑いが広がる。レオナールも思わず口元を緩めた。
「はい」
静かに頷く。
「改めて、皆を紹介します」
そう言うと、隣に並ぶ五人へ視線を向けた。
「私の大切な弟と従兄弟たちです」
五人が一歩前へ出る。穏やかな笑みを浮かべ、揃って一礼した。
「ようこそ、従姉妹姫」
「セラファンへお帰りなさい」




