12
熾天宮の自室を使うのは、十年振りだった。十歳の頃は随分と広く感じた部屋も、今では少し手狭に思える。王太子宮の間取りに慣れたせいだろう。
重い足取りで湯殿に向かう。湯殿係は下がらせた。一人で湯殿を使うのは慣れている。服を脱ぎ、髪を解こうとしたレオナールは、ふと手を止める。結わえていたリボンがない。
「……いつの間に?」
解いた記憶はない。解けた記憶も、ない。少しの間、思考を巡らせたが、どうしても思い出せない。ふと、処刑場の光景が脳裏をよぎる。
「……あの時か?」
思考を巡らせても、やはり思い出せない。レオナールは、それ以上考えるのをやめた。そんなことは、どうでもいい。今のレオナールには、些細なことだ。それ以上に占める想いがあるのだから──
髪と体を洗い、湯に身を沈める。湯気とともに、穏やかな香草の香りが湯殿を満たしている。王太子宮でも、いつも使われている香りだ。
心身の緊張を和らげるために調合された、穏やかな香草。普段なら、この香りを吸い込むだけで肩の力が抜ける。
けれど今日は違った。
湯に身を沈めても、深く息を吸っても、張りつめた胸の内は、少しも静まらない。
そして自然に、脳裏に浮かぶのは、ただ一人。
血に染まった、小さな背中。
抱き上げた腕に残る、あまりにも軽い重み。
──もっと早く、辿り着けていたなら。
──もっと早く、この体が動いていたら。
──もっと早く、彼女のもとへ駆けつけたかった。
──もっと、もっと、もっと……
「……傷つけたくなかった……」
守ると、約束したのに。
それなのに……
思考はぐるぐると回る。
どうか、願わくば……
彼女の傷が。
彼女の……
もし、最悪のことが起きていたとしたら。そんなことが、あったとしたら……
「私は、自分を許せない」
そして、その者たちを……
この世から──
「……長湯ですよ、殿下」
扉の先から侍従に声を掛けられて、レオナールは我に返った。レオナール自身も、考え込んでいたことに気付いていなかった。
湯から上がり、拭き布で身体の水気を拭き取る。髪を乾かし終えると、下着だけを身につけて施術台へ横になった。
「失礼いたします」
整術師は香草の香るオイルを手に取り、肩へゆっくりとなじませていく。
ゆっくり丁寧に、いつも通りの施術が施される。
「肩に力が入っております」
「……そうか」
普段なら施術が終わる頃には身体が軽くなる。けれど今日は、筋肉のこわばりは取れても、胸の重さだけは消えない。
重たいものを抱えたまま、身支度を終えて部屋を出る。歩みは迷わず、アンジェリーヌの眠る部屋へ。そうして辿り着いた部屋の前では、すでに、弟と従兄弟たちが揃って扉を見つめていた。
「レオン、遅ぇ」
レオナールに気づいたヴィクトルが、ぶすっと言う。
「……少し、長湯をしてた」
「……そうか」
そのまま、しばらく佇んでいると、一人の侍女が通りかかる。
「皆様、よろしかったら椅子をお使いくださいませ」
「椅子……?」
不意に声をかけられ、シャルルが首を傾げる。
「はい、こちらにご用意しておりますので」
「……え?」
シャルルは数度瞬きを繰り返した。
扉の反対側の壁に沿って、長椅子と一人掛けの椅子がそれぞれ二脚用意されている。他の五人もほぼ、同じ反応をしている。
「なんで、こんな所に……?」
「こちらのお部屋をご用意するときに、王妃陛下のご指示で用意するようにと」
シャルルはさらに瞬きを繰り返した。それは、つまり……
「アンジェを連れて来た時も置いてあった?」
「はい」
「……気づかなかった……」
誰もが、同じ事を思った。ジェラルドは何度も首を縦に降っているし、ヴィクトルは顎に手を当てて首を傾げている。
「気づきませんでしたね」
「俺もです」
ジャンとイヴォンは互いに顔を見合わせている。レオナールも、その気遣いに言葉を失っていた。
「王妃陛下のご厚意です。座りましょうか」
最初に動いたのはジャンだった。長椅子の一つに腰掛ける。釣られるようにイヴォンが隣に腰掛けた。
「じゃあ、僕も。ジェラルド、こっちおいでよ」
「あ、うん」
シャルルもジェラルドと長椅子に腰掛け、レオナールものろのろと一人掛けに腰をおろす。ヴィクトルだけは立ったまま、壁に背を預けた。
それでも、やっぱり落ち着かず。
シャルルとジェラルドは立っては座り、座っては立つを繰り返し。
ヴィクトルの靴は床を刻む。
ジャンとイヴォンは身じろぎもせず。
レオナールはいつしか膝に肘をつき、額を組んだ手へ預けていた。
何度か侍女の出入りはあったものの、待ちかねた知らせはまだない。どのくらい、経った頃だろう。長かったのか、短かったのか、それさえわからなくなった頃。
静かに扉が開き、エレオノールが部屋から出てきた。レオナールは、はっとして顔をあげた。
エレオノールは、食い入るように見つめてくる孫達に、静かに微笑んだ。
そして──
「アンジェの診断も終わり、天使様方による治癒も終わりました。命の心配はありません。先程目を覚まし、少しだけ食事もできました」
待ち望んだ結果に、ほんの少し肩の力が抜ける。
さらに。
「……女性の尊厳も、守られています」
その言葉に、シャルルとジェラルドは手を取り合って喜び、イヴォンは拳を握りしめた。ジャンは目元に指を当て、ヴィクトルは壁に背を預けたまま天井を仰ぐ。
そして、レオナールは、深い息と共に、再び組んだ手に強く額を押し付けた。体の強ばりが、一気に緩んだ瞬間だった。
誰も言葉を発しない。それでも、その場に流れる空気は先ほどまでとは違っていた。
「さて、貴方達。アンジェはこの後、湯浴みを済ませて休みます。貴方達もお食事をなさい」
そう、促されたものの、誰もその場を動こうとしなかった。
「祖母上、アンジェに会うことは……」
ようやく顔をあげたレオナールに、エレオノールは断固として首を振る。
「今から湯浴みだと申しました。さあ、早く行きなさい」
エレオノールがパンっと一つ手を打つ。誰からともなく溜息をつく。やがて、六人は名残惜しげにその場をあとにした。
食事中の会話は少なかった。ただ黙々と口を動かす。料理に合わせた酒類も、今日は誰も頼まない。なんとなく、呑む気にはなれなかったのだ。
食後は、誰が誘うでもなく全員がレオナールの部屋に集まった。各々好きな場所に座るも、口を開く者はいない。
不意に扉が叩かれる。イヴォンが立ち上がって誰何すると、侍従が軽食の乗ったワゴンを押して入ってくる。
「お食事後ですが、お集まりなら軽くつまめる物も必要かとご用意いたしました。それからこちらを」
各々の前に小さなグラスが置かれる。
「セラの実?」
「朝、飲んだよね?」
虹色に揺れる果汁に、シャルルとジェラルドが小首をかしげる。
「ミカエル様のご指示でお持ちしました」
「ミカエル様の?」
「原液のままで?」
「はい」
ジャンとイヴォンもまた、首を傾げる。
「ま、いいんじゃね? おい、なんで肉なんだ」
「なんだ、それは。肉なんて聞いたことがない。私は林檎だ」
ヴィクトルの謎発言に、イヴォンが呆れて返す。セラの実は本人が一番欲する物の味がするとはいえ、肉の味は流石に聞いたことがない。
「僕も兄様と一緒。甘い林檎。シャルル従兄様は?」
「僕は苺だったよ。ジャンと兄上は?」
「私は柑橘ですね」
「そうなんだ。兄上は?」
「……蜂蜜だった」
「え、すごく甘そう」
それから、なんとなく気分がほぐれて、とりとめのない会話が続く。
喋るのは主にシャルルとジェラルドで、他の四人は相槌を打つ程度。
「アンジェが好きなもの、何かな」
「焼き林檎、好きだといいな」
「それはお前の好物だろ」
「美味しいからいいの!」
「そう言えば、いつの間にか兄様が『私』に戻ってる」
「……乱れていたか?」
「うん。『俺』になってた。気づいてなかったの?」
「ああ」
「イヴォン、怒ってたたもんね〜」
「シャルルも相当だったと思うが」
「みんな同じでしょ」
「いや、シャルは笑ってるのに目が笑ってねえから。お前が一番やべぇ」
「えー、ヴィクトル、ひどい」
笑いながら続いた会話は、ジェラルドの欠伸で終わりを告げる。
「ジェラルド、寝るなら寝台を使え」
「うん、ありがとう、レオン従兄様……」
ふわぁぁと大きな欠伸をしながら、ジェラルドが靴を脱いで奥の寝台に潜り込む。
「僕も寝る……」
シャルルも目を擦りながら寝台へ向かい、靴を脱いでジェラルドの隣に潜り込んだ。
「何だ、あいつら。今日はやけに早いな」
「疲れたんでしょう」
それからも、しばらく四人で過ごしていたのだが、なぜだか今日はやけに早く眠気に襲われた。イヴォンとジャンが珍しく舟を漕ぎ、ヴィクトルも床に座ったまま動かない。
そして、レオナールは。
「ジェラルド、もう少し詰めろ」
「んー……」
大人が三人寝ても余裕の寝台で、ど真ん中を占拠するジェラルドを少し押しのけ、横になる。
睡魔は一瞬にしてやってきた。
翌朝、起こしに来た若手の侍従は、雑魚寝状態の六人を見て、思わず大声を上げそうになった口を慌てて塞いだ。
寝台の上には、レオナールと、ジェラルドと、シャルル。
長椅子にはイヴォンとジャン。
床の上にはヴィクトル。
あまりの惨状に、その場で動けなくなり。その一方で、古参の侍従たちは。
「おや……。久しぶりに拝見しましたね」
「殿下が熾天宮でお過ごしだった頃は、よくこのようになっておりましたね」
「王太子宮では今も時折……」
「ジャン様もご結婚前以来でしょうか。懐かしいですね」
古参の侍従たちは顔を見合わせ、小さく微笑んだ。
「起こすのは、もう少しあとにいたしましょう」
六人にとっても、それは久しぶりの従兄弟水入らずの穏やかな眠りだった。




