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 琥珀色の夕陽が天蓋を柔らかく照らしていた。窓から差し込む穏やかな光が、白い天蓋を淡く染める。眩しさに、アンジェリーヌの睫毛が小さく震えた。


 ゆっくりと瞼が開く。

 見慣れない天井。

 漂う薬草の香り。

 そして、どこか懐かしい花の香り。


「……天使、さま?」


 小さく零れた声に、部屋の奥で本を読んでいたエレオノールが顔を上げる。刺繍をしていたフェリシエンヌも、道具を置いて静かに立ち上がった。二人はすぐに寝台に歩み寄った。


「アンジェ?」

「目が覚めたのね」


 アンジェリーヌはぼんやりと二人を見つめる。夢の続きなのだろうか。見覚えのない顔だった。

 少し白いものが混ざり始めた老婦人と、蜂蜜を混ぜたような金茶色の髪の優しそうな婦人。


「……蜂蜜色……」


 あの時、自分を抱き上げてくれた天使と同じ色。胸の奥に残っていた恐怖が、その色を見ただけで少しだけ遠のいていく。


「ふふっ……そうね、蜂蜜色ね」


 金茶の髪の婦人が、柔らかく微笑む。


「ここは……? わたくし……アンジェ?」


 ゆるい瞬きを繰り返すアンジェリーヌに、そばの椅子に腰掛けた老婦人が優しく微笑み、アンジェリーヌの額へそっと手を添えた。


「ここはセラファンの熾天宮よ」

「セラファン……お母様の……」

「ええ。マリーアンジュの育った国です」


 母の育った国。

 そして、アンジェリーヌが母と向かうはずだった国……

 アンジェリーヌの体から、どっと力が抜けた。そうして、ふと思い出す。セラファンには、もう一つの名前があるのだと。

 幼い頃、父母に教えてもらった、自分の本当の名前を──


「……よく頑張ったわね」

「お帰りなさい、アンジェ。もう安心していいのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが、ぷつりと切れた。瞳から、一筋の涙が頬を伝う。


「……はい……ありがとう、ございます……」


 手で顔を覆う。咽び泣くアンジェリーヌを、老婦人はただ優しく見守っていた。もう一人の婦人も、静かにその傍らに寄り添っている。何も言わず、ただ優しく、そこにいてくれた。

 しばらくして、ようやく涙が止まると、そっと侍女が近づいてきた。


「アンジェリーヌ様、少し起き上がれますか」


 一人の侍女がアンジェリーヌの体を支え、ゆっくりと上体を起こす。背に柔らかなクッションがあてられた。


「お水をお持ちしました。どうぞ」


 もう一人の侍女が差し出したグラスを受け取り、口に含む。爽やかな柑橘と香草の香り。そして、ほんの少しだけ蜂蜜の甘さが広がった。

 一口飲んだ瞬間、忘れていた喉の渇きが一気に押し寄せてくる。気がつけば、一杯目は飲み干していた。


「もう少し、お飲みになりますか?」


 小さく頷くと、新しいグラスが静かに差し出された。アンジェリーヌは今度はゆっくりと、一口ずつ味わうように飲み干した。優しい甘さが、乾ききった身体へゆっくりと染み渡っていくようだった。

 二杯目を飲み終わり、ほぅっと息をつく。


 生き返った……


 心の底から、そう思った。


「アンジェリーヌ様。少量ですが、お食事も用意しております。少しお食事をお召し上がりになりますか?」


 アンジェリーヌは少し考えた。お腹が空いているのか。それとも空いていないのか。自分でも、よくわからない。

 そっと差し出された湯気立つスープに、自然と視線が向く。香りに誘われるように、アンジェリーヌはスプーンを手に取った。そうして、一口、口に含む。


「……温かい……」


 よく漉されたスープは、とても温かくて。とても、美味しかった。

 けれど、この三日で縮こまってしまった胃は、半分も食べないうちに「もう十分」と訴え始めた。


「無理に食べなくてもいいのよ」


 金茶の髪の婦人が優しく言う。


「……ごめんなさい」

「いいのよ。今はゆっくり、少しづつでいいの。よく食べましたね」

「……はい。ごちそうさまでした」


 優しく頭を撫でられる。母の手とは違う。けれど、とても暖かい手だった。


「少し休まれますか?」


 食器を片付けながら侍女が問う。


「……はい」

「では、その前に、お身体を温めましょう」

「湯殿の準備をしてまいります。少しゆっくりなさっていてくださいませ」


 侍女が一礼して下がっていく。

 別の侍女がやってきて、二人の婦人に耳打ちをする。老婦人は少し目を見開いて苦笑すると、そっと席を立つ。


「アンジェ。わたくしはこれで。詳しいことはまた明日、お話しましょう。今は、ゆっくりお休みなさい」

「はい……ありがとうございました」


 老婦人は優しく微笑み、退室していった。残された婦人は、なぜだかクスクスと笑っている。


「あの、なにか……?」

「いいえ、なんでもありません。予想通りだったのでおかしくって」


 小首を傾げるアンジェリーヌに、婦人は茶目っ気たっぷりの笑みを向けた。


「また今度、教えてあげるわ」


 よくわからないまま、アンジェリーヌは頷いた。

 しばらくして、侍女が湯殿の用意ができたと知らせに来た。


「では、参りましょうか」


 侍女の手を借りて寝台を降りる。


「ゆっくり温まってらっしゃい」


 婦人の声に軽く頭を下げたアンジェリーヌは、湯殿へと足を向けた。


「こちらです」


 侍女が扉を開けると、二人の女性が待っていた。


「ここからは湯殿係が担当いたします」

「本日、アンジェリーヌ様の湯浴みをお手伝いさせていただきます。よろしくお願いいたします」

「では、こちらへどうぞ」


 案内してきた侍女が一礼して下がり、扉が静かに閉められた。


 湯殿係の手を借りながら、着ていた衣を静かに脱ぐ。

 湯殿へ一歩足を踏み入れると、ふわりと優しい花と香草の香りが鼻をくすぐった。張りつめていた心まで解きほぐしてくれるような、穏やかな香りだった。

 湯気の向こうには白い湯殿と洗い場が分けられている。壁際には見慣れない器具があり、湯殿係がそれに手を添える。


「こちらでお身体を流しますね」


 次の瞬間、細かな湯がふんわりと降り注いだ。


「……!」


 思わず肩を震わせるアンジェリーヌに、湯殿係がくすりと笑う。


「驚かれましたか。こちらでは湯殿に入る前に、この『湯雨』でお身体を流すのです」

「そうなんですね……。驚きました」

「さあ、こちらへ」


 傷が開くことを恐れながら、ゆっくりと身を沈めた。


 けれど。


 ──痛く、ない……


 鞭で散々打たれた背中も、蹴られたお腹も、擦り傷ができた腕も、痛めた足首も、どこも痛みを訴えていない。そうっと手首を見ると、縛られていた痕がない。腕を上げて肌を見ても、擦り傷一つ残っていない。背中にそっと手をやり肌をなぞる。


「……傷がない……」

「天使様がお治し下さいました」

「天使様が……」


 ポトリ、と涙が湯船に落ちる。


「……ぅっ…ぅ……」


 嗚咽が溢れる。助けてくれた天使と、傷を癒やして治してくれた天使への感謝と……


「……お、父様……お母…さま……」


 もう、二度と会えない両親への想いに、声を抑えることができなかった。

 湯殿係は視線を伏せたまま、何も言わない。ただ静かに、その時が過ぎるのを待っていた。


 その後、涙が収まったアンジェリーヌは湯殿係に丁寧に髪と体を洗ってもらい、再び湯に浸かった。身体が温まるとともに、体の強ばりも解けていく。

 頃合いを見て湯殿から出ると、控えていた侍女に小さなグラスを手渡される。


「アンジェリーヌ様、こちらをどうぞ」


 それは、不思議な飲み物だった。

 透明なのに、グラスを傾けるたび、表面に虹色の光が揺らめく。

 アンジェリーヌは、恐る恐る口をつける。


「──甘い……」


 蜂蜜の味がした。くどくなく、飲みやすい。不思議と、体の奥が暖かくなっていく。


「これは、なんですか?」

「セラの実でございます」

「こちらへどうぞ」


 美容係に促され、小さな椅子へ腰掛ける。


「セラの実……」


「はい。王族の皆様のために実る特別な果実でございます」


 手早く丁寧に肌を整えられ、今度は簡易寝台にうつ伏せになる。湯殿と同じ香りのオイルを使い、整術師に体を解される。


「そんな、貴重なものを頂いてよろしいのでしょうか……」

「アンジェリーヌ様は王女殿下ですもの。甘くお感じになられたのでしょう?」

「……はい……蜂蜜の、味が……」

「それは、ようございました」


 ふわり、ふわりと、意識が溶けていく。

 ゆるり、ゆるりと、体の強ばりもほどけていく。

 規則正しい寝息が聞こえ始める。

 整術師は小さく頷き、美容係と静かに微笑み合った。


「お休みなさいませ、アンジェリーヌ様」


 誰にも聞こえないほど小さな声で、美容係が呟いた。アンジェリーヌは深い眠りへと落ちていった。

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