11
琥珀色の夕陽が天蓋を柔らかく照らしていた。窓から差し込む穏やかな光が、白い天蓋を淡く染める。眩しさに、アンジェリーヌの睫毛が小さく震えた。
ゆっくりと瞼が開く。
見慣れない天井。
漂う薬草の香り。
そして、どこか懐かしい花の香り。
「……天使、さま?」
小さく零れた声に、部屋の奥で本を読んでいたエレオノールが顔を上げる。刺繍をしていたフェリシエンヌも、道具を置いて静かに立ち上がった。二人はすぐに寝台に歩み寄った。
「アンジェ?」
「目が覚めたのね」
アンジェリーヌはぼんやりと二人を見つめる。夢の続きなのだろうか。見覚えのない顔だった。
少し白いものが混ざり始めた老婦人と、蜂蜜を混ぜたような金茶色の髪の優しそうな婦人。
「……蜂蜜色……」
あの時、自分を抱き上げてくれた天使と同じ色。胸の奥に残っていた恐怖が、その色を見ただけで少しだけ遠のいていく。
「ふふっ……そうね、蜂蜜色ね」
金茶の髪の婦人が、柔らかく微笑む。
「ここは……? わたくし……アンジェ?」
ゆるい瞬きを繰り返すアンジェリーヌに、そばの椅子に腰掛けた老婦人が優しく微笑み、アンジェリーヌの額へそっと手を添えた。
「ここはセラファンの熾天宮よ」
「セラファン……お母様の……」
「ええ。マリーアンジュの育った国です」
母の育った国。
そして、アンジェリーヌが母と向かうはずだった国……
アンジェリーヌの体から、どっと力が抜けた。そうして、ふと思い出す。セラファンには、もう一つの名前があるのだと。
幼い頃、父母に教えてもらった、自分の本当の名前を──
「……よく頑張ったわね」
「お帰りなさい、アンジェ。もう安心していいのよ」
その言葉を聞いた瞬間、張りつめていたものが、ぷつりと切れた。瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「……はい……ありがとう、ございます……」
手で顔を覆う。咽び泣くアンジェリーヌを、老婦人はただ優しく見守っていた。もう一人の婦人も、静かにその傍らに寄り添っている。何も言わず、ただ優しく、そこにいてくれた。
しばらくして、ようやく涙が止まると、そっと侍女が近づいてきた。
「アンジェリーヌ様、少し起き上がれますか」
一人の侍女がアンジェリーヌの体を支え、ゆっくりと上体を起こす。背に柔らかなクッションがあてられた。
「お水をお持ちしました。どうぞ」
もう一人の侍女が差し出したグラスを受け取り、口に含む。爽やかな柑橘と香草の香り。そして、ほんの少しだけ蜂蜜の甘さが広がった。
一口飲んだ瞬間、忘れていた喉の渇きが一気に押し寄せてくる。気がつけば、一杯目は飲み干していた。
「もう少し、お飲みになりますか?」
小さく頷くと、新しいグラスが静かに差し出された。アンジェリーヌは今度はゆっくりと、一口ずつ味わうように飲み干した。優しい甘さが、乾ききった身体へゆっくりと染み渡っていくようだった。
二杯目を飲み終わり、ほぅっと息をつく。
生き返った……
心の底から、そう思った。
「アンジェリーヌ様。少量ですが、お食事も用意しております。少しお食事をお召し上がりになりますか?」
アンジェリーヌは少し考えた。お腹が空いているのか。それとも空いていないのか。自分でも、よくわからない。
そっと差し出された湯気立つスープに、自然と視線が向く。香りに誘われるように、アンジェリーヌはスプーンを手に取った。そうして、一口、口に含む。
「……温かい……」
よく漉されたスープは、とても温かくて。とても、美味しかった。
けれど、この三日で縮こまってしまった胃は、半分も食べないうちに「もう十分」と訴え始めた。
「無理に食べなくてもいいのよ」
金茶の髪の婦人が優しく言う。
「……ごめんなさい」
「いいのよ。今はゆっくり、少しづつでいいの。よく食べましたね」
「……はい。ごちそうさまでした」
優しく頭を撫でられる。母の手とは違う。けれど、とても暖かい手だった。
「少し休まれますか?」
食器を片付けながら侍女が問う。
「……はい」
「では、その前に、お身体を温めましょう」
「湯殿の準備をしてまいります。少しゆっくりなさっていてくださいませ」
侍女が一礼して下がっていく。
別の侍女がやってきて、二人の婦人に耳打ちをする。老婦人は少し目を見開いて苦笑すると、そっと席を立つ。
「アンジェ。わたくしはこれで。詳しいことはまた明日、お話しましょう。今は、ゆっくりお休みなさい」
「はい……ありがとうございました」
老婦人は優しく微笑み、退室していった。残された婦人は、なぜだかクスクスと笑っている。
「あの、なにか……?」
「いいえ、なんでもありません。予想通りだったのでおかしくって」
小首を傾げるアンジェリーヌに、婦人は茶目っ気たっぷりの笑みを向けた。
「また今度、教えてあげるわ」
よくわからないまま、アンジェリーヌは頷いた。
しばらくして、侍女が湯殿の用意ができたと知らせに来た。
「では、参りましょうか」
侍女の手を借りて寝台を降りる。
「ゆっくり温まってらっしゃい」
婦人の声に軽く頭を下げたアンジェリーヌは、湯殿へと足を向けた。
「こちらです」
侍女が扉を開けると、二人の女性が待っていた。
「ここからは湯殿係が担当いたします」
「本日、アンジェリーヌ様の湯浴みをお手伝いさせていただきます。よろしくお願いいたします」
「では、こちらへどうぞ」
案内してきた侍女が一礼して下がり、扉が静かに閉められた。
湯殿係の手を借りながら、着ていた衣を静かに脱ぐ。
湯殿へ一歩足を踏み入れると、ふわりと優しい花と香草の香りが鼻をくすぐった。張りつめていた心まで解きほぐしてくれるような、穏やかな香りだった。
湯気の向こうには白い湯殿と洗い場が分けられている。壁際には見慣れない器具があり、湯殿係がそれに手を添える。
「こちらでお身体を流しますね」
次の瞬間、細かな湯がふんわりと降り注いだ。
「……!」
思わず肩を震わせるアンジェリーヌに、湯殿係がくすりと笑う。
「驚かれましたか。こちらでは湯殿に入る前に、この『湯雨』でお身体を流すのです」
「そうなんですね……。驚きました」
「さあ、こちらへ」
傷が開くことを恐れながら、ゆっくりと身を沈めた。
けれど。
──痛く、ない……
鞭で散々打たれた背中も、蹴られたお腹も、擦り傷ができた腕も、痛めた足首も、どこも痛みを訴えていない。そうっと手首を見ると、縛られていた痕がない。腕を上げて肌を見ても、擦り傷一つ残っていない。背中にそっと手をやり肌をなぞる。
「……傷がない……」
「天使様がお治し下さいました」
「天使様が……」
ポトリ、と涙が湯船に落ちる。
「……ぅっ…ぅ……」
嗚咽が溢れる。助けてくれた天使と、傷を癒やして治してくれた天使への感謝と……
「……お、父様……お母…さま……」
もう、二度と会えない両親への想いに、声を抑えることができなかった。
湯殿係は視線を伏せたまま、何も言わない。ただ静かに、その時が過ぎるのを待っていた。
その後、涙が収まったアンジェリーヌは湯殿係に丁寧に髪と体を洗ってもらい、再び湯に浸かった。身体が温まるとともに、体の強ばりも解けていく。
頃合いを見て湯殿から出ると、控えていた侍女に小さなグラスを手渡される。
「アンジェリーヌ様、こちらをどうぞ」
それは、不思議な飲み物だった。
透明なのに、グラスを傾けるたび、表面に虹色の光が揺らめく。
アンジェリーヌは、恐る恐る口をつける。
「──甘い……」
蜂蜜の味がした。くどくなく、飲みやすい。不思議と、体の奥が暖かくなっていく。
「これは、なんですか?」
「セラの実でございます」
「こちらへどうぞ」
美容係に促され、小さな椅子へ腰掛ける。
「セラの実……」
「はい。王族の皆様のために実る特別な果実でございます」
手早く丁寧に肌を整えられ、今度は簡易寝台にうつ伏せになる。湯殿と同じ香りのオイルを使い、整術師に体を解される。
「そんな、貴重なものを頂いてよろしいのでしょうか……」
「アンジェリーヌ様は王女殿下ですもの。甘くお感じになられたのでしょう?」
「……はい……蜂蜜の、味が……」
「それは、ようございました」
ふわり、ふわりと、意識が溶けていく。
ゆるり、ゆるりと、体の強ばりもほどけていく。
規則正しい寝息が聞こえ始める。
整術師は小さく頷き、美容係と静かに微笑み合った。
「お休みなさいませ、アンジェリーヌ様」
誰にも聞こえないほど小さな声で、美容係が呟いた。アンジェリーヌは深い眠りへと落ちていった。




