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 レオナール達が退室したあとの室内は、すでに診察の準備が整っていた。

 扉の内側には衝立が設けられ、廊下から寝台が見えぬよう配慮されている。さらに寝台の反対側にも衝立で区切られた一角があり、そこは医師と医官が待機するための控えとなっていた。


「医師、お願いします」


 フェリシエンヌが声をかけると、衝立の奥から壮年の男性医師が姿を現す。長年王家に使えている優秀な医師は、フェリシエンヌに軽く一礼してから寝台のそばに移動する。

 アンジェリーヌは未だ毛布に包まれたまま、横向きに寝かされていた。一人の侍女が診療記録を取るため、小卓に控えていた。


「この向きで下ろされたのは王太子殿下ですか?」

「はい」


 医師は少し思案すると、寝台の反対側に回り込んだ。寝台の傍らには、診察用の椅子が用意されていた。医師は軽く頷いて席に着いた。


「では、診察を始めます」


「意識なし。発熱あり。呼吸に乱れあり。顔色不良。両頬に腫脹、発赤および赤紫色の打撲痕あり。複数回の平手によるものと思われる。眼窩には濃い隈。皮膚は乾燥。口唇は青紫色を呈し、乾燥、皮剥け、裂傷あり。極度の脱水症状が見受けられる。栄養状態も不良」


 医師の言葉を侍女が記録していく。次に医師はアンジェリーヌの腕を取り、短く息をのむ。


「拘束痕あり。鬱血重度。脈は正常範囲内」


 そこまで終えてから、医師は席を立った。


「毛布を剥がしてください」


 寝台を回り込みながら医師が静かに指示を出す。


「……失礼いたします」


 小さく呟いた侍女達は、震える手で毛布をめくり、その下の外套へと手をかけた。ゆっくりと外套を外す。


 ──血で染まった背中が顕になった。


「あっ……」

「……そんな……」

「酷い……」


 あまりの惨状に手が止る。


「王太子殿下が意味もなく横向きに寝かせたと思えなかったのですが、ここまでとは……」


 目にした医師も顔を歪めずにはいられなかった。


「うつ伏せに……いえ、このままで結構です。傷が開くといけない。天使様の治癒まであまり動かさないほうがいいでしょう」


 医師は慎重にアンジェリーヌの傷を診た。


「これは……おそらく鞭の痕です。新しい傷が多い。治りきらないうちに、何度も同じ場所を打たれています」


 フェリシエンヌと侍女たちが、思わず口元を覆う。


「……酷いことをする」


 冷静沈着な医師が、小さく呟く。

 フェリシエンヌの視界が歪み、涙がこぼれ落ちる。衝撃が強すぎて、声が、出なかった。


「私の診察はここまでです。次は医官にお願いします。診断書には全て記載いたします」


 医師はゆっくりと席を立ち、衝立の奥へと向かい、控えていた女性医官にあとを引き継ぐ。ドサリと椅子に腰掛けた医師は、思わず自分の顔を手で覆った。


「本当に、酷いことをする……」


 なぜ、あんな華奢な少女にあんな仕打ちができるのか……

 血で染まった華奢な背中が、しばらく脳裏から消えそうになかった。


 寝台の周りにさっと天蓋が下ろされる。女性医官が衝立の奥から姿をあらわすのと同時に、部屋の扉が叩かれた。すぐに侍女が応対して、エレオノールが入室してくる。


「アンジェは……」


 エレオノールは言いかけて、視界に飛び込んで来た血まみれの背中に絶句する。


「お義母様……」


 フェリシエンヌは、それ以上声が出ない。エレオノールの瞳にも、じんわりと涙が浮かぶ。


 ──許せない。


 大切な孫を、姪を。このような目に合わせた者が、許せなかった。


「王妃陛下。始めてもよろしいでしょうか」


 医師と交代した女性医官の声が低い。激情を押し込めているような声に、ハッとしたフェリシエンヌがすぐに許可を出す。


「始めてください」


 女性医官は侍女長と二人で天蓋の中に入り、慎重に診断を重ねていく。


「左太腿に打撲痕。右太腿は異常なし。両足とも骨折はなし。右足首に腫れ。骨折はなし。捻挫ですね。左腕は打撲痕と擦過傷。右肘に鬱血。右腕に擦過傷。首にも細い擦過傷と鬱血」


 女性医官の声がどんどん低くなる。彼女も相当怒りを堪えているようだ。一度目を閉じ、ひと呼吸置いてから彼女は続けた。


「衣服は緩められますか」

「確認します」


 侍女長が極力アンジェリーヌの傷に触らないように、注意深く衣服を確認する。


「……難しいですね」


 頭から被るだけの衣服に、侍女長が首を横に降る。医官は少し考えた。


「では脇を解きましょう」


 侍女長が息をのむ。


「……申し訳ございません。診察のため、衣服を裁ちます」


 女性医官は、天蓋の外で控えているフェリシエンヌに許可を求めた。


「構いません。アンジェを優先してください」

「ありがとうございます。侍女殿、お願いします」

「……はい。……失礼します」


 フェリシエンヌの許可と医官の指示を受けた侍女長が、慎重な手つきで脇の糸を切っていく。

 糸を切り終わった時、侍女長の額には薄っすらと汗が滲んでいた。


「診断のために脇を裁断した旨を記載して、保管してください」

「承知しました」

「では、続けます。……胸元は異常なし。肋骨が浮き出ています。……腹部に打撲痕。大きいものと小さいもの。形状から靴痕のように思われます……」


 女性医官は奥歯を噛み締めた。少し拳に力が入っている。彼女は大きく息を吸い、最後の診断に取り掛かった。


「……失礼します」


 最後の診断を終えた女性医官は、深く大きな息をついた。強張っていた肩からも少し力が抜ける。


「……女性の尊厳は、守られております」


 少し大きな声が出たのは、安堵のせいか。

 打撲痕の数々に、最悪の事態を想定しながら取り掛かった診断の結果に、ほっとしたのか、喜んだのか。彼女自身にもわからなかった。

 共に天蓋の内にいた侍女長も目元を拭い、天蓋の外の空気も少し緩んだように思える。

 女性医官は一つ息をつき、席を立つ。侍女頭と二人で天蓋の外にでると、抱き合って涙を流すフェリシエンヌとエレオノールがいた。


「では、診断結果を医師に渡して診断書の準備を致します」


 女性医官が診断結果を医師へ渡そうとした、その時だった。


「診断は終わったのだな」

「はい」

「では治癒する」


 女性医官の耳元で、突然声が響く。反射的に返事をした、その瞬間──


 パァァァッ──


 天蓋の内から眩い光が溢れた。

 同時に何柱もの天使が室内に顕現する。


「ミカエル様、愛し子は!?」

「ウリエル様、治癒の力は足りますか!?」

「癒やしならラファエル様のお力を授けられた私が!」

「それはお前の制御のためのお力だろう!」

「まだですか!?」


 口々に叫ぶ天使に、フェリシエンヌの涙が引っ込む。


「天使様方。姿を消してここにいらしたのですか」


 少し声が低くなるのは仕方がない。


「違うぞ」

「貴方達の補佐天使が伝えに来たのです」


 天蓋の中から現れたミカエルに灰色の猫が擦り寄り、ウリエルの肩に蝶が止まる。王族に嫁いだ女性へ寄り添う補佐天使。力は弱く、できるのは簡単な伝達や危険を知らせる程度である。


「貴方たちでしたか……」


 肩を落とすフェリシエンヌの肩に、蝶がふわりと止まる。


「貴方も心配だったのね」


 灰猫がすりすりと、エレオノールの足元にじゃれつく。


「終わった。これで問題ないだろう」

「はい。傷も栄養状態も問題ありません。汚れも落としてあります」

「……あ」


 天蓋のそばに控えていた侍女が、小さく目を見開いた。

 わっと天使達が沸く。

 フェリシエンヌとエレオノールは互いを見やり、小さく嘆息した。

 それから、はっと我に返る。二人は慌ててアンジェリーヌの寝台へ駆け寄り、天蓋の中へ入った。

 そこには、もう血の痕はなかった。穏やかな寝息を立てるアンジェリーヌだけが、静かに眠っていた。

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