9
特別緊急転移陣の間。
片隅に腰掛けた大公妃エレオノールは、静かに手を組んでいた。侍女が静かに動いて小卓に茶器を置く。
「大公妃陛下、お茶をお持ちしました」
「ありがとう」
返事はしたが、手に取る気にはなれなかった。この組んだ手を解いてしまうと、何かが壊れそうな気がして……
どうしても、できなかったのだ。
小会議室に届いたという天使の知らせを聞いたのは、この部屋に腰を落ち着けてからだった。
耳を、疑った。そんな馬鹿なことがあるものかと、否定したくなった。
レオナール達が疾走していたので、アンジェリーヌに危険が迫っているのだと察したが、まさか処刑場へ引き出されたなどと、誰が思うだろうか。
娘に続いて孫娘まで失うかもしれない恐怖に、エレオノールは震えた。
組んだ指先が冷えている。もう、自力では解くことができないかもしれない。そんな恐怖に、ただ一人耐えていた。
キィィィィン!!
緊急転移を知らせる音が響き渡る。護衛騎士たちがぱっと姿勢をただし、エレオノールがはっと顔を上げる。
パァァ──
目を開けていられないほどの眩い光に思わず目を閉じる。
「医師を呼べ!」
「早く!!」
「急げ!!」
光が収束するのを待たずに飛び交う怒号に、エレオノールが音を立てて立ち上がる。
収束しかけた光の中に、待ちかねた者たちがいる。
最初に見えたのはレオナールと、その腕に抱かれたアンジェリーヌ。
血の気の失せた顔。
毛布に包まれた小さな身体。
ほんの一瞬、最悪の事態が心に過る。けれども、耳に戻って来た音が、そうではないと事実を告げる。
エレオノールは一瞬だけ息を呑む。だが、次の瞬間には表情を引き締めた。
「熾天宮へ。医師を待機させています」
短く、それだけを告げると、レオナールが頷く。
「はい」
レオナールの姿がふっと掻き消えた。残る孫達もすぐに続いた。その、ほんの一瞬。レオナール達の背に広がる翼が、初めて目に入った。
「あれは……」
「天使が融合しているようだ。ここから直接転移したのも、天使の力だろう」
一瞬呆けたエレオノールに、ゆっくりと近づいて来たフェリクスが応える。その声には、険しさとほんの少しの安堵が滲んでいた。
「そんなことが……?」
「特例だそうですよ」
ルネが小さく肩を落としながら言う。
「……また置いて行かれたか。お前たちは内門詰所で待機だ」
「はっ!」
ルネ達に同行した護衛騎士と、転移陣の間に控えていたレオナールの護衛騎士が飛び出していく。フェリクスとルネがそれに続こうとする。
「お二人は小会議室へ」
短く告げると、二人がピタリと止まる。
「国王陛下にご報告を。殿方のお仕事です」
二人は視線を交わした。気持ちはわかる。痛いほど。
だが──
「ここからは、わたくしたちの仕事です」
静かな声に、二人は短く息をつく。
「……わかった」
「承知しました。母上、あとを頼みます」
二人も意識を変えたのだろう。そのまま、何も言わずに小会議室の方へ歩いていく。その背を見送りながら、エレオノールも短く息をつく。
「わたくし達も熾天宮に参りましょう」
「はい」
エレオノールは侍女を引き連れて、王宮内専用転移の間へと足を向けた。
熾天宮。
正面入口では、王妃フェリシエンヌを中心に、侍女長、侍女、王宮医師団が待機していた。
誰もが、固唾を呑んで待つ。
レオナール達が到着すれば、特別区内壁の門から知らせが届く手筈になっている。
いつその知らせが来るかと、逸る気持ちを抑えて待つ。
最初に届いたのは、マリーアンジュの訃報だった。あまりのことに声を失うフェリシエンヌに、続いて届けられたのは大公妃からの知らせ。
「アンジェリーヌ王女殿下が戻られます。至急、医師団の手配を」
熾天宮は、にわかに慌ただしくなった。そうして、さらに届けられた知らせに、熾天宮は騒然となる。アンジェリーヌが処刑場へ引き出され、レオナール達が救助へ向かったというのだ。
慌てるな。落ち着け。冷静になれ。どうか、ご無事のご帰還を──
皆は王妃の指揮のもと、一丸になって行動した。そうして、待つ。ただひたすらに。
キィィィィン──
突然聞こえた緊急転移の音と、眩い光。
来た──
ここへ直接転移できるはずがない。だが、そんなことを気にする者はいなかった。
光の中に現れたのは、翼を広げた六つの人影。背に広がった翼が光の粒子となって霧散する。レオナールの腕には、毛布に包まれた淡い金の髪──
誰かが息をのむ。
声が上がる、その寸前。
「レオナール、アンジェを客室へ。医師団が待機しています」
フェリシエンヌの声が、その場にいた全員を現実へ引き戻した。
「担架をっ!」
「急いで!」
「いや、私が運ぶ」
慌てる者たちを制したのはレオナールの抑えた声。
「ですが……」
「動かすと傷に触る。案内しろ」
「っ──、はい! こちらです!」
時を止めたかのように息を潜めていた熾天宮が、一気に動き出した。
レオナールは、案内の者に続き、静かに歩を進めた。イヴォンやヴィクトル、ジャン、シャルル、ジェラルドも当然のようについてくる。
「レオン、早くしろ」
ゆっくり歩くレオナールに、ヴィクトルが苛つく。
「うるさい。傷に触ったらどうする」
レオナールは、思わず声を荒げた。気は急いている。当然だ。早く医師に診断させたいに決まっている。だが、この一歩がアンジェリーヌの傷に触るのではと思うと、どうしても慎重になってしまう。
「医師の診断など必要か」
「我々がすぐ治せばいい」
レオナールのすぐ側で、ミカエルとウリエルが今にも神気を放とうとする。
「ミカエル様、ウリエル様。お気持ちはわかります。ですが、医師の診断は必要です」
「時間がかかる……」
「その間、愛し子が苦しむ」
いつもより低い声でジャンが言う。それでも納得できないと、天使達の翼がうごめく。
「そうだよ。あいつらに諸々を突きつけるために診断書は必要なんだから」
にこやかに、冷え冷えとした瞳のシャルルに、ジェラルドはぎゅうっと眉根を寄せた。
「僕は、早く治してほしい……」
「ジェラルド、皆同じだ。俺もそう思っている」
ジェラルドの背を叩くイヴォンの言葉が崩れている。ジェラルドは、それだけで兄の怒りの深度を理解した。
「でも、必要?」
「そうだ」
周囲では、それぞれの守護天使達の翼が音を立てている。心配も、早く治したい気持ちも、皆同じなのだ。
人も、天使も。
むしろ、瞬時に治癒できる天使の方が、もどかしい思いを抱えているのかもしれない。
「こちらです!」
開け放たれた扉をくぐる。
寝台には厚手のシーツがかけられている。レオナールは、極力衝撃を与えぬように、そっと静かにアンジェリーヌを下ろした。
腕の中が軽くなる。腕に残る温もりだけが、その喪失を訴えていた。
──離したくなかった。
下ろさなければ医師の診断ができない。医師の診断がすまなければ、天使の治癒が行えない。
わかっていても、一度腕に刻まれた重みと温もりを、離したくない。
そっと手を伸ばす──
「貴方達は退室なさい」
頬に触れる寸前に、その手がピタリと止まる。
「母上……ですが」
「アンジェの肌を晒すことはできません」
一瞬言葉を切り、フェリシエンヌは静かに続けた。
「天使様方もです」
天使達がいっせいに固まる。翼が激しく揺れる。拒否か、動揺か。
まだ本契約を終えていないガブリエルとラファエルの神気が、焦燥を滲ませる。
「しかし、治癒が……」
ミカエルが静かに口を開いた。
「まずは診断です。終わりましたらお呼びします。退室を」
フェリシエンヌは断固と告げるが、天使達はまだ動かない。
「……本当にすぐだな?」
「はい。すぐにお知らせします。ですから退室を」
「……従おう」
ミカエルが、ようやくそれを口にした。
「レオナール、貴方達も退室なさい」
「……アンジェを、頼みます」
レオナールも天使達も、引き下がるしかなかった。
「天使様方。姿を消して残ることはなさいませんように」
「…………わかった」
レオナール達は名残惜しさを胸に、静かに部屋をあとにした。
閉ざされた扉の向こうには、ただアンジェだけが残された。
静まり返った廊下では、誰一人、その場を離れようとはしなかった。誰もが、ただ閉ざされた扉を見つめていた。
そこへ、エレオノールが静かに歩み寄ってきた。
「レオナール」
返事はない。
「皆もです」
拒否を許さぬ声音に、ようやく六人が振り向く。
「客室の用意ができています。湯浴みをして、身支度を整えていらっしゃい。レオナールとシャルルは、以前使っていた部屋へ」
ヴィクトルが反射的に首を振る。
「嫌だ。離れたくねぇ」
イヴォンも静かに首を横に振る。
「……俺もです」
ジャンも、シャルルも、ジェラルドも、それを拒否した。レオナールも扉から目を離さない。
「アンジェが……」
そんな孫達に、エレオノールは少しだけ表情を和らげる。
「アンジェが目を覚ました時。その姿で会うつもりですか。雪で濡れて、泥が付いて、埃まみれ。髪まで乱れたままで。アンジェとの最初の対面が、その姿でよいとでも?」
六人が黙る。ちらりと隣に目をやり、自分の服に視線を落とす。
「医師の診断には時間がかかります。天使様方の治癒はすぐに終わるでしょう。ですが、アンジェにも食事と湯浴みが必要です。その間に身支度を整え、貴方達も食事を済ませていらっしゃい。ここは、わたくしたちが見ています」
その一言で、ようやくレオナールが目を伏せる。
「……はい」
ここでも、従うしかなかった。六人は後ろ髪を引かれながら、それぞれ用意された客室へと足を向ける。




