8
白翼峰──
転移扉の前で守護天使と融合したレオナール達の視界が白く染まる。
次の瞬間。
レオナール達の視界の先には、断頭台に首を晒したアンジェリーヌ。
血に染まった背中へ影を落とすように、処刑剣が振り上げられていた──
いつもと違う、安全性を無視した強引な転移。生身なら命に関わる無茶な移動。だが、天使と融合した彼らの身体は、それに完璧に耐え切った。
目を射るような、眩しい白銀の光が収まる。
レオナールは真っ先にアンジェリーヌを見た。
そこにいる。
傷だらけの、小さな婚約者が。
「アンジェ──」
世界から音が消える。
もう、彼女しかみえない。
耳に届くのは、自らの鼓動だけ──
その瞬間、ヴィクトルが何もない足元を強く蹴った。
──ギィィン!!
処刑剣が砕け散る。
「俺の妹に何してやがる!」
怒声とともに、ヴィクトルは兵士を薙ぎ払う。怒りで思考は焼き切れていた。それでも口をついて出たのは、アンジェリーヌのために皆で学び続けたホーフダル語だった。
イヴォンもまた、光のように飛び出してアンジェリーヌの髪を掴んでいた兵士を吹き飛ばす。すぐに純白の双翼を大きく広げ、アンジェリーヌを庇うように包み込む。
コツン、カツン──
翼に処刑剣の残骸が降りかかる。
「大丈夫ですか、従妹姫」
ジェラルドもほぼ同時だった。残りの兵士を吹き飛ばし、すぐさまアンジェリーヌのそばに膝をつく。
「大丈夫? 従姉姫。遅くなってごめんね……」
アンジェリーヌの無残な様に涙が滲む。その怒りに呼応するように、純白の翼が震えた。
「なんだ!?」
「何者だ!?」
「不審者だ! 捉えろ!!」
慌てて処刑台に上がってくる兵士は、ヴィクトルが容赦なく吹き飛ばす。
バサリ──
静かな羽音が耳を打つ。
人々は、一瞬処刑台のことを忘れて音の源に視線をむけた。
そこには──
四枚の翼をゆっくりと広げるレオナールがいた。身動ぎ一つせず、ただアンジェリーヌだけを見つめている。
爆風の余韻に、白く輝く長衣が大きく翻り、白銀のクラバットがふわりと揺れる。
結われていた蜂蜜色の髪がほどけ、翼に煽られるようにゆっくりと広がっていく。
濃い蒼で縁取られた黄金の瞳だけが、凍てつくような怒りを宿していた。
レオナールはすっと音もなく処刑台に降り立った。
近づくと血の匂いが鼻につく。
バサリ──
沸き起こる怒りに呼応して、四枚の羽がさらに広がる。
「……私の婚約者に、なにをしている」
凍えるような声に、周囲の音が消えた。音が消えたのはほんの一瞬のことだった。
「今、なんと言った?」
「……婚約者?」
「聞いたことがないぞ」
「そもそも、あの者達は誰なんだ?」
「天使が、婚約者だと……?」
貴族席からひそひそと、ざわざわと声が広がっていく。
それ以外の、無理矢理集められた民達はじっと息を潜めて事の成り行きを見守っていた。
「なっ……何をしている! あの者達を捉えよ!!」
最初に声を荒げたのはヘイルト。
「あの女の婚約者ですって!? 違うわ! その女はもう王女じゃない! 今の王女はティーネよ! お前の婚約者はティーネなの!!」
何やら奇妙なことを言い出したヤンティーネに、ヴィクトルが顔を歪める。おそらくレオナールに向かって叫んでいるのだろうが、肝心のレオナールは一顧だにしない。
ますますヒステリックになるヤンティーネを、カスペルが怒鳴りつけた。
「黙れ! ティーネ!! ええい! 何をグズグズしている! お前ら、さっさと行け! 早くあの化物達を捉えろ! この愚図どもが!!」
唾を飛ばして激高する。
そんな彼らの様子を、まだ空中に留まっていたジャンとシャルルが静かに睥睨していた。
誰が、何を言っているのか。
誰が、どんな行動をしているのか。
誰が、どんな表情をしているのか。
一つも漏らさず、何もかもを。
脳裏へ、一つ残らず焼きつけていた。
膨大な情報を余さず記憶できるのは、融合している天使の補助の賜物だ。
ジャンがふと空を見上げる。
「……父上」
ありがとうございます。
待ち兼ねた物の到着に、ジャンは小さく礼をする。
「シャルル、あとを頼みます」
返事を待たずに、ジャンは地上にふわりと降り立った。
「任せて」
シャルルは、いつもと変わらぬ笑みを浮かべた。ただ、その瞳だけが冷え冷えとした光をたたえていた。
「静まれ!!」
朗々とした声で周囲を制したジャンが高らかに宣言する。
「ここにおわすはセラファン王国王太子、レオナール殿下であらせる!」
ジャンの宣言に、どよめきが広がる。
バサァァ!!
その宣言と同時に、黄金の光を纏った書類が空から飛来した。ジャンは迷いもせずにその書類を掴み、さっと一読する。
「今よりセラファン王国国王、ルイ陛下からの書状を読み上げる!」
手にした書類を高々と掲げると、今までのホーフダル語から切り替えて、朗々としたセラファン語で読み上げる。
「セラファン王国、王家台帳ならびに王族登録簿に基づき宣言する。
サラ・フォン・ホーフダルの正式名は、
アンジェリーヌ・ローズ・ブランシュ・アリス・エレオノール・ルイーズ・マリー・アンリエッタ・ジョゼフィーヌ・ルネ・リリアーヌ・ド・ランジュ。
セラファン王国王女マリーアンジュ殿下の嫡出の娘にして、セラファン王国王女位を有する者である。
よって、ホーフダル王国にアンジェリーヌ王女殿下を処刑する権限は存在しない。
ルイ国王陛下の命により、アンジェリーヌ王女殿下の身柄を保護する」
ジャンの宣言の内容を聞き取れたのは、極少数の者たちだった。彼らの顔に、困惑と、驚愕と、絶望が広がっていく。
「──続いて、ホーフダル語にて告げる」
ジャンは流暢なホーフダル語で、今と寸分違わぬ内容を読み上げた。
ジャンの読み上げる内容は、全ての者の耳に直接響いた。彼から遠く離れた者の耳にも、一言一句、響いてくる。何故、この声が届くのかわからない。けれども、読み上げられる内容が、思っても見なかったことに、人々はただ驚愕し、困惑した。
その喧騒の中で、レオナールはただアンジェリーヌだけを見つめていた。
青白い顔には濃い隈が落ち、痩けた頬の肌は乾いてかさついている。乱れた白金の髪は輝きを失い、頬にはまだ腫れと赤紫の打撲痕が残っていた。切れた唇も乾き、ところどころ薄く血が滲んでいる。
それだけでも、どれほど酷い目に遭わされたのか分かる。
けれど、視線を下ろした先にあった背中一面の傷を見た瞬間、レオナールの胸の奥で何かが焼けつくように熱を持った。
鞭か、何かで何度も打たれたのだろう。治りきらないうちにさらに傷を重ねられたのか、古い痕に新しい裂傷が重なり、そこから滴る血が彼女の命そのものを奪ってしまいそうに見えた。
──許せない。
握りしめた拳に、力がこもる。
アンジェリーヌを傷つけた者を。
そして、ここへ来るのが遅れてしまった自分を。
どちらも、許せなかった。
もっと早く来ていれば、こんな傷を負わずに済んだのではないか。
あの時、もっと早く駆けていれば。
あの時、もっと早く動けていれば。
守ると約束したのに。
傷つけたくなどなかったのに──
抱き上げようと伸ばした手を、寸前で止める。このまま抱けば、傷に触れてしまう。
「イヴォン」
「はい」
すぐにイヴォンが腕輪から外套を取り出し、そっとアンジェの背を包む。さらにもう一枚、厚手の毛布を取り出して華奢な体を包んだ。
レオナールは、そっとアンジェリーヌを抱き上げた。
軽い……
あまりにも軽い。抱きしめた腕に力がこもる。
「アンジェ……」
初めてこの腕に抱いた愛しい人は、消えてしまいそうなほど軽かった。
ほんの少し、薄っすらとアンジェリーヌが瞼を開く。
「──天使様……」
薄っすらと開いた瞳は、すぐに閉じられた。
「帰ろう、アンジェ」
立ち上がったレオナールを守るようにイヴォンが続き、ジェラルドもそれに倣う。ヴィクトルは喚く者達を威嚇しながらあとに続く。
「ルイ国王陛下の命により、アンジェリーヌ王女殿下の身柄を保護する」
ジャンのホーフダル語での宣言が終わった。ジャンが読み終わった書類をくるくると巻き、腕輪に収納する。
用事は済んだ。
あとは一刻も早く帰還して、アンジェリーヌを治癒して休ませる。そうして、一歩踏み出した時だった。
「待ちなさい! そいつは泥棒よ! ティーネの首飾りを奪ったんだから! 返しなさいよ!!」
耳障りな叫び声に、レオナールは静かに振り向いた。
先ほど、アンジェリーヌを包んだ際、胸元に見えた薄青のきらめき。見る角度によって表情を変えるそれは──
「それはセラファンの王家石だ。アンジェ誕生の折、王家より授けられた魔導具。王族以外、身に着けることはできない。我々の額飾りと同じものだ」
「嘘よ!」
喚くヤンティーネを無視してふわりと浮き上がる。
レオナールに続いて、イヴォンとジェラルドが、あとを追うようにジャンとヴィクトルが続く。
彼らと反対に、それまで空中に静止していたシャルルが、ゆっくりと地上に降りてくる。ほんの僅かに視線を上げたシャルルが、静かに笑う。
「詳細は後日。正式な使節を派遣します」
笑みが深くなる。
穏やかな笑みのまま。凍えるほどの冷たい瞳のせいで震えるほど恐ろしい。
そうして、淡い長衣を翻して空中で待つレオナール達に合流する。
「帰還する!」
ジャンの宣言とともに、彼らの姿は光の中に掻き消えた。
そうして、その場は──
阿鼻叫喚に陥る王侯貴族と、歓喜に沸く民衆とで真っ二つに割れた。
「き、消えた!? 姫が消えたぞ!」
「何だ、今の光は!」
「翼だ……! 人間に翼が生えていた!」
「セラファンだと!?」
「ホーフダル語だったぞ」
「本物か?」
「空を飛んだぞ!」
「探せ!! まだ近くにいるはずだ!」
「どうやって国境を越えた!」
「まさか本当にあの大国が……」
「王太子と言ったな?」
「本物なのか……?」
「もし本物なら……終わりだ」
「事実確認を急げ!」
「ティーネの首飾りよ!! 返しなさい! それはティーネの物!!」
「追え!!」
「殺せ!!」
王侯貴族は阿鼻叫喚のるつぼに。
一方の、民衆たちは──
「……助かった」
その一言が引き金だった。
「助かったぞ!」
「サラ姫様が!」
「良かった……!」
「生きておられた!」
「神よ……ありがとうございます!」
誰からともなく拍手が起こる。
パチ、パチ、パチ……
やがてそれは大きな歓声へと変わっていく。
「姫様!」
「どうか、お幸せに!」
「生きていてくださってありがとう!」
「どうかご無事で!」
「今までありがとうございました!」
涙を流しながら叫ぶ者。
帽子を掲げる者。
膝をついて祈る者。
子どもを抱き上げて笑う母親。
その歓声を聞いたヘイルトが顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
「黙れ!!」
しかし、誰も止まらない。
「万歳!」
「サラ姫様、万歳!」
「セラファン万歳!」
その歓声の中で、ひっそりと涙を流す一団がいた。
「迎えに来てくれたんだ……」
「間に合ったんだね……」
離宮でサラ姫に仕えていた者たちは、抱き合いながら静かに涙を流していた。
民衆に紛れるように、胸へ手を当て静かに頭を垂れる貴族もいた。
かつてダーフィットとともに改革を進めた者。
ヘイルトとカスペルに家族の尊厳を踏みにじられた者。
誰も声は上げない。ただ、救い出した六人へ、深い敬意だけを捧げていた。
この日、ホーフダル王国には、新たな風が吹き始めた。
それは、旧体制崩壊の序章でもあった。




