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アルヴェリア大陸北方、小国郡の一つホーフダル王国。
人跡未踏の大山脈ヘーメルルフを背にし、東には登頂困難のクローンルフがそびえる。天然の要塞とも呼ばれるその国は、国土の大半が未開発の険しい山々で占められていた。
北の春は遅い。
王都モルヘンダルにも、まだ雪が残っていた。
こじんまりとした王都の端にあるブルームホフ離宮の一室で、王女サラは湯気の立つ紅茶を一口含んだ。ミルクで煮出して蜂蜜を入れた紅茶はサラのお気に入りだ。
向かい側には母である王妃マリアアンシェも同じ紅茶を手にしている。
外はまだ雪景色だ。
「お父様、今日は黒冠宮からお戻りになるかしら……」
ちらちらと降る雪に、つい言葉が漏れる。父は政務のため王宮に出仕している。
「お戻りになられますよ」
「本当に?」
「ええ。雪が溶ければすぐに貴方の誕生日ですもの。花嫁修行で国を離れる貴方との時間を何より大切になさっていらっしゃる方が、戻らぬはずがありません」
微笑む母に、サラはほんの少し眉根を下げた。
次の誕生日でサラは十五歳。成人を迎えたら婚約者のいる南の大国からの迎えが来る。
生まれてすぐに決まった婚約者とは、まだ一度も会ったことがない。母は大丈夫と言うが、不安になるなという方が無理である。
「お父様はお母様と離れる方がお嫌だと思います」
サラが南の大国へ向かう際は、母も帯同することになっている。母にとっては十数年ぶりの里帰りだ。
「戻って来なくなると不安なのですわ」
「まぁ……。ふふっ。大丈夫ですよ。寂しがり屋のあの方を長くお一人にはいたしませんもの」
「わたくしも、お父様とお母様と離れるのは寂しいです」
視線を落とすサラに、母は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。貴方は、あちらで歓迎されますもの」
母は自信たっぷりに微笑みを深める。
「わたくしの両親も、お兄様方、お義姉様方も。貴方の従兄弟である甥たちも、みんな貴方が来るのを心待ちにしています。きっと賑やかよ」
「王太子殿下は……」
「一番貴方を大切にしてくれます」
断言する母に、サラはほんの少しの不安を混ぜて嘆息する。従兄弟や伯父達が本当に大切にしてくれることなど、あるのだろうか。
ホーフダルの従兄姉も叔父も叔母も、サラには辛辣だ。大国の姫である母にさえ悪辣な物言いしか聞いたことがない。サラにとって親戚縁者は怖い人、悪意を向ける人たちだ。
母が語る南の王国の親族たちも、どこか現実味のない存在でしかない。自分を歓迎してくれるなど、想像もできなかった。
──その言葉が真実だと知るのは、もう少し先のことである。
母の断言通り、父は夕方には離宮に戻ってきた。
「おかえりなさい、お父様!」
「ただいま、サラ。かわいい私の天使」
出迎えたサラを父は優しく抱きとめる。帰宅したばかりの父の外套はひんやりしていた。
「おかえりなさいませ、ダーフィット様。お寒いでしょう。ここは冷えます。早く中で温まってくださいな」
「ただいま、マリア」
サラとの包容を解いた父が、母の頬に唇を寄せる。父母の仲の良さはサラの心を温かくする。
「着替えてくる。食堂でまた会おう」
父は外套を侍従に預け、着替えのために自室へと向かう。
「わたくし達も晩餐の準備をいたしましょう」
「はい、お母様」
父のあとを追うように階段を登り、それぞれの部屋へ足を向ける。
侍女の手で晩餐用の衣装に改めて、足早に食堂へ向かう。
「姫様、お急ぎにならなくも、陛下もお食事も逃げませんよ」
侍女のヒルダはクスクスと笑う。
「急いでたかしら?」
「ええ、少しだけ。落ちついて、ゆっくりですよ。妃殿下を意識なさいませ」
「気をつけます」
心もち頬を赤らめたサラは、今度は意識してゆっくりと歩く。
母の言動はサラの手本だ。優美で、優雅で、隙がない。娘の自分がついつい見とれてしまうほど所作が美しい。
足の運び、指先の一本一本まで。どこをどうすれば母のようになれるのだろう。
母は合格点を出してくれるが、サラにはどうしても納得できない。母の域に辿り着くにはまだまだ足りない。母に追いつくのはサラの永遠の課題なのかもしれない。
晩餐は賑やかで慎ましい。
王宮では眉をしかめられるが、この離宮では使用人も同じ席に着くからだ。
家令、侍従、侍女、書紀、庭師に料理人、薬師。それぞれの見習いや彼らの弟妹の小さな子。一部の警備の者を除いた全員が同じ席に着く。
みんな、サラの大切な家族だ。
料理も肉や根菜がたっぷり入った熱々のシチューに柔らかいパン。野菜の和物。デザートはサラのお気に入りの焼き林檎。
これらの献立も王宮の基準ではありえないものだが、この離宮では当たり前だ。
庶民と同じものを食べて何が悪い。
父の口癖である。
本音は? と聞くと、寒いときに温かいものを食べるのが一番のご馳走だと返された。
王宮の食事は数度の毒味を経てから口にできる。幼い頃から父は温かいものを温かいうちに口にできない生活を送っていたらしい。
今でも王宮での食事は同様で、それが嫌だから意地でも帰って来るのだと笑って言う。
「お前にそんな食生活はさせたくない」
それも父の口癖だ。
国王と王妃、王女である三人は本来なら王宮に居を構えるものである。それなのに、王都の外れのこじんまりした離宮住まいをしているのは、ホーフダル貴族の古くからある価値観のせいだ。
黒髪黒目こそ至上の存在。
いつからあるのかわからない、古い伝統。いつから根づいた価値観なのか誰にもわからないが、建国当初はそこまで極端ではなく、たまたま当時の権力者がそうだったことが始まりなのかもしれない。
ただ言えるのは、これはホーフダルの社交界だけの常識で、他国では通用しない常識だ。
隣国王妃を母に持つ、父ダーフィットは茶髪茶目。
母マリアアンシェは南の大国の王女でホーフダルの色彩とは真逆な色合いだ。
そしてサラは――母の色を濃く受け継いで生まれた。その色彩のせいで、大国の姫である母もサラも「色なし」と蔑まれている。
祖父が健在だった頃はまだ抑えが効いていたのだが、祖父の崩御と共にそれらが激化した。
様々な悪意や、時には命を狙われる事態から身を守るために、父は王宮を離れることを決意。
父と祖父が保護していた孤児達が住むこの離宮へと生活の場を移し、以降父は執務のために王宮に通う日々を送っている。
「お父様」
焼き林檎を前に、サラは少し口ごもる。
「どうした?」
「……お父様は、お母様の髪は好きですか?」
父は目をぱちくりと瞬いた。
「何を当たり前のことを……。もちろん、大好きに決まっている。マリアは月の女神のような透き通るような白金も、サラの陽に透ける淡い金の髪も、私は大好きだよ」
「まぁ、ダーフィット様ったら……」
照れもなく母を女神に例える父に、なぜだかサラの方が気恥ずかしい。
「瞳の色も大好きだ。マリアの瞳は天空色に銀の光。まさしく月の女神」
あ、父が止まらなくなった。
「サラの瞳は絶品だ。エメラルドグリーンに金橙の花が咲いている。春の妖精、女神……いや、天使だな。うん、天使だ。春の陽だまりの天使。私のかわいい天使だ」
「お父様、やめてください…。恥ずかしいです……」
本当に失敗した。父は母を褒め称えることに余念がない。娘の自分にも余波が来ているが、それは親の欲目に違いない。
「髪や瞳の色に拘るのは愚かな事だ。父上……お前の祖父も常々そう仰っていた」
「お祖父様も?」
父は小さく頷いた。
「だから父上の代から、少しずつ変えようとしてきた。私も同じだ。だが……」
父は静かに苦笑した。
「凝り固まった価値観というものは、そう簡単には変わらないらしい。父上も隣国から王妃を迎えれば、皆の考えも少しは変わると思っていたらしいのだがね」
父は小さく息を吐いた。
その苦労の理由を、サラも少しだけ知っていた。
強硬派の旗印は、父の異母弟ヘイルト叔父の一族。祖父の第二妃の実家を中心とした貴族達は、今も父達一家を快く思っていない。
祖父ドミニクス王が崩御した際には、父の即位に異を唱える者まで現れたという。
そんな中でも父が王位に着いたのは、祖母の祖国である隣国と、サラの母であるマリアアンシェの祖国の後押しがあったからだ。
叔父達は、他国が干渉してくることを極端に嫌う。
けれど、それはサラには不思議でならなかった。
離宮で飲むお気に入りの紅茶は、東の隣国のもの。王都では隣国の反物や酒、茶葉も珍しくない。
叔父達自身も、それらを愛用している。それなのに、他国の色を嫌い、自国の民でさえ、黒髪黒目でなければ蔑む。
国民のほとんどが黒髪黒目ではないというのに。
サラには、やはり理解できなかった。




